ゼロレクイエムの完遂によって、魔王と綽名され、悪逆皇帝として歴史に刻まれたルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが滅してから、季節が一巡り
した。
あの事変は確かに世界を変革し、旧来の憎しみの連鎖を断たれた人々の頭上に、未曾有の『明日』をもたらした。
新時代の黎明は、誰にとっても希望に満ちていた訳ではなかったが、回り続ける時計の針の前に、皆、否応無く一歩を踏み出さねばならなかった。
戦火に見舞われた帝都の復興は、在位中に迅速に行われ、かつての居所を再建する際に多少の間取りを変更したものの、外観の美しさは当時のままだ。
アリエスの離宮の回廊に響く靴音が近付いて来るのが、最奥に位置するこの部屋からも聞こえていた。
許諾も得ずに第一の扉を潜ると、厳重なセキュリティを次々にパスして、漸く対面が果たされた。
毎夜、決まった時間に黒い仮面の男は現れた。
―――結果的に、スザクは俺を生かした。
その真意は今も聞けずにいたが、望んだ結果が得られた事には違いなく、俺はそれを不問に付した。
スザクはゼロとしての政務を終えると必ずこの部屋に立ち寄り、一日の報告をしたり、昔の思い出話に興じるなどして、他愛のない時間を過ごした。
公式記録上、死亡扱いとなった俺達の事を知るのは、シュナイゼルを始めとする僅かな側近だけだった。
当然に他者との接触は極端に制限され、俺とスザクは互いに相手の空虚を埋める役割を担った。
仮面とマントを脱いだスザクに紅茶を振舞い、今日はどんな話題が飛び出すのかと、ささやかな期待を胸に俺は腰を下ろした。
いつもの様に黒い手袋をしたままカップを傾け、一度喉を潤すと静かにソーサーに戻した。
深緑の瞳が向けられ、スザクは何事かを逡巡した後に、ルルーシュ。と口を開いた。
「ジノに逢いたい?」
直截な一言に俺は思わず息を詰め、それが意味する答えを、スザクは瞬時に悟った。
世界から隔絶されて以来、二人の間では、名前さえ口に上るのを憚り続けた存在だった。
敵軍の将と知りながら惹かれ、想いが叶っていながら、大義の前に欺いて裏切った。
騒乱後の起居を問うなど、瓦解させた立場からは筋違いというものだった。
「『明日』という言葉を使う時に、人はより良い未来を想像するものだと思うんだ。」
スザクは十指を組み、穏やかな表情を浮かべて語り始めた。
俺は手元の琥珀色の液体に目を落とし、今尚、鮮明に思い出される眩しい金髪と抜ける空色の瞳を脳裏に映した。
「ゼロレクイエムは世界に新しい『明日』を引き連れて来た。だけどジノは、どう転んでも結果的には君を……恋人を失う未来と知りながら戦い続けて……」
「あの時、『明日』を創造できたのは俺達だけだったし、その選択を悔いてはいない……」
「愛する人を犠牲にして、君はそれで本当に良いの?」
「スザク。俺はもはや過去の人間だ。」
その為にも、俺は死を選んだ。
激しい憎悪ですら時間の波に忘却せられて、続く長い道を共に歩むべき伴侶と手を携えて、進んで行けるだろう。
俺とでは成し得ない未来を、ジノなら築ける筈だと信じている。
「ルルーシュ……僕は友人として、君達の幸福を願わずにはいられない。」
「俺に倖せになる権利など、」
「あるさ。」
優しいけれど芯のある強い声で断定され、ユフィはスザクのこう謂う所を愛したのかもしれないと思った。
恋仲になるには未だ時間が足りずにいただけで、ギアスが暴走しなければ、あのような悲劇で二人が裂かれることも無かった。
加えて、『明日』と引き換えにゼロとして生きる事を強いて、スザクの総てを奪った。
俺は、自らが創り上げた新世界の枠の外で永訣の朝を迎えるまで、業火の責め苦を甘受せねばならないのだ。
「僕がゼロとしてジノと面会したのは数える程度だけど、彼は何時でも助力を惜しまなかった。君を殺めた僕にさえ、優しく微笑んだ。
だけど、ルルーシュ……僕は彼の笑顔の中に、癒える事の無い深い悲しみを感じる。時間だけなら、僕は君よりも長く彼と居たから。」
俺はスザクと同じに紅茶を一口飲んで、瞳を伏せた。
高台から崩れ落ちる寸前に目にした拘束衣のジノは、驚愕と激憤が入り混じった様に歯を喰いしばり、多分、そのまま最後まで見届けた。
絶命したと、思っただろう。
「もう一度、聞くよ。ルルーシュ……ジノに逢いたい?」
俺は緩く頭を左右に振った。
あれから一年。
難儀の後に取り戻したろうジノの平穏な生活を、再び掻き乱す積もりは寸毫も無かった。
「君は嘘吐きだね。でも、嘘が下手だ……」
スザクは頬杖を突くと、そんな泣きそうな顔をして。と長嘆した。
「僕は、『間違った方法で得た結果に意味は無い。』と言い続けてきた。だから、こう思う。ジノが君を忘れる為に、君の死を受け入れるなんて、端から無理な
相
談だ。」
「……………」
「ルルーシュ。君の中にも、まだジノへの想いは残っているね?」
あの輝かしい日々こそが、たった一つの生きる道標だった。
たとえ終生憎まれたとしても手放せない記憶だからこそ、俺は翡翠色の目を見て首肯した。
「僕の知るジノのままなら、もう直ぐ庭園に来る頃だ。」
スザクは紅茶の香りを楽しみながら、人払いを命じておいたよ。と莞爾として言った。
歴代の皇帝陵を破壊した俺の墓は、ナナリーの意向でこのアリエスの離宮が誇る庭園の湖畔に設けられた。
竣工後に発表されたが、狂王の遺体が晒されるのを憂慮して、近親者以外には公開されていない。
話によるとジノは官許を得ていたが、庭園はおろかこの離宮にさえ足を踏み入れたことが無かった。
日付が変わったとはいえ深更に違いなく、幼馴染から渡された蘭灯は心許無かったが、俺は歩を早めた。
スザクの言葉に夢を見たかった。
ただ、それだけだった。
息を乱して目指した先に、幽かな照明を受けた懐かしい背中が佇んでいて、俺は想い掛けずその場に止まった。
欠乏していた酸素が体内を駆け巡り、呼吸は平静に戻ったが、極度の緊張に鼓動が乱打した。
喪服姿のジノは、百合の花束を持ったまま身を屈めると、墓碑の傍らにそれを手向け、刻まれた銘を指でなぞった。
―――膝を折って祈りを捧げる姿に、静謐な時間が流れた。
ジノは再び立ち上がると、十字に組まれた墓標にそっとくちづけた。
それは二人が別れる際にいつもしていたのと同じ、おやすみのキスだった。
俺達の都合が夜に集中した所為で出来た習慣が、さようなら。と、一度も口にさせなかった。
こんな時になって思い至った事実に、俺の足は音を立てぬよう細心して、柔らかな芝の上を漸う進んだ。
だが、十二分な距離を保っていたにも拘らず、忍び寄る気配を感付かれた。
踏みしめる靴音へと傾けられた耳に、俺は何度も何度も仕舞い込んできた優しい響きを、口にした。
「ジノ……」
ゆっくりと此方を振り返ったジノは、突然の邂逅に喫驚し、両手で口元を覆った。
一年を経て対峙した二人の間を、秋の夜風がそよと吹き抜けた。
痛みを堪えるかの如くに眇められた瞳に、淡い水色の煌きを認め、気付けば俺は駆け出していた。
抱き留められた腕の温もりと変わらぬ柔らかな香りに、夢なら醒めるなと願った。
「ジノ…ジノ……ジノ………」
掛けるべき言葉は何も出ず、唯々その名を繰り返した。
ジノは廻した腕を更に寄せて応え、髪にキスを落とすと、ルルーシュ。と囁いた。
「お願いだ……せめて、夜が明けるまで逝かないでくれ…」
声が、震えていた。
天蓋付きのベッドに腰を下ろすと、ジノは徐に小首を傾げて、触れてもいい?と聞いた。
含羞を押して頷くと、指先が遠慮がちに頬を撫で、首筋を伝って鎖骨の上で止まった。
「傷痕……見せて欲しい。」
シャツのボタンに手を掛けて一つ一つ外すと、胸部に残る小さな痕が露わになった。
外科手術の甲斐あって、大剣に貫かれた当初に比べれば、その名残は無いに等しかった。
あの時は痛みよりも衝撃の方が強くて、刺されたと実感して程なく意識が混濁した。
目覚めて直ぐに凄惨な傷口を見て、死に損なったと苦笑した。
説明を受けたジノは、ありがとう。と言って、シャツの前身頃を閉じた。
居住まいを正して向けられた青い双眸が、誠実さを物語っていた。
「もう一度逢えたら、伝えようと思っていた事があったんだ。」
「実は、俺もお前にしなくてはならない話がある。」
きっと同じ文言だと直感した俺達は、コツと額を合わせて、くすくすと笑い声を洩らした。
ジノの右手が襟足に触れ、それがくちづけを強請る時の癖だと了解していた俺は、ささやかな希望を聞き入れた。
唇を離すと、もっと。と項を押され、再度重ねると、深く情熱的な接吻が幾つも戻ってきた。
キスの嵐に翻弄されつつも、黒いネクタイを解きに掛かると、ジノは驚いて、俺のその手を握り締めた。
悩まし気な艶を帯びた瞳を見詰め返せば、強く抱き竦められた。
二人は不確かな何かを逃すまいと指を絡め合い、短いが、この世で最も貴い言葉を掠れる声に乗せた。
それはまるで追放された楽園へ舞い戻る為の甘美な儀式のようで、俺はジノの腕の中で、世界に受け入れられた事を知った。
軋るベッド。
シェード越しの灯。
衣擦れの音。
一つになった二人の影を、夜半の月が優しく見守っていた。