時折雪の舞い散る、寒い二月の或る日のこと―――。
ナイト・オブ・ラウンズ専用の休憩室では、何時ものように、午後の喫茶を楽しむ準備が着々と進められていた。
手際よく席が整えられていく様を、ジノは少し離れた場所から見守っていたが、やがてヴァルキリエ隊所属のマリーカ=ソレイシィの傍へと歩み寄った。
元々、彼女の敬愛する上司と旧知の間柄だったことから交流が始まり、今では先輩格のリーライナも交えて談笑する程、二人は打ち解け合っていた。
ジノは後に付いてテーブル・セッティングを手伝いながら、何か心配事でも?と、マリーカに優しく声を掛けた。
カトラリーを並べていた彼女は喫驚して振り返ったが、一瞬迷っただけで、直ぐに慎み深く頭を振った。
「可愛い女性が溜息ばかり吐いていると、恋の悩みなのかと……」
「違います!私は……あの…いえ…何でもありません。」
「宜しければ、内緒の相談にも乗りますよ?あ、もしかして……ルキアーノから、何か意地悪をされたんじゃ……?」
「ヴァインベルグ卿!ルキアーノ様は、そんな事なさいませんッ!!」
思わず、し。と唇の前で人差し指を立てたジノを見て、言下に反論したマリーカは、はっと口許を覆った。
だが時既に遅く、二人がそっと辺りを窺うと、ナイト・オブ・ワン以下全員が手を止め、事の成り行きに注目していた。
「そんな事……?」
ゆったりとしたソファの背凭れに、両腕を預けて掛けていたルキアーノは、悠然と足を組み替えた。
紫煙を燻らせる隣で、リーライナが困惑気味な眼差しを二人に向けたが、最早それは御馴染みとなった日常の風景だった。
普段ならば、僅かに眉宇を寄せただけで、刹那に相手を射貫く鋭い双眸も、今は苛烈な翳を潜めていた。
その最奥の穏やかな光を知るジノは、全くの無邪気さで嫣然一笑、秘密。と往なして、ルキアーノに片眉を上げさせた。
エスコートされて席に着いたマリーカは、矢張り何処か精彩を欠いたままで、リーライナが宥めても、健気に振舞って見せるだけだった。
左隣のジノから責付かれたルキアーノが質すと、彼女はびくりと軀を強張らせ、うっすらと目に涙を浮かべた。
一堂に会した騎士達は俄かに慌てふためいたが、間に入ったビスマルクの温厚な取り成しで、大事には至らなかった。
彼の豊かな包容力に触れ、それまで頑なだったマリーカは、漸う胸の内を語り始めた。
「実は…近々、兄からバレンタインの贈り物が届く事になっているのですが、それがとても憂鬱で……」
「確か、純血派の中でも有力な将校であったな?」
「キューエル殿は、とても妹想いの優しい方ですわ。」
更に嘆息するマリーカを怪訝に窺っていたビスマルクに、モニカはにっこり、ソレイシィ兄妹の仲の良さは折り紙付きである事を教えた。
傍で聞いていたリーライナも深く頷き、兄の溺愛ぶりに、後輩本人が時折胸を痛める程だと補足した。
「以前、軍位も憚らずにブラッドリー卿に物申して、騒然となった事があったな。」
「あれは中々の見物だった。……特に、仲裁に入ったヴァインベルグ卿が…」
ドロテアとノネットはくすくすと笑い出し、ビスマルクは向かいで肩を竦める二人の騎士を見て、やれやれ。と漏らした。
常々、皇帝直属の地位を自覚するように説いて聞かせてきた彼だったが、教育者としての資質を自問自答したい心境だった。
騒動と聞いて顔を顰めたものの、耳に届かなかったという事は、若気の至りを上手く終息させたのだろうと判じた。
口を噤んでいれば、他を圧倒する風格が漂う二人なのだが。と密かに苦笑し、彼は再びマリーカへと視線を戻した。
「兄が赴任しているエリア11では、バレンタイン・デーに女性が意中の男性にチョコレートを贈って、愛の告白をするそうなんです。」
「チョコレート?」
思い掛けない単語に、ビスマルクは首を傾げた。
彼の知る限り、バレンタインとは、主に男性から女性へ、メッセージを添えた花束等を贈り、好意や感謝の気持ちを伝える日であった。
モニカ達女性陣は、初めて耳にする習慣に興味津々の様子で、是非本国でも採り入れるべきだと息巻いた。
深刻な面持ちを崩さないマリーカによると、元は製菓会社のキャンペーンらしく、この時期は何処も彼処もチョコレート商戦で賑わうのだと言う。
「では、キューエル殿はプレゼントにチョコレートを?」
「はい。……ですが、問題はその量なんです。去年は家族や友人の他に、隣近所の方々にまで御協力を頂いたのですが、それでも優にひと月は掛かりました。」
「まぁ、それは程度が過ぎますわね。」
「今年は何とか阻止しようと、手紙を書き送ったのですが、行き違いになってしまって……」
「悪夢再び…、ですの?」
「マリーカの健康面が心配だわ。」
リーライナの尤もな意見に、誰もが賛同した。
近日中に届く大量の甘味を想像して、マリーカは途方に暮れた。
意気消沈する彼女は、薄着の季節が近い事を気にしているのだと、消え入りそうな声で打ち明けた。
その愛らしい危惧に、見目麗しい女傑達は一斉に手を打って得心し、繊細な乙女心を理解出来ていない兄を厳しく批判した。
男性陣は、異郷の地で妹を想うキューエルを気の毒に感じつつ、賢明にも、この場は沈黙を守った。
受け取り拒否という強硬案も飛び出したが、後日の喫茶に供される事で決着した。
「女の子の悩みって、可愛いな……」
ぽそりと呟いたジノの言葉に、輪を作って歓談していた女性達は敏感に反応し、全員がくるりと彼の方を向いた。
発端となったマリーカは頬を染め、膝の上で両の五指を弄って、ですが…。と返した。
「入隊した時に、ルキアーノ様は華奢な女性が御好みだと……先輩方からお聞きしていましたので…」
共に上目遣いに窺うリーライナの様子から、ヴァルキリエ隊の中では、代々受け継がれてきた重要事項であると容易に推察された。
他のラウンズ達が眉根を寄せる中、ルキアーノは傾けていたカップを優雅にソーサーに戻すと、知らんな。と素気無く一蹴した。
「えぇっ?!」
「違うんですか?!」
「体調管理を怠るなと指示した事はあるが、嗜好を述べた覚えは無い。」
「運動や食事に気を遣ったりして、ずっと頑張ってきたのに……」
「結構な事だ。」
永らく誤解していた事実に、すっかり気落ちしたヴァルキリエ隊とは対照的に、三人の女性騎士達は安堵の表情を浮かべた。
柔肌が大好物だ。と貴重な情報提供をしたナイト・オブ・スリーに、ルキアーノが舌打ちした処で、チョコレートの件は円満解決した。
寒さの緩んだ、2月14日の昼下がり―――。
午後の紅茶を楽しむべく、時間どおりに集った円卓の騎士達は、卓上を埋め尽くす夥しい甘味に、感嘆の声を上げた。
専用ラウンジには、凡そ思い付く限りのチョコレート製品が所狭しと並べられ、さながら見本市の様相を呈していた。
毎日の喫茶にも、数種類の焼き菓子を用意する程の彼らは、この僥倖を大層喜んだ。
ジノは、舌の上でゆっくりと解ける一片の濃厚な味を堪能した後、或る感興をそそられ、右隣のルキアーノを熟視した。
「ルキアーノ。」
「………何だ?」
幾分落ち着いた声が、却って相手を警戒させてしまったらしく、ルキアーノは返事こそすれ、左を見向きもしなかった。
ジノが青い瞳をキラキラさせて見詰めているのを、彼は経験則から知っていたが、そんな時は大抵厭な予感が当たるものだった。
ルキアーノは平静を保ち、洗練された完璧な所作で、風味豊かな紅茶を口に含んだ。
「愛しているよ。」
「…ッ…ゴホ…ッ」
温かな琥珀色の液体が気管を駆け抜け、ルキアーノは唇を指先で覆い隠し、一頻り咳き込んだ。
涙目でジノを睨み付けたが素知らぬ風で、傍にいた女性達は顔を見合わせ、直球に弱いみたいですわね。と密めいた。
「一生大切にするから、其処のチョコレート・フォンデュを取ってくれ。」
「…………御丁寧に。」
「チョコバナナ希望。」
ルキアーノは呆れて二の句が継げず、手前に置かれた串刺しの果物を、ぞんざいに焦げ茶色の噴水に浸した。
普通に頼めば良いものを。と、子供みたいに目を輝かせるジノを一瞥したが、ふと過去の記憶が甦った。
彼は持っていたフォンデュフォークを引き戻し、甘味が滴る先端にそっと息を吹き掛けてから、柄を差し向けた。
幼少の頃は、猫舌で幾度と無く苦い経験を重ねたジノに対する、ささやかな配慮だった。
未だ微かに蒸気が上るフォークを、ルキアーノは手渡すつもりでいたが、予想に反して、相手は直接果実を食んだ。
瞠目している間にジノは上品な咀嚼を終え、美味しい。と、ふわり微笑を湛えた。
胸を撫で下ろしたルキアーノは、制服の内隠しから取り出したハンカチで、あどけない口端に残るチョコレートを素早く拭った。
それをまた几帳面に畳んで元に仕舞うと、彼は面会の約束を理由に退席した。
終業時刻を過ぎても、ルキアーノは上申書の作成に専心していた。
先に帰宅を許されたリーライナとマリーカは、上司が一晩をこの執務室で過ごすと見越して、軽食を拵えた。
二人が、後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にしようとした時、入れ代わる様に、身支度を整えたジノが立ち寄った。
事情を聞いたものの、大事な用があるから。と、ルキアーノの業務が完了するまで待つ心積もりを明かした。
少女達を見送った後、ジノは勝手知ったる友人の書架から一冊を取り出し、ソファに寛いで頁を繰った。
ルキアーノは最初にちらと視線を向けただけで、二人は会話も交わさないまま、銘々の時間に没頭した。
時計の針が随分進み、ジノは読み終えた本を棚に戻すと、ケトルを火に掛けた。
磨き上げられたシンクの前で、同じ手順で何度も淹れた珈琲の香りを、永遠に肺の奥に留めておきたかった。
二人の懐かしい思い出は、歳月に蝕まれる事無く、三年の空白が猶更、忘れ得ぬ日々を鮮明に感じさせた。
再会を果たす為に、敢えて軍籍に身を置くと決意したジノにとって、彼らが騎士として最高位に在る現実は、皮肉にも思えた。
実力主義の頂点であればこそ、ナイト・オブ・ラウンズは絶えず生命の危機に曝され、殉職を最大限回避する事も、重要な責務として課せられた。
何時また空席が増えても不思議ではない状況と、永く続いた不在の日々から、ジノは昔馴染みの傍で過ごす至福のひとときを、何よりも渇望した。
珈琲茶碗の縁に唇を添えようとしたルキアーノは、漂う芳香が何時もと違う気がして、眉を潜めた。
躊躇したものの、見遣った相手から純真無垢な瞳でにっこり返されると、彼は素直にそれを傾け、喉をこくりと上下させた。
一服盛ったジノは、瞬きさえ忘れて覗き込んでいたが、正体に気付いたルキアーノの様子に顔を綻ばせた。
二口目を見届けると、上着のポケットから、掌に収まる程の小瓶を取り出して、種明かしをした。
「チョコレート・リキュール……」
「褥に誘惑するには、些か不足。」
「……え?」
「冗談だ。」
媚薬(ショコラ)はもう二度と御免蒙る。とルキアーノは戯けて肩を竦めたが、ジノは彼の中に、昔
日の葛藤が残した爪痕を読み取った。
「十字架にはしない約束。……憶えていないのか?」
「…………あの時は、お前を散々泣かせたからな。」
「心を痛めた筈だ。」
真っ直ぐに見詰める清澄な空色が、総てを寛容していた。
ルキアーノは降参して溜息をひとつ吐くと、ソファから離れ、執務机の抽斗から、丁寧に包装された小箱を投げて寄越した。
両手で優しく受け、淡い色のリボンをするりと解いたジノは、精緻なチョコレート細工の一輪の薔薇に、忽ち目を奪われた。
匂い立ちそうな完成度の高さに驚嘆していたが、同封されていた二つ折りのカードを開くと、言葉を失い口許を覆った。
伏せた睫毛を震わせて、蒼インキの細文字で綴られた一言を、ジノは何度も何度も読み返した。
ルキアーノが再び隣に腰を落ち着けると、どうか直接聞かせて欲しい。と小声ながらにせがんだ。
彼は困惑して束の間逡巡したが、真摯な眼差しに折れ、静かに重心を左に寄せた。
短い囁きを白い耳朶に伝えると、ジノは稚い子のように彼の首に縋り、ありがとう。と抱き締めた。
幼少の名残を感じさせる仕草に、ルキアーノは柔らかな金色の項髪をそっと撫で、深い慈しみで応えた。