瞼にやわらかな灯りを感じ、緩い瞬きで微睡から覚醒した。
夢の余韻が静かに遠ざかり、四肢の気怠さが払拭されると、右手に握らされた小さな紙片に気付いた。
蒼いインキで記された丁寧な文字は、誠実な人柄を表し、鼻腔をくすぐる仄かな移り香に、心がそよいだ。
短い言葉の行間から、不在の理由が熟眠への気遣いだと読み取り、俺は薄紙にそっとキスをした。
診察の際に預けた携帯電話は、手を伸ばせば届く距離に置かれていた。
出先へ寝覚めの一報を入れようとして、静かに起き上がると、掛けられたブランケットが腰元まで捲れた。
適切な処置のおかげで、苛まれ続けた激痛は随分薄れ、恐らく自力歩行も十分可能だろうと安堵した。
あの力強い腕で護られる理由を失ったことが、少しだけ寂しくて、ふわりとした毛布を引き寄せ、顔を埋めた。
優しい肌触りを頬に感じながら、部屋の其処彼処に残るジノの面影を、ひとつひとつ辿った。
広い室内で、この場所の照明だけが絞られ、シェード越しの幽かな光が、ソファに落とされていた。
洗練されたサイドテーブルには、水差しと焼き菓子が用意され、控えめな配慮が余計に恋しくさせた。
作り付けの本棚に目を遣ると、兵書の他に文芸や画集が並び、高等科の教科書もきちんと収められていた。
上段に仕舞われた黒いヴァイオリン・ケースは、誰かにその腕前を披露したのだろうかと、幼稚な感情を煽った。
長年に亙る往復書簡や微笑ましい家族の肖像、同僚達との、のどかな午後の風景―――。
十日振りに再会して僅かに一日半しか経たなかったが、次々に明かされる別な側面に、少なからず動揺した。
二人を隔てる圧倒的な時間の空白を思い知らされ、悋気や不安がその後に続いた。
衣服さえ乱れていなければ、素敵な昼食を楽しみ、また手を繋いで家路に就けた筈だった。
女性を見送るまでは如何にか凌げた痛みを、誤魔化せないとは思わなかったが、受話器越しに声を聞くと、直立さえ覚束無かった。
傲慢と知りつつも、一秒でも長く、傍で情動を共感したくて、療治を頑なに拒んだ。
穏やかな口調で繰り返し諭すジノの瞳は、怪我を蔑ろにすればする程、より憂いを湛えた。
また俺の我が儘で傷つけてしまったのに、そっと抱きかかえられ、寛容な腕の中で密かに深謝した。
二枚のハンカチと記憶に残るひととき、慈しみの心を犠牲にさせて猶、細やかな親愛の情で包み込んだ。
悪戯っぽく首を竦めたが、注射嫌いは……、案外本当なのかもしれないと、くすり、笑みが零れた。
手元の携帯電話の存在で、連絡するのを思い出した俺は、小型の液晶に表示された時間を見て愕然とした。
既に一日の四分の三が終わり、人の部屋で寛ぐにも程があると、慌ててリダイヤルして耳元に宛がった。
回線は直ぐに繋がり、重機の移動するような音に紛れて、低い艶のある声が、即刻戻ります。と返事を寄越した。
ほっと胸を撫で下ろして電話を切り、ささやかな謝礼に紅茶でも淹れようとしたが、茶葉を迷っているうちに帰着した。
通話が絶えて僅か二、三分後に、ただいま。と元気なおひさまの笑顔で、勢いよく執務室の扉を開いた。
「お、かえ…り……仕事が入ったのか?」
「起き上がっても平気なんですね!安心しました…!!」
パイロット・スーツを着用したジノは、唖然とする俺の傍まで駆け寄ると、躊躇いも無く、ぎゅっと抱き締めた。
正直、病躯には些か堪えたが、良かった…。と何度も髪を透かして届く囁きに、大人しく口を慎んだ。
普段よりも一際身近に感じる体温が、シャツの身頃をひとつひとつ開かれた記憶を甦らせ、心拍が上擦った。
併設された簡易な厨房で、約束どおりババロアを作ったジノは、拝借した調理器具を返却しようと、階下のカフェテリアへと向かった。
其処で会長のフィアンセでもある科学者と鉢合わせ、取るものも取り敢えず、愛機の調整に臨む羽目になったのだそうだ。
似た者夫婦になるだろうな。と嘆息すると、キッチンから戻ったジノは、くすくす笑った。
冷や菓子の完成には未だ時間を要するらしく、代わりに、繊細な硝子の器を手渡された。
文字通り身を投げ打って護った苺は、その甲斐あって傷を負う事も無く、甘酸っぱい香りを辺りに漂わせていた。
家を出てから何も食していないのが、ジノにはとても気掛かりだった風で、デザート・フォークを口に運ぶと、安堵して表情を和らげた。
じっと咀嚼を見守る、母親のような優しい眼差しに、ありがとう。と小声で伝えたら、一寸だけ驚いた顔をされた。
昨日、みんなから言葉にする重要性を指摘されたが、不慣れな事をしたと面映さを感じた。
含羞みつつ、上目遣いにちらり窺うと、やわらかな日溜りの微笑で、俺を見詰めていた。
「十分で済ませるから、待ってて。」
「何も無理に急ぐ事は無いんだぞ?」
「本当は、一緒の時間が惜しくて、離れ難いんですけどね…」
ジノは戯けて片眉を上げ、仮眠室の奥にあるバスルームへと姿を消した。
ドアが閉じると、忽ち部屋は元の静けさを取り戻し、無意識に漏らした溜息がいつもより響いた。
もう半時もすれば、帰宅には丁度良い頃合となり、ご馳走様と左様ならを連ねて発する自分を想像して、哀愁を抱いた。
二人の今日が終わり掛けていたが、幾らかでも罪滅ぼしが出来たのだろうかと、これまでを思い返した。
どんなに些細な事でも素直に喜ぶジノが、切望するものが何かさえ分からず仕舞いで、無為に一日が過ぎようとしていた。
出逢いから積み重ねた日々も虚しく、強く惹かれていながら、底意の欠片ひとつ知り得なかった。
年上の幼馴染なら、或いはそれを……。
身勝手な独り芝居で空回りして、律し切れずに何度と傷つけ、それでも褪せない眩さを、ただ受け止めるだけで精一杯だった。
髪を乾かす音がして、程なく短い湯浴みが了した。
細身の黒いカーゴパンツはすらりとしたラインが綺麗で、アッシュ・グレーの上品なセーターから覗くシャツは、白さが際立って見えた。
最初は昼間と違う着こなしの所為かと思ったが、直ぐに其れだけでは無いと気付いた。
「髪…、編まなかったのか……?」
「時間が惜しい。と、言ったでしょう?」
ひとつに結わえた艶やかな金髪は、ジノが気怠るげに毛先を梳くと、柔らかそうな幾筋かが胸元へと滑り落ちた。
クスと僅かに目許を緩ませる仕草とも相俟って、格段に大人の印象を強め、匂やかな男性の色香に心がざわめいた。
不躾な視線を気にも掛けず、水差しを傾けると、喉を小さく上下させ、無自覚に煽り立てた。
ソファの端に掛けたジノは、肘掛に頬杖を突いて、グラスのエッチングをなぞりつつ、束の間何かを思い悩んでいた。
やがて、弄るのに飽いたタンブラーを卓に戻し、深い溜息が漏れた口許を両手で覆うと、包帯の巻かれた俺の手首に目を遣った。
未だ痛むかと尋ねられ、ゆっくり頭を振って見せたが、ジノは睫毛を俯け、ごめん。と声を零した。
「……え?」
「怪我の原因だと思うと、大変心苦しいのですが、受け取って頂けませんか?……誕生日プレゼント…」
昨日、正直な気持ちを打ち明けて固辞したものの、再度退けるには憚られる、真摯な態度だった。
半ば断られると踏んでいたのか、首肯するとジノは心底ほっとした様子で、顰めていた顔を綻ばせた。
文机の上に飾られたフォトフレームは、初冬に自分が贈ったもので、大切に扱われているのを嬉しく感じつつ、帰りを待ち侘びていた。
外套の隠しから現れた水色の小箱は、世界に名立たる高級宝飾店のもので、俺は流石に狼狽を隠せなかった。
昔の映画で、妖精と謳われた女優が、デニッシュ片手にショー・ウィンドウを覗いていたのを思い出し、ちらりと贈り主を窺った。
二人は単なる先輩後輩の間柄で、しかも俺は、誕生日をひと月も隠し立てした相手なのに、今朝は、素敵な花束を手に駆けつけてくれて……。
「気に入って貰えたら、とても倖せ。」
金銭感覚の違いに戸惑っていると、ふんわりとした微笑で促され、俺は漸く決意を固めて、白いリボンの端を引いた。
蓋を開いて、あ…。と思い掛けず感嘆の声を漏らした。
それは小さな硬貨にも似た銀製品で、表に控えめな刻印があるだけの、極めてシンプルな意匠のブックマークだった。
言葉を失くしたまま逸品に見惚れていると、ジノは反応を誤解して、不安げな色を浮かべた。
「あの…もしかして…、厭だった?本をたくさん読むけど、栞を挟む処は見た事が無くて…それで、」
「ダイヤモンドの指環だったら如何しようかと、一瞬本気で考えた。」
ジノは小首を傾げたが、直ぐに手を打って了解し、仕舞った…。と残念そうに肩を落とした。
読み掛けの頁を記憶するのが習慣となり、自分でも忘れ掛けていた栞の存在を、多分ずっと前から知っていたのだろう。
二人一緒に店へ入っていたなら、きっと俺はジノの気持ちを汲めずに、頑なに拒み続けていた。
「大事に使わせて貰う……ジノ…ありがとう…」
「喜んで頂けて、何よりです。」
優しくされると、秘めた恋心が切なく軋り、感情の決壊を赦してしまいそうで、少しだけ……怖かった…。
穏やかな居心地にすっかり寛いで、隣り合って歓談に興じていたが、不意に違和感を覚えて左目を覆った。
塵が入ったらしく、異物が不快な上に微かな痛みを伴い、俺は目頭を何度か強く擦った。
余程乱暴に見えたのか、慌てたジノから、素早く手を握って止めさせられた。
「睫毛ですね…丁度、目の際に……」
頤を掬い上げて覗き込むと、眦にやわらかな息を吹き掛け、そっと払い落とした。
反射的に瞼をぎゅっと閉じたが、おでこ可愛い。とくすくす笑う声が聞こえて、静かに緊張を緩めた。
微風に掻き上げられた前髪を整えようと、指で額に触れて初めて、其処に負った擦り傷の存在に気付いた。
幸いに小さな怪我のようで、既に凝固した血液の感触が伝わった。
手数を掛けて恐縮だが、簡単な消毒を依頼しようとすると、ジノは何も言わずに傷口をそろりと舐めた。
同じ場所を幾度も掠める温かな舌先は、悪戯に官能をくすぐり、俺は震える軀を深く恥じた。
「…ッ…ジノ……」
制する術が分からず、縋る気持ちで名前を呼んだ。
はっとして退いたジノは、自身の行為に非道く動転した様子で、長い指に唇を押し当てたきり、言葉に詰まった。
「……ごめん…なさい……つい…」
消え入りそうな細い声で、途切れがちに謝罪すると、大きな右手で青い瞳を覆い隠した。
つい……?
心配な余りに取った行動と解釈しつつも、誰かと間違えたのではと、詮無い不安が胸を過ぎった。
「腹を壊しても、責任は取らんぞ。一体、どれだけ有害な細菌が……」
ジノは俺の傷口を避けて、こつりと自分の額を押し当てると、ほっとした表情で吐息を零した。
此れも無意識だと言い聞かせたが、鼻先が触れるほど傍に寄った精悍な面差しに、心が細波立つのを感じた。
薄く開かれた蠱惑的な唇は、どちらかが僅かでも身動ぎすれば、忽ち一層となる近さに在った。
微かな息遣いさえ感じる距離に気付き、俯けた金色の長い睫毛を、戸惑い気味に瞬かせた。
居住まいを正すかと思われたが、ジノはこくんと小さく喉を鳴らしただけで、猶も躊躇って額を離さなかった。
まるで焦らされる様な甘い感覚に、一切の余裕を奪われ、夢みた赫い花弁の端を掠めた。
くちづけと呼ぶには短過ぎる接触を、看過する心積もりでいたのだろうか?
やわらかな下唇に触れた刹那、ジノは静かに瞳を閉じて、我が儘な衝動を受け容れた。
これ以上は言い訳出来なくなると承知で、もう一度。と求める素振りをしても、その姿勢を貫いた。
初めよりも僅かに長く重ねると、動揺して頤を戻しかけたが、明確な拒絶を示す事は無かった。
赦される理由を探る様に、触れた傍から離れる、辿々しい接吻を繰り返した。
「…ル、……」
合間に、切なさを掻き立てる様な声が漏れ、邪魔な言葉ごと、幼いキスの嵐で呑み込んだ。
今だけは…どうか、止めないで欲しい。
「待っ…」
「厭だ。」
浅い呼吸の継ぎ目に拒否し、もう少しだけ…と願って、長い襟足に指を絡めた。
欲深さで、額を背けられる恐怖を隠蔽しようとしたが、半ば強引に傾けた軀は、予期せず重心を失った。
もつれ掛けた一瞬に、大きな腕で痛めた腰を素早く庇うと、自らを下敷きにして、美しい木目の床板に落ちた。
膝の上に載せられた格好で、おずおずと唇を離す俺を、ジノは労わる様にそっと支えた。
激しい羞恥に駆られて、心臓が千切れそうな速度で脈打ち、俯いたまま、注がれる視線を受け流した。
最早、弁解の余地など、何処にも残されていなかった。
ジノはしなやかな指先で、俺の髪を優しく耳に掛けると、そばだてる過敏な器官に、遠い国の言葉を囁いた。
其れは、初めて手を繋いだ二人が、人気の無い校庭で遥かに聞いた、甘美な旋律の原題だった。
―――貴方が欲しい。
翻訳に淡い期待を抱いたが、尊大な解釈は憚られ、蒼穹の瞳に真意を希求した。
見詰め返す最奥で、密やかに揺らめく焔の正体を、渇望した切ない片恋の半身だと信じたかった。
「……ルルーシュ…」
擦れ気味の低音が、狂おしい情熱となって、心を強く掴んだ。
ふわりと贈られた甘いくちづけは、重ねる毎に深さを増して、紡ぎ出そうとする言葉を総て封じた。
手法を模倣しているのだと気付いたが、到底及ばない証拠に、軀の中心が痺れて意識が朦朧とした。
灼熱の接吻を与えられ、項を引き寄せていた五指が解かれると、溜息混じりに名前を呼んだ。
「……ジノ…」
習慣性の強い媚薬の様に、離されると直ぐに禁断症状が現れ、子供みたいに強請った。
獰猛な願いは、慈愛に満ちたくちづけで叶えられた。
もっともっと…と欲しがる心を読み取ると、ジノは最後に、ちゅ。と可愛らしいキスをした。
「余り焚き付けないで……。私だって、ひとりの男で…自制心を繋ぎ止めるのに、困ってしまう…」
「……理性…の殻…なんか…」
本当は、脱ぎ捨てて欲しかった。
だが、ジノは手当ての施された軀を憂慮して、それより先を赦さず、俺の両頬を包み込んで、静かに諭した。
「ルルーシュ…今は、理性で貴方を護りたい。」
「…………独り占め…したいんだ…」
想いの力が羞恥を凌ぎ、初めて本懐を口にした。
束の間目を瞑って葛藤したジノは、ごめん…。と嘆息し、そっと俺を抱き締めた。
「ずっとずっと恋焦がれ続けた……貴方ほど、強く望んだ人はいない。だから、どうか大事にさせて欲しい。…失いたくないんだ……」
真摯な声は、穏やかな響きとなって耳翼に木霊し、俺は素直に頷いて、広い背中をぎこちなく抱き返した。
腕を解くと、ジノは細心して包帯の巻かれた手を取り、指の輪郭をひとつひとつ優しく撫でた。
「次の誕生日には…この薬指と約束させて……」
季節が巡り、新しい冬を迎えれば、二人はまたひとつ歳を重ねるだろう。
ジノは先に俺の歳に並び、十八……結婚を認められる年齢になっていて―――。
「気長な話だ。……そんなに先まで、待っていられない。と言ったら…?」
悪戯心からクスと鼻先で挑発すると、仕置きとばかりに、誓いの第四指を甘噛みした。
白磁のプレートに載った苺のババロアは、予想を見事に裏切る華麗さで、俄かには信じ難い出来栄えだった。
蝋燭は挿せないからと、ジノは歳と数を揃えたアロマキャンドルに、小さな火を灯してくれた。
部屋の照明を総て落とし、幻想的な雰囲気の中で、Happy Birthday,Lelouch.と囁いた声の余韻を、心から惜しんだ。
ジノは木漏れ日の微笑を湛え、静かに指を絡め取ると、祝福のキスをそっと唇に届けた。
優しいくちづけの最中に、言葉では伝え切れない想いを小指に託して、密かなゆびきりをした。