「本日、円卓の第三席(ナイト・オブ・スリー)を拝命致しました、ジノ=ヴァインベルグです。」
筆頭に伴われ、帝国最強の騎士団居並ぶ大会議室に足踏み入れた煙る金髪を、十番目に腰掛けた上級将校は内心複雑至極に見遣った。
叙任式を終えた直後の真新しい制服姿は、未だ背丈越されはしなかったが、均衡の取れた体軀は柔靱さ窺え、騎乗すれば卓越した技量発揮し、兵略にも長じて居
ると上層部でも専らの評判。
嘗ての色濃い軍閥政治の名残から、今日日兵籍得たる既得権益層も少なくは無いものの、流石は名門と讃えるべき優雅な所作で、深緑の外衣羽織る正装こそは円
卓に名を連ねるに相応と謂えた。
凛々しく成長して猶変わらぬ蒼穹の瞳に、在りし日の面影を逸早く感知しては時間の堆積を想い、八つの歳の差を物ともせず、僅か三年で対等な立場に追いつい
た少年から視線逸らせた。
散会告げられた室内は緊張の空気も幾分緩み、古参騎士達と丁寧な挨拶の言葉交わして居た歳若い彼は、懐かしい日溜りの笑顔浮かべて心持ち足早に近寄って来
た。
「ル、」
「円卓の第十席(ナイト・オブ・テン)…ルキアーノ=ブラッドリーだ。宜しく、ヴァインベルグ卿。」
差し出された右手に明瞭な狼狽の色刷いたジノを見て、士官学校を首席で卒業と聞き及ぶも、心理戦は不得手の様子。とルキアーノは胸の内密やか苦笑した。
袂別から長の歳月経て漸う再会果たし、旧交を温める心積もりで居た新参の騎士は、思い掛けず出鼻を挫かれ、気落ちした面持ちで握手に応じた。
「…此方こそ、宜しくお願い致します……ブラッドリー卿。」
たった其れ丈の至りて簡潔な挨拶を交わすと、取り付く島も無く優雅に身を翻し、十番目の騎士は部屋を後にした。
振られた格好となった金髪の少年は、何ら感慨示さず容易く離された掌を握り締め、憂いに柳眉寄せて溜息を吐いた。
「気にする事は無いぞ。ブラッドリー卿は、誰にでもあんな感じだ。」
「ラウンズの中で一番、気難しい御方です。」
途方に暮れて東雲の後姿消えた扉を見詰める彼を、円卓の第九席(ナイト・オブ・ナイン)と末席(トゥエルヴ)が気遣うと、然うですか…。と萎れ声、小さく
肩竦めて其の場を遣り過ごした。
三年と謂う月日の重みを、ジノは痛切に感じた。
出逢った当初のルキアーノ=ブラッドリーは、鋭利な牙を剥く撓(しな)やかな野獣其のものだった。
軍閥担い続けた由緒正しい家柄、絶世と讃えられた母親譲りの貌立ちと、騎士の鑑と名を馳せた父の聡明さ、彼自身が纏う破滅と頽廃は社交界を忽ち虜にした。
夜毎繰り広げられる舞踏会では、洗練された着熟しから物憂い所作に至る迄もが憧憬の的であったが、冷淡さ際立つ気性に臆して誰もが自制の道を選んだ。
五年遡った初秋の晩、十も離れた仲兄が気紛れで末弟を夜会に伴ったりしなければ、遠からぬ将来、二人が会釈を交わす以上に至る事も無かったであろう。
光と影或いは太陽と月…外構えからでは相反する印象の二人は、引き合わせた名家の次子当人の豫想を鮮やか裏切り、邂逅から軈て歳の差厭わず交誼を結んだ。
逢えぬ時には手紙を書くと約束して幾千と認められた書簡箋、子供に合わせた手繋ぎの散歩、密か奏でられた優しい旋律、聊か危険な夜遊び、何度と移り馨にして持ち
帰った仄かな沈丁花…。
歳下の静養主眼とする分家での養育と、先々軍役に服す歳上の進路が二人を別つ事となったが、少年は囁かれた最後の言葉唯一つを心の糧に、長い荊道を耐え凌
いで今日日に至った。
夢現冀(こいねが)ったいま一度が叶う迄に三つ歳(とせ)を要したものを、橙髪の幼友達は昔日を忘却したかの如く往なし、以降も凡そ得心し兼ねる素気無い
態度を貫いた。
吸血鬼と綽名される酷薄非情な彼故、傍目には邪険な扱いと映らなかったものの、二人に職務以外の会話は無く、刹那も視線合わさず、適当な言い訳拵え、極力
居合わせる事を避けて過ごした。
ルキアーノの態度は最早理不尽な暴力でしかなく、敬遠の理由質す術さえ持たぬ儘日捲り丈が破られたかに見えたが、深層に於いては、両者は自身の投影と熾烈な駆
け引きを続けて居た。
ルキアーノの峻烈な拒絶に翻弄されて、半月が過ぎた。
或る麗らかな日の午後、ジノは士官学校時代の同期数名と昼食を摂る為、階下のカフェテリアへと向かった。
部署によって色も意匠(デザイン)も異なる帝国軍の官服の中で、煙る金髪の少年が纏う純白の其れは、何処其処でも羨望と称讃の眼差しを受けた。
世界に君臨する超大国最強の騎士団に名を連ねれば、否が応でも畏敬の念を抱かれたが、彼の明朗快活で人隔てぬ稟性と天真爛漫な笑顔に惹かれ、周囲には自然
と朋友が集った。
八つ歳上の幼馴染の事で著しく食欲を落として居たジノだったが、気が置けない同窓生等の御陰で、久々の気晴らしと栄養を得られる事が出来た。
然し彼が手にした盆(トレイ)窺えば、成長期の活発な代謝に応えるには到底及ばない量であり、当然に充分な滋養は望めず、友人達は挙って心配顔を向けた。
秀麗な円卓の第三席は、新境地に不慣れな所為だと心苦しい言い訳述べて、数多寄せられる気遣いに深謝した。
「あ!ジノ、彼処に座って居られる方…円卓の第十席(ナイト・オブ・テン)のブラッドリー卿では?」
向かいに腰下した知人が指差す先を振り返ると、近からぬ場所で橙髪の彼が、直属部隊の軍衣を凛と着做した美少女二人と、末席預かる同僚交えて掛けてい
た。
ルキアーノは、然も詰まらなさ気に昼餉を口に運びつゝ、楽しげな御喋り興じる彼女達と時折二、三の言葉挿み、其の一角からは鈴の音想わす笑い声が聞かれ
た。
其れが彼にとっての日常と思い知っては居た堪れなくなり、極々僅か手を付けた丈、眩い金髪の少年は仲間達に非礼詫びて、円卓の騎士各々に認められた執務室
続きの一人部屋へと戻った。
後ろ手に扉を閉めると最早落胆を隠せず、眉間に皺寄せて、深い溜め息零れ落ちた口許を覆った。
週末毎の逢瀬を待ち切れず認めた稚い時分からの文通いは、三年前の分岐、何れ軍籍得る身故に返信を約束し難いと、歳上の方から予め断りを申し添えられた。
高貴讃える淡紫の瞳微か眇め、片道を承知の上、褪せぬ崇敬と友愛を書綴る一途な内奥洞察しては、手許辿り着いたなら必ず封蠟解くとPinky
swear(小指の誓い)を交した。
真摯に投函され続けた書簡は終ぞ返しを受けなかったが、晩秋訪れる度、少年の誕生祝す逸品が歳上の後見人名義で贈られた。
十字の細紐掛け緩めれば、時を得て確か歳下の援けとなる洗練された一流、内折りに然り気無さ感じつゝも、言祝ぎの右上傾いだ流麗な筆蹟を至福と感じた。
署名無くも八つ歳離れた幼友達自身の厳選と感知したが、念願叶い長々空白経ての再会、嫌厭の姿勢に祈りと情愛緘した夥しい親書の不達を想った。
最上の軍位を拝して以降、三食は疎か睡眠さえも細切れては数日来微熱燻るも、護符の様に内隠し忍ばせた解熱剤(アスピリン)を服用する気力さえ削がれた。
せめてもの気休めに純白の中衣(ウェストコート)迄を吊るしに掛ければ、假寝には豪奢な誂えの臥榻(ベッド)、長い金色の睫毛伏せて直ぐに記憶が途絶え
た。
眠りの深淵に落ちた円卓の第三席(ナイト・オブ・スリー)が、額にひやり冷水の感触覚えて薄ら覚醒すると、寝台脇に見知らぬ少女が腰掛けて居た。
不摂生からの熱帯びた起抜け、視界同様に朧な記憶と思考が目紛るしく騎士の脳裡駆け巡り、漸う此処が自身に下賜された閨室、昼食も殆ど手付かずの儘褥に
潜った処迄を了解した。
「き、み……は……?」
唇も喉奥も渇き切り、如何にか擦れ聲放った。
養生等閑にした付けが回れば、火照った軀は鉛の重み、柔靱な四肢の感覚は鈍り、枷留めの咎人と密か自嘲した。
褐色の髪の乙女は愛くるしい瞳向け、未だ御無理を為さらないでください。とやわらかな微笑み顔を向けた。
「私は、円卓の第十席(ナイト・オブ・テン)…ルキアーノ=ブラッドリー様の直下組織グラウサム・ヴァルキリエ隊所属のマリーカ=ソレイシィです。」
軍上層にも才色兼備な女性騎士団と評される部隊名を耳にして、第三席は、昼時カフェテリアで橙髪の隣に居た彼女の姿を思い出した。
「ルキアーノ様に報告して参りますので、今暫く其の儘御待ち頂けますか?」
「ル、キ……ノ?」
「はい。大変ご心配を…」
話の道筋が読めず混乱に澄んだ碧眼瞬けば、少女は病身を労わる優しい聲音、丁寧な語り口調で続けた。
「午後の豫定を組替え、執務の合間を縫って自ら献身的な看病を。吃驚頻りの私達でしたが、ルキアーノ様から御二人が旧知の間柄と伺って納得が行きました。
練達した手際とは裏腹に、焦燥の翳が垣間見え、其の御貌付きさえ稀でしたのに…濃やかな介添えに、屹度大切な御方なのだろうと、配下は皆、日溜りの様な温
かさを感じて居た処です。つい先程迄此処に居られたのですが、今は調整のため機関へ…」
ヴァインベルグ卿のお目醒めを心から喜ばれるでしょう。と莞爾言い残し、マリーカは嬉々と敬愛する上司の許へ伝達に向かった。
事態を殆ど把握出来ない乍らも、先ずは枯渇の喉に潤みを求めて見廻せば、漸く左腕に注入管(カテーテル)を認めて愕然とした。
咄嗟枕下忍ばせた銀時計弄(まさぐ)れば、文字盤は十九時過ぎを指し、午後から次の戦線に向けた会議に出席する筈だった彼は、慌てて起き上がった。
心得無いものの、悠長に落ちる薬液の針を聊か乱暴に引き抜こうとしたが、其れは直ぐ様、黒手袋嵌めた長く撓やかな五指に阻まれた。
「何の真似だ?」
艶帯びた凛冽な聲の主は、淡紫の双眸細め不埒見咎めたが、冷酷な空気とは逆しま、慮ってすらり真中指で病躯の鎖骨を敷布に押倒した。
「か……ぎ、が」
「そんなもの、疾うの昔に終わった。」
素気無く言い放ち、今し方迄可憐な部下が掛けていた椅子にぞんざい腰下ろすと、掛布に紛れた濡れ手拭を氷水張った琺瑯の中に落とした。
彼は中指の先咥えて手袋外し、三つ揃えの羽織を脱いで袖捲り、ひやり綿織絞って少年の露わな細首潜む血脈の熱を鎮めた。
側置きの卓上、銀盆に置かれた氷塊を長針(アイスピック)で砕くと、一欠片を萎れる騎士の潤み喪った唇の上、そっと左右滑らせ嗄れの出処に捧げた。
口腔に含めば凝固した水は忽ち姿無くし、慈雨となって旱魃の声帯を癒した。
橙髪の第十席は、白い咽喉が微かに上下するのを見届けると、また氷の塊破壊して、艶消えた口唇の薄皮憚りつゝ次を宛がった。
ルキアーノは不精の風情で同様の手順を幾度も踏んだが、鋼(ニードル)穿つ音はすれど氷片は微塵も飛び散らず、其れでゐて面取り済の適度な一口を寄越し
た。
三番目の騎士が満足すると、歳相応の柔らかさ残る少年の腕を掴み、漸う薬剤注ぎ終えた注射針を、聊かの躊躇いも無く抜いた。
黄金色の前髪を撫ぜる仕草で払い、まるみ帯びた額に掌載せて微熱の範疇と判じるや、褥との隙間から逞しい片腕滑り込ませて病臥しの鎖骨端抱き、ゆっくり上
体を引き起こした。
重ねた枕(ピロー)に病軀静か凭せ掛けると、橙髪の騎士は書類綴(ファイル)を手渡し、代返済みだ。と淡白な一言も、やゝの呆れ貌。
再会から暫くを経て漸う時機を得たジノは、手間掛けを詫びてから、ありがとう。と歳上の親切に素直な感謝を伝えた。
標題に目を遣れば、午後に豫定していた会議の資料に相違無く、美しい右上傾ぎ鋭い細字の走り書きが、各頁に記された。
邂逅は未だ十に届かぬ秋初め、煙る金髪の少年が人怖め忘れ寄添った所以、端正な名家の長最奥秘めたる繊細な本然の、侵蝕免れ今日日不朽の気高さと感取し
た。
「礼には及ばぬ。今回の件は、私にも責任があるからな。」
「……え?」
「見掛け無いと思ったら、食事も睡眠も碌に取らず、連日演習に明け暮れて居たそうだな。」
其れは、せめてもの自己防衛だったのだ。
頑なに硬化した八つ歳上の幼馴染相手、若輩の自分が公私の場で物申す事も憚られ、假に然うした処で事態は愈々惡化する丈と容易に知れた。
三年の月日を掛けて漸う円卓に同席出来る迄になったジノは、身に覚えの無い嫌疑と敬遠を黙々甘受し、真新しい制服に袖通し続けた。
就任直後から着手された専用機(ナイトメア)開発も初期段階の完了間近となり、度重なる試乗と細々の整備に当事者として立会臨めば、ひととき憂慮を封印
し、気付けば技術部に常詰めとなった。
「自己管理も出来ぬ弱卒など、有事には使えん。」
辛辣な言辞に最早申し開きも敵わず、三番目の騎士は十指を重ねて儚い溜息吐き、長い睫毛を俯けた。
「だが、私の態度も少々大人気無かった。」
若しも此の場に橙髪した騎士の同僚や部下が居合わせたなら、全員が今の一言に瞠目しただろう。
冷酷非情な“吸血鬼”の異名を持つ円卓の第十席(ナイト・オブ・テン)が、同じ円卓の上位を預かれど、歳若な第三席に謝罪の意を示すなどとは、誰彼にも信
じ難い光景と謂えた。
其れは当人にしても同様、此れ迄散々責め苦を与え続けてきた既遂犯からの唐突な終結宣言に、薄く唇開いた儘二の句が継げなかった。
ルキアーノは悠々組んだ膝の上に頬杖を突き、調子に乗って虐め過ぎた。とぽそり洩らした。
「……え?」
混乱気味、点となって居た蒼穹の瞳が蝶のように瞬いても、先程と同じ言葉を繰り返す以外の術を知らなかった。
少年の喫驚振りに彼は悪戯気、片眉上げて斟酌の匙加減に苦慮したと肩を竦めた。
「別離から三年…かつての誼を溶暗するには至適と諒解した。私との交際で、ヴァインベルグ家は大分体裁に瑕を付けたからな。」
…non.と熱帯びた悲しみ聲で、緩々頭の左右。
昔日に盟友契った歳上の、情熱既に幽けき儘燃え止しならば、今ひとたびの薪爆ぜを冀(こいねが)った。
両家が陰日向となって力添えした刎頚の交わりも、序章は由緒正しい一門周辺を少なからず騒がせた。
相手は今猶才色兼備な華冑界の寵児であったが、当時から血筋家柄顧みず、酒や煙草は勿論の事、凡そ子供の御遊びには過ぎた真似も平気で遣って退けた。
複雑な家庭環境の鬱憤晴らしと控えめに解釈しても、左様な悪童と関われば歳下の健全な精神蝕まれると当然の危惧を、深窓の令息は莞爾悉く一蹴した。
慎ましい文通いから軈て初戀想わす秘めやかさに耽溺、上流階級の嫉妬と羨望が遂に姦計弄したなら、然しもの歳上も八つ差慮って断絶を心積もり。
稚い少年は便箋一葉僅か数行認められた別れの言葉に悲嘆して、只今同様の衰弱に屋敷中が右往左往、仕舞には父たる家長自ら請願に足を運んだ記憶は、未だ色
褪せぬ儘だった。
「お前が士官学校に上がったと仄聞した時は驚いたが、先々は事務方に就くものだと…本式に軍籍を得る事は勿論、よもや円卓に同席する迄とは想定していな
かった。」
「……………………」
「他に幾らでも身の処し方はあった筈だ。」
ヴァインベルグ家は優秀な文官を数多輩出してきた帝国の一翼、ルキアーノは腕組みして大息吐き、…Why?と眉間に微か皺寄せ囁いた。
比類無き才能と血の滲む努力で以て旧友に並ぶ軍位を得たが、仄めかされた真意に居た堪れず、そろり頤俯けて十指を絡めた。
「かつての誓約を、最早白紙の心積もりか?」
艶帯びた中低域、煌く金髪の歳若い騎士は刹那言葉を喪い、眶に薄ら嘆きの色讃えつゝ、二度三度と重ね顎振って不本意を訴えた。
昔日、最も崇高な情動を神の教唆と嘲って、永遠に心掴んで離すな。と蜜の呪縛唯一つを、稚い少年の反証挙げる手立てに赦した。
「私より先に逝けば、其限り叶わぬものを…」
ルキアーノは腕組みした一方を精悍な下顎に添え、そろり唇撫ぜては、戦場では流石に護り遂せぬ。と嘆息混じり隔意設けた本意を呟いた。
再会の瞬間から長く忖度し続けた歳上の胸中明かされれば、円卓の第三席は愁眉開いて、押し寄す感情に両手で口許を覆った。
「…君に逢いたかった。」
想い焦がれた不在の三つ歳、告白したなら気持ちの決壊を憚って、十の誕生日に贈られた銀無垢の懐中時計を手の窪に収めた。
内側刻まれた真摯な献辞其れ丈を慰めに、目蓋に鼓膜に幾度と甦る別れの情景、最後の言葉を追憶しては、如何にか孤独を遣り過ごした日々。
「慎んで摂生し、恙無く時を過ごせたならば転地は意味を失い、早々本家に連れ戻すとの約束だった…私は父の言葉を信じて、一意専心療治に努めた。」
「当初は二十歳迄を見込まれて居たと記憶するが?」
「其れは怠惰と謂うもの…蒲柳の質を覆せたなら、巡る季節を君の隣でと切に願った。或る時、戯れと断って旧型に騎乗した処、アスプルント伯の御目に留ま
り、直ぐ様宰相閣下に推薦された…黙して背中を押して呉れた両親の為にも文武勤しんだが、軍位を賜ったのは僥倖。籍を同じくすれば、一層君の許へと心逸りを覚えた。」
未だ微熱燻る患い身、言葉数過ぎて息切れから咳続き、咄嗟に頤逸らせた。
陰潜めた筈の虚弱に隙を突かれて羞恥し、覆い隠した五指の下、唇噛んで俯いたなら、歳上は其れと気付いて白皙の頬そろり撫ぜ窘めた。
「今と為っては、時計の針を巻戻す事も敵わないのか…ルキアーノ…君が心底私を疎んじて居るのなら、躊躇わず身を引く構えだ。…もう、私が…厭か…?」
末尾は慄いて喉奥引き攣れ、荊鞭で打たれる罪人然ながら目蓋きつく閉じて、返しの言葉に耳欹てた。
少女と見紛う可憐な幼少期から、撓(しな)やかで颯爽たる騎士へと美しく成長遂げた歳下の幼馴染を、橙髪の紳士は密か見蕩れて嘆息吐いた。
眉目秀麗な円卓の第三席(ナイト・オブ・スリー)を誰人も看過出来よう筈は無く、老獪な誘惑を憂慮すれば奈落、聊かでも災禍の火の粉散らせるのなら、他人
の素振り貫徹と思ひ定めた。
「…如何様にも、内奥偽れぬ。昔日、稚い心の枯渇を危惧するほど恣に堪能も、猶中毒して餓(かつ)えた。厭と謂えば、嘘に成る。」
緩々長い睫毛仰げば縹の慧眼、虚無と自嘲し終幕迄の暇潰さえも辟易して居た歳上の彼を、一夜で跪かせた高潔さは聢と其処に揺らめいてゐた。
少年が絶えず黙示した尊い情動の極みに、三つ歳空白の果て今一度(ひとたび)強く搏たれ、不滅の証左を感受した。
「心、軀…其の総てが私の中核を惹きつけ、片時も離さぬ。」
何れ丈惡徳に染まろうと、眩惑斷じて最期迄逸らされず、やわらかな木漏れ日の微笑と秘めたる情熱で、本髄を見抜かれるのだと諒解して居た。
才穎なる歳上の彼をして、欲しくて堪らない…。と焦燥含んだ艶声で渇仰の言辞、慎ましく揃う指先掬い上げ、白い甲に尊崇の赫い唇を捧げた。
繊手捕らえ接吻の儘、蠱惑な瞬きしてちらり上目遣いすれば、煙る金髪の騎士の一驚喫して薄紅、愈々の煽りに翻した楓の窪も深々甘美を刻んだ。
「ルキアーノ…ずっと、ずっと君を想い続けて、私は…わたし、は…」
別れの汽笛を合図に離された手、過行く客車見送る歳上の幼馴染、何時何時迄もと囁(つゝめ)いた心の紐帯唯一つに縋った日々―――。
寂寥といふ名の枷赦されて暁に翼、漸う齎された穏やかな光に眶の露ぽつと伝えば、すらり長指絡めて病躯引寄せ、白皙のまるみ帯びたる額にくちづけた。
立ち籠める馨しい沈丁花に綯交ぜの感情氾濫し、逞しい鎖骨下に黄金の前髪埋めたなら、十番目の騎士も心弛び、か細き項撫ぜて耳殻の尖りに孤独な歳月仄めか
した。
気配感じて少しく身動ぎすれば、親許引き離される子供の其れ、戦慄いて東雲の項髪に腕(かいな)廻した少年を優しく宥め賺した。
俯き加減の幼貌を両手に包んで掬い、撓やか親指の反りで潤んだ眦そっと拭って、密やかな閨室の這入り口を意味有り気に見遣った。
訝しんで睫毛下瞬かせる歳若い騎士に、聊かの顰め面して唇に人差し指、ルキアーノ=ブラッドリーはゆらり席立ち、執務室へと続く木目を乱暴に開扉した。
戸越し不意打ち掛けられ、耳欹てて居た彼の配下と同僚ほか諸々の関係者達は、雪崩を打って黒長靴の足許に倒れ込んだ。
「絶対に敵わぬ…私を掻き立てるのは未来永劫、唯一人……」
小聲呟き、自嘲の嗤いくすり零した。
病褥に視線翻せば、萬来に喫驚しつゝも温かな日溜りの微笑湛える金髪の騎士。
「ジノ、事後処理の全権をお前に委ねる。」
溜息混じり、肩竦めて部屋の主に然う謂い残すと、円卓の第十席(ナイト・オブ・テン)は制服の抜け殻纏め掴んで、悠然と寝室を後にした。
こつり長靴の一足毎見送り遂せば、詰め掛けたる千客、銘々場都合悪げに顔見合わせ、辿々しく気遣いの言葉を円卓の第三席(ナイト・オブ・スリー)に贈っ
た。
臥榻座しの病窶れ構わず、厚情に深謝して見舞客招き入れたなら、軈て明るい談笑のさざめき執務室の外まで響かせて、通掛かった誰彼も目許緩めた。
小さな鈴の音にも似た歓談の輪、煙る琥珀髪の少年は、耳殻に木霊する艶帯び聲の、三つ歳振り名前呼びした事実を想い、そろり睫毛を俯けた。