08. bittersweet

別れた十数分後、約束した噴水の傍に先輩の姿は見当たらず、私は大人しくその場で一時を過ごした。
商業施設の中は多くの買い物客で賑わい、時折、迷子を知らせるアナウンスが流れた。
此処でただ待つのに飽いて、別のフロアを覗いているのだろうと思っていたが、大きな柱時計が正午を知らせても、再会は果たされなかった。
二人が手を離してから小半時間が経ち、胸騒ぎを覚えた私は、杞憂と願いつつダイヤルを廻した。
宛がった携帯電話からは、単調な呼び出し音だけが響き、静かに刻々と焦燥感を駆り立てた。
行き違いになるのは避けたかったが、折り返しの連絡を期待して、一旦屋外に出た。



人通りの絶えない表を窺ってみたものの、矢張り恋しい面影は無く、結局、最後に一緒だった地点まで戻った。
当然の様に、其処は既に雑踏に紛れ、私は息吐く暇も忘れて、先輩が立ち寄りそうな場所を、片端から捜し歩いた。
擦れ違う華奢な黒髪に振り返り、往来に面した店先で足を止めては、似通った服装に落胆した。
殷賑な街中で逸れた相手を掴まえるのは、広大な砂漠の中から、一粒の至宝を見つけ出すのと同じくらい、困難に思えた。
尤も、それで諦めきれる半端な情熱など、端から持ち合わせておらず、寧ろ、或る種の闘争心に火が点くのを感じた。
捜索範囲を広げようと奮起した、丁度その時、上着のポケットから細かな振動が伝わった。
私は電話の発信元を想い、安堵の胸を撫で下ろした。





指示された歩道橋は、二人が別れた交差点から、少し離れた場所に掛かっていて、幸か不幸か、利用する人の姿は、全く見られなかった。
もどかしい段差を一足飛びに駆け上がり、通り向かいへと渡ろうとした視線の先に、ようやく捜し求めた人影を認めた。
此方を振り返った先輩は、だがしかし、階段を降り切る間際で、手摺から伸びる柵に凭れ掛かる様に座っていた。
強い違和感を抱いた私は、急いで折った細身の傍に寄り、常からは到底信じ難い、目の前の状況を把握しようと努めた。
膝を突いて、下からよくよく窺ってみると、上着の左袖には泥汚れが付着し、其処から伸びる白い繊手―――。

「怪我、してる……」
「あ……これは……」

私の言葉で初めて気付いたのか、擦過傷を負った左手を咄嗟に引っ込めたが、せがむ気配を感じて、素直に掌を差し出した。
手の窪を取り囲む様に、路上の凹凸が浮き彫りになり、散らばる細かな擦り跡からは、うっすらと血液が滲んでいた。
砂埃を軽く払っただけで、先輩は苦しげに柳眉を寄せた。
その不自然さが引っ掛かって、無傷に見えた手首をそっと掴むと、忽ち青褪め、素人ながらに捻挫と知れた。
私は上着の隠しから、先程購入したばかりの真新しいハンカチを取り出し、その端を裂いて患部を保護した。
斜め方向に中途まで裁った余り布を、包帯の要領できつく巻いている間、先輩は僅かに顔を顰めて、痛みを遣り過ごした。



話に因ると、私が先輩の元を離れて直ぐに信号が変わり、急ぐ後姿を見ながら、ちょっとした時間稼ぎに、此処の橋を渡ろうと考えた。
混み合う歩道と違い、利用する人も疎らだったが、あと数段で下り終えるという時に、背後に衝撃を受けてそのまま地面に転落した。
右手に持っていた荷物を庇った所為で、受身を取れなかったものの、幸いに目立った外傷は無かった。
衝突してきた相手は転倒を免れ、どうにか階段途中で踏み止まる事が出来たが、事態を上手く呑み込めずに半ば呆然としていた。
被害を蒙った先輩が宥めて、落ち着きを取り戻したと聞き、私は流石に怪訝な表情を隠せなかった。

「話を最後まで聞け。相手は女性で……、その…お腹に子供が…」
「…え……?」
「人ごみを避けて此処を選んだ迄は良かったが、足許が見辛い様子で……踏み外したのは、全くの事故だった。」
「……成程。」
「だから…逆に俺の方が心配だったんだ。精神的なショックが、悪い影響を及ぼすかもしれないと、……まるで、自分が父親のような心境で…」

ほんの少しだけ含羞んだ先輩は、とても穏やかな目をしていて、傍に居る私までもを、優しい気持ちにさせた。
いつもいつも、自分の事は二の次で……、密かに憂慮しつつも、その不器用さが猶更愛おしかった。

「大事無いと言われたが、万が一の事を考えて、病院で診て貰うように頼んだんだ。お前からの着信に気付いたのは、車を見送った後だった。」
「其処までは、納得がいきました。」

溜息と共に話を区切ると、先輩はその後を敏感に察知して、応急処置を施した左手を緩く握り締めた。



私が駆けつけた時、ほっとして微笑を湛えたものの、ぎこちない身動ぎで、鉄柵に一層重心を傾けるのを見過ごせなかった。
ほっそりとした体躯を検分すれば、衣服の乱れから負傷は容易に想像がついたが、程度を質せば誤魔化されると確信した。
怪我には一言も触れずに、短い言葉だけで呼び寄せ、漸く繋がった回線をあっさりと切った。
加減を問われると承知していながら、それでも先輩は告白を敬遠し、私は黙認を期待されていると感じた。
左手の挫きを凌ごうとして歪めた、蒼白な顔が思い浮かび、隠し立てする意図は読めても理解に苦しんだ。
私の見立てでは、恐らく左下に転落した際、腰骨を強打して背筋に響き、立ち上がる以前に、姿勢を正す事さえ敵わない。
胸元に寄せた上腕は著しく泥にまみれ、或いは肩を廻すだけで、激痛に身悶えし兼ねなかった。

「……病院へ行きましょう。」

最優先させるべきは適切な治療であり、当然に共通認識との前提だったが、私の率直な進言に先輩は難色を示した。
躊躇いがちに、大丈夫だ。と返答したきり頑なに沈黙し、反駁に備えた。
どう言い訳した処で怪我の事実に変わりはなく、私は成る丈穏便に事を運ぼうと、余計な詮索を抜きに、繰り返し説得を試みた。

「一息吐いたら、脱力感に見舞われただけで…大袈裟な話ではない。」
「その手首、骨折の可能性も否めません。専門医の指示を仰ぐべきです。」
「今の時間帯は、何処の病院も昼休みだ。午後からの診療を待つよりは、家に戻って……」

先輩は其処で言葉を詰まらせると、睫毛を伏せ、外での食事が困難になった事を、消え入りそうな声で詫びた。
遣る瀬無さに嘆息した私を見て、もう一度静かに謝り、慰めるように小首を傾げ、……ジノ。と呼んだ。

「……苺は…無事、だと思うが…」

胸を締め付ける健気さに、私は切なく眉宇を寄せる以外の術を知らなかった。



幾ら諭しても先輩は首肯せず、堂々巡りに態度を硬化させていった。
終には、苛立ちを滲ませた冷ややかな笑みを浮かべ、強い拒絶を示した。

「厭だという理由だけでは、不満か?」

濃紫の双眸は怒気を孕み、相容れない押し問答を、これ以上続ける意味を失った。
我が儘なら幾らでも赦すのに、それよりも大切な願いは、斯うして腕を擦り抜けていくのだ。

「……貴方を想う人達の悲しみも、考慮して頂きたかった。生徒会の面々は勿論、たった一人の御家族は、さぞ胸を痛めるでしょう。」

激した感情から急速に醒めた様子で、唇から最愛の妹の名が零れた。
立場を弁えて口を噤むと、遠慮がちに右手を伸ばして、跪く私の頬に優しく触れ、漸う虚勢の殻を脱いだ。





手配した車が到着すると、先輩は鉄柵を頼りにゆっくりと立ち上がったが、痛みが駆け巡るのか、浅い呼吸に肩を上下させた。
苦悶に顔を顰め、覚束無い足取りで低い階段を一段降りた処で、憚りつつも、細心して極力そっと抱き上げた。
嫌がって多少は暴れると思われた先輩は、喫驚したものの、何処か甘えるように軀を預けた。
私はそのままの格好で車に乗り込み、走行時の微かな振動から病身を護った。
半時にも満たない移動の最中、二人は会話よりも、静やかに流れる車窓の風景を眺めていた。





政庁に到着すると流石に狼狽して、腕の中から訝しげに私を窺った。
怪我の具合は不明だが、病院まで赴いて、午後の診療を待つ余裕など無いと判断した。

「総督府には医務官が常駐していますから、其方に頼んであります。」
「職権の乱用ではないのか?」
「寧ろ、軍職の第一義です。」

不思議そうな面持ちで反芻する様を、微笑ましく思いながら、私は足早に処置室へと向かった。
途中、黒髪の間から覗く耳朶に、過剰包装された小さな果実よりも、遥かに大事だと伝えると、身を捩る素振りで恥らった。



先輩は、存外素直に医師の診察を受けた。
指示されて上衣を開ける際は、左手が不自由な所為で、ボタンが思うように外せなかった。
難儀を見兼ねて申し出ると、小さく頷いて許諾し、着替えを手伝われる子供のように、私の指の動きを注視していた。
脱衣までは求められなかったが、左袖は抜かなければならず、慎重に手首を覆う布端を引いた。

「……ぅ……ぁ…ッ…」

患部が露になるに連れ、それまで奥で噛み殺していた声が、漏れ聞こえた。
息を呑む程たおやかな白い肌には、痛ましい打撲傷や摺り痕が其処此処に見受けられた。
触診の間、先輩は傷口から目を逸らし、無意識に私の手を握って、治療の緊張を逃した。
診察が下肢に及ぶと、憚って背を向けようとする私に、一瞬だけ不安そうな顔を覗かせた。
耳をそばだてて肩越しに窺いながら、ふと上着の裾を掴まれる感覚がして、不謹慎にも頬を緩めた。
詳しい検査の末、一両日中は安静に。の言葉と共に療治を終えた医官は、身支度を整える先輩から、さり気無く私を引き離した。

「ヴァインベルグ卿、これを……」

渡された錠剤は、鎮痛薬だと聞かされた。
怪訝に相手を見据えると、大変強靭な精神力をお持ちです。と少し困った風に言い、腰細の美貌を一瞥した。





総ての喧騒を遮断する様に、重厚な執務室の扉がゆっくりと閉じ、二人だけの小さな世界が創られた。
安静を厳命された先輩だったが、隣接する仮眠室に運ぼうとすると、私の胸板に一層身を寄せて不承知を示した。
私は診療最中の怯えた風情を思い出し、壁際のやわらかな座り心地のソファの上に、そっと病躯を横たえた。
勝手に連れて来られた見知らぬ部屋での独り寝は、垣間見える不安定な心理状態には酷と言うものだった。
艶やかな髪を撫でて微笑みかけると、先輩はほっと息を吐いて、美しい瞳の奥を寛げた。
処方された薬に添付された注意書きには、食前服用の文字が朱で記され、昼食を摂り損なったのを、此れ幸いと喉を上下させた。
時計の針は間も無く午後三時に達し、私は階下のカフェテリアに、喫茶の準備を依頼した。



負担を軽減する為にクッションを整え、しばらく休むように言い置いて、傍から離れようとすると、先輩は慌てて私の袖口を掴んだ。

「ジノ…さっきは……その…、強情な態度を取って、申し訳無かった……」

首を傾げる私に、橋で…。と付け足し、切なげに長い睫毛を俯けた。
最終的には医師の診断を仰ぐことが出来、それで満足だったが、欲を言えば、訳を聞かせて欲しかった。

「二人だけで出掛けるのは初めてで、……期待して、昨夜はなかなか寝付けなかった。本当は呼び鈴が鳴るのも、…待ち切れずに、いた…。約束の時間を気にし て、全速力で駆けつけてくれたのに、その貴重なひとときを、病院の待ち時間に費やすのは、どうしても厭だった。」

其処で言葉が途切れ、先輩は長嘆すると、胸の内を整理するように、一度瞼を閉じた。
転落は全く不測の事態であるにも拘らず、自分に非があると断じていた。
終日を共に過ごすと決めたばかりに、激痛を耐え凌ごうとしていたのだと知った。

「折角、思い出に残る誕生祝いを。と言ってくれたが、くだらない意地を張った所為で、……台無しに…」

独りにさせていたら、悲しみが頬を伝って落ちただろう。
今でさえ、沈黙に慄いているのを必死で隠そうと、自ら華奢な両腕を抱き締めていた。

「え、そうだったんですか?!てっきり注射が怖くて、駄々を捏ねているんだと思っていました。」
「注…射?」
「私も針を刺される瞬間は、目をギュってしちゃうから、御心中をお察しすると、無理強いも可哀想だと……」

先輩は可愛らしく口を小さく開けて、不思議そうに二、三度瞬きし、いや…。とか、…あの。とか言い掛けた末に、とうとう噴出した。
私の大好きな屈託の無い笑顔で、静寂に包まれた部屋の雰囲気を、ふわりと和らげた。

「残りの時間で、素敵な一日に……」

くすくす笑いながら、先輩はこくりと頷いた。



「あ。」

温かなカフェラテを用意して戻ると、ふかふかのクッションを胸に抱いて、気持ち良さそうに夢の世界へと旅立っていた。
薬の副作用かとも思ったが、満ち足りた倖せな寝顔を、心から寛いでいる証拠だと受け取っても、赦される気がした。
怒涛の半日に疲れ切った今は、ただ、そっとしておいてやりたくて、私は静かにその場から離れた。
執務室の中央に置かれた机に座り、時折白皙の美貌を窺いながら、目醒めるまでの時間の使い道を思案した。
私は二客の珈琲茶碗を交互に傾け、密やかな片恋を想った。