01. 福音

或る麗らかな春の午後―――。
いつもの時間よりも少し早く紅茶に誘われたジノは、後ろ手にそっと扉を閉じつつ、部屋に漂う甘い焼き菓子の香りに、ふんわり微笑んだ。
筆頭と第十席が未だ揃わなかったが、既に喫茶の準備は万端整い、本日も円卓の騎士達のささやかな羽根休めを期待した。
窓際のソファには穏やかな陽射しが降り注ぎ、腰掛けた美しい同僚達の談笑の輪に加わろうと、ジノは優雅な足取りで奥へと進んだ。
彼女達はにっこり歓迎してくれたものの、一同に柳眉を寄せては深い溜息を吐き、怪訝そうに小首を傾げる騎士に事訳を打ち明けた。

「実は、今月中旬に控えたルキアーノ様のお誕生日について、皆さんと相談していたのですが、重大な難問に突き当たって仕舞いまして……」
「如何にも困り果てて、親交の深いヴァインベルグ卿の御力添えに与りたいと、御足労をお掛けした次第です。」

グラウサム・ヴァルキリエ隊所属のリーライナとマリーカは、小さな白い手を祈るようにぎゅっと握り合わせ、戸惑う青空色の瞳を一途に窺った。
二の足を踏んでいると、円卓の女性騎士達から、大好きでしたわよね?と白桃のコンポートを載せた皿を勧められ、大袈裟に肩を竦めて降参した。
ほっと安堵の胸を撫で下ろす五人の様子に、些か緊張の面持ちで居住まいを正し、ジノは親友を巡る議題に耳を傾けた。





永年に亙り軍事の一翼を担ってきた名門ブラッドリー家の総領は、かつて将軍職に在った祖父から武芸の手解きを受け、幼少より刮目に値する才を見せた。
高等科から飛び級して籍を得た最高学府の医科を、凡そ半分の年数で卒業し、士官学校の門を潜った彼は、当然に軍医としての将来を嘱望された。
学科はほぼ免除となり、実技では専らKMF操作技術の習得に勤しみ、一月半で教練担当者の技量を追い抜いて、三月目には従軍し勝利に貢献した。
冷酷非情な戦法は軍内で物議を醸したが、褒賞には一瞥も呉れず最前線に身を投じ続け、終には実力至上主義の皇帝直々に、純白の燕尾服を下賜された。
望む順位を尋ねられ、忠誠を約束し難いとして末席を即答し、謁見の間に居並ぶ名士達を騒然とさせたのは、二十歳も終わりの事だった。
ナイト・オブ・ラウンズに就任後は、専用機の開発と整備の為に数名の部下を擁し、彼が一つ歳を重ねた後に、ヴァルキリエ隊の編成が行われた。
その翌年は、敬愛する上官の誕生日を華々しく祝福しようと、配下の美少女達が大いに意気込んでいたものの、凱旋直後に休暇を取得して大層落胆させた。



「昨年は本当に残念で、ヴァルキリエ隊の士気は暫く落ち込みました。無遅刻無欠勤に感嘆しておりましたが、まさか有給休暇を申請なさるなんて……」
「ルキアーノ様の予定を一月先まで確認致しました処、今年は間違いなく登庁されます!是非とも盛大にお祝いを!!」

きつく拳を握り締めるリーライナとマリーカのつぶらな瞳には、並々ならぬ闘志が漲り、ちらと見遣った可憐な同輩達も賛成の気配。
ジノは冷たい果実を盛った白磁の皿を、行儀良く膝の上に置いたまま、優しい心遣いを阻む問題とやらが想像出来ず、思案顔をした。

「ヴァインベルグ卿が第三席に叙任せられて、円卓の騎士達の距離は格段に近しくなりました。揃って午後の紅茶を楽しめるほどに。」
「以前は滅多に御一緒出来なかったヴァルトシュタイン卿とブラッドリー卿だが、今では多忙な公務の合間を縫って、お越しになる。」

貴卿のお人柄だな。と、やわらかな微笑みを湛える女性達に、ジノは丁寧に編まれた金髪を幾度も振って謙遜した。
ナイト・オブ・トゥエルヴによれば、其れ迄は事務的な会話を淡々と交わすのみで、殉職者の絶えない組織の連帯感は極めて希薄であった。

「親睦が深まったとは言え、ブラドリー卿は大変気難しい御方……御自身の誕生会に、果たして参加なさるでしょうか?」
「ブリタニアの吸血鬼と綽名される人物が、嬉々として列席するとは考え難いな。」
「年齢からすれば、恋人と過ごす可能性も充分に考えられる。」

ドロテアの尤もな一言に頷いたのはノネットだけで、ヴァルキリエ隊とモニカは、まさに青天の霹靂といった様子で、はたと動きを止め、恋人…。と呟いた。
ジノは漸う彼女達の気掛かりが主賓の承諾と解したが、最早論点は心腹の友の女性関係へと移り、五人は丸い瞳を煌かせて真相を迫った。

「ヴァインベルグ卿、ルキアーノ様には…その、本当に…意中の方が居られるのでしょうか?」
「直属の部下として日々お傍で務めて参りましたが、恥ずかしながら、そうした素振りには全く気付きませんでした……」

肩を落とすリーライナとマリーカに狼狽したジノは、昔馴染みではあるものの、八つも歳の離れた自分には、与り知らぬ事情だと打ち明けた。
訝しげな視線を受けて、束の間記憶の糸を手繰り寄せてみたが、ルキアーノが誰かに熱中した例など、一度として見受けられなかった。
出逢った時には、既に名家の当代として数多の羨望を集め、多少辟易しながらも気紛れに逢瀬を重ねつつ、人々の独占欲を巧みに躱した。
何人にも懐かない彼の気質は昔のままで、三年振りに再会した後も、立ち入った話は自然と憚られた。

「特別な人は、いないのでは……?」

正直な見解を述べたジノだったが、リーライナとマリーカは一層深く意気消沈して肩を寄せ合い、モニカは花の顔を僅かに顰めた。
ドロテアは呆れた風にひとつ大きな嘆息を零し、ノネットは蠱惑的な唇の端を悪戯っぽく吊り上げ、きょとんとする歳若い騎士に、別な質問を投げ掛けた。

「特別ではない相手なら、居るという事か?」

失言にはっと口許を覆ったものの、即座には否定出来ず、えっと…。と健気に言い訳を考える様に、女性達は堪え切れず一斉に噴出した。
ジノは真っ赤になって前言を撤回しようとしたが、ナイト・オブ・テンの些か乱れた風紀は周知の事実で、庇い立ては容易無かった。





折しも其処へビスマルクとルキアーノが登場し、午後のラウンジは、いつもより一際賑やかな歓談の声に包まれた。
不思議そうに顔を見合わせる二人のもとへ、軽やかに歩み寄ったリーライナとマリーカは、女性達を代表して、上官に恭しく誕生日の予定を尋ねた。
来る華やかな催しに、胸をときめかせていた愛くるしい部下達だったが、前後数日の出張が決定したとの知らせを耳にするや、じわりと淡色の涙を浮かべた。
直ぐ隣で窺っていたビスマルクは、宥めて聞き出した日にちと、つい先程自分が依頼した第二皇子の護衛の日程との重複に、戸惑いの色を見せた。
他の騎士達も気落ちした様子で、見兼ねたジノが代役を申し出ると、ナイト・オブ・ワンは困惑気味に、当初は第三席を所望されたのだと明かした。

「では、どうぞ私に御命じください!」
「ヴァルトシュタイン卿に無理をお願いしたのは、私だ。」
「え…?」

懇願を制されたジノは、唇の微かな動きだけで、如何して?と、立ちはだかるルキアーノに真意を問い質した。
真っ直ぐな空色の瞳に折れ、ヴァインベルグ家への義理立てだ。と溜息混じりに告げられたが、余計に混乱して頭を抱えた。

「どうしても任務に就くと言うのなら、バスルームの三羽は、強制退去の憂き目を見ることになるな……」
「えぇ!!」

御気の毒に。と意地悪な微笑を向けられて、今し方まで泣き崩れそうだった配下の二人はジノ同様に、或いは彼以上に愕然とした。
昨年の晩秋にナイト・オブ・スリーが購入したビニール製の水鳥の親子は、彼女達によって“あひるき隊”と名付けられ、上司の浴室で破格の待遇を受けてい た。
路頭に迷う三羽の姿を想像したリーライナとマリーカは青褪め、ラウンズ二人を相手に、妥協案を提示して懸命の説得を試みた。



三者の相容れない議論を傍観していた円卓の騎士達は、困りましたわね…。と漏らしつつ、携帯電話を操作し始めたモニカ=クルシェフスキーに注目した。
小さな電子機器に詰め込まれた膨大な登録者リストを凝視していたが、やがて目当ての番号に辿り着くと、端末を白い耳翼にそっと宛がった。

「先方に、譲歩の余地が残されていると幸いなのですが……ロイヤル・ガードで手を打って頂けないか、伺ってみましょう。」

よもや帝国随一の策略家と交渉するつもりかと、皆は嫣然とする彼女を取り囲み、スピーカーから響く呼び出し音に息を呑んだ。
程無くして回線が繋がり、モニカは電話口に出た人物に向かって、大層親しげな口振りで話し掛けた。

「こんにちは、マルディーニ伯爵。御機嫌いかが?」

じっと見守っていたビスマルクは安堵の胸を撫で下ろし、身を乗り出して聞き耳を立てていたドロテアとノネットは、拍子抜けしてクスと笑った。
ルキアーノの背後に隠れていたグラウサム・ヴァルキリエ隊は上司の顰め面に慄き、真横に立っていたジノは、そんな彼を腕組みした肘でこつりと嗜めた。
モニカが護衛の件を切り出すと、リボンで巻かれた金色の毛束が靡くような大音量で、何ですって?!と皇子の側近は声を荒げた。
内密な要請だったらしく、受話器の向こうでは、副官が大変な剣幕で騒ぎ立て、ナイト・オブ・トゥエルヴは相槌さえ儘ならずに、当惑して肩を竦めた。
静かに傍寄ったルキアーノ=ブラッドリーは、彼女の手から通信機を取り上げると、黙れ。と冷ややかな声で姦しい相手を一蹴した。

「宰相殿は御不在か?ならば言伝を。如何に帝位に近かろうと、玉座に無い者は護らぬ。それが、帝国最強の騎士団たる我等の矜持だ。」

伯爵の沈黙に暫く耳を傾けた後、グローヴを嵌めた長い指で通話を切り、持ち主にそっと手渡した。
彼は第三席の騎士と二人の部下を振り返ると、居候の世話は御断りだ。と素気無く言い放ち、大窓を開錠してテラスへと出て行った。
黄色い水鳥の安泰を手に手を取って喜んだ少女達は、三人の女性騎士の援けも借りて、親切な上官の誕生会を綿密に計画立てたのだった。
ジノは白い背中の後に続いて踏み出し、そよぐ梢の下で気怠げに一服するルキアーノに、ありがとう。とやわらかな微笑みを湛えた。