約半月に及んだ外遊からジノが帰国したのは、日付が変わり、大晦日(ニューイヤーズ・イヴ)の
夜半を過ぎた頃だった。
体内時計を調整するには些か不十分な休息から醒めると、朝まだきの静寂に包まれた執務室で羽根ペンを走らせた。
クリスマス休暇返上で職務に当たっていた彼のもとに、家族から心温まるカードが届いたのは、先週初めのこと。
誕生日以来永らく本宅から足が遠ざかっていたが、報告書を提出して賜暇が許されれば、早々にも懐かしの我が家の門扉を潜るつもりでいた。
いつも再会を心待ちにしている母は、きっと驚いて言葉を失くすのだろうと想像し、束の間口元を綻ばせた。
庁舎内は交代制ながら長期休暇の最中で、普段より閑散としていたことが幸いして、ジノは集中力を削がれる事無く精励した。
銀時計の針が半日進み、ようやく目途が付いた処に、執務室の扉をノックする音が響いた。
応答すると、ナイト・オブ・トゥエルヴがにっこりと顔を出し、軽食を乗せたトレイを見せて休憩を提案した。
食事を摂る間も惜しんで机に向かっていたジノは、彼女の気遣いに感謝してペンを置いた。
中華連邦から戻ったばかりだと話すモニカは、格納庫内で整備を受けるトリスタンを発見して、帰還したジノを慰労しに訪れたのだった。
彼女は淹れたての温かな紅茶を差し出しながら、残務整理の進み具合を尋ねた。
「報告書は八割方片付いたので、後は未裁決の書類に目を通して……」
それから……と続けようとしたジノの言葉を遮るように、モニカは盛大な溜息を吐いた。
きょとんとする瞳には確かに疲労の色が伺えるが、本人にはその自覚が無いらしく、彼女は密かに微苦笑を浮かべた。
不在にしていた半月の間に積み重ねられた案件の山は、それだけで優に三日は掛かりそうな量だったのだ。
「微力ながら、お手伝いさせて頂きますわ。」
「とんでもない!お心遣いには深く感謝しますが、クルシェフスキー卿は帰国直後。どうぞ大事を取ってお休みください。」
「…………モニカ、です。」
「え?」
「ヴァインベルグ卿がナイト・オブ・ラウンズになられて随分経ちますが、未だに同僚達を名前でお呼びになられません。打ち解けて頂いて無いのでしょう
か?」
「誤解です!私は一番年少ですし、何かと経験不足で……」
「旧知の間柄とはいえ、ブラッドリー卿だけファーストネームでお呼びになるなんて、ずるいです!」
「は?」
「決めましたわ……今日は私、ここに残ります。ヴァインベルグ卿の信頼を得る為なら、残業も厭いません!」
そう断言すると、モニカは未処理分の書類の山を半分奪い取って応接用の卓に置き、ソファに腰を下ろすなり真剣に精査し始めた。
呆気に取られていたジノだったが、それが強引を装った親切な申し出であることに気付くと、素直に感謝を口にした。
「ありがとう……モニカ。」
彼女はちらりと顔を上げると、早くお帰りにならなくては。と優しく諭して、再び紙面に目を戻した。
二人は心地良い緊張感の中で、黙々と事務処理に専念した。
モニカが一区切りつけた時には窓の外はすっかり闇色に包まれ、数日来降り積もった雪と相俟って、一段と真冬の厳しさを感じさせた。
彼女は裁決済みの書類をナイト・オブ・ワンの元へ届けた後、ジノに断りを入れてから、ナイト・オブ・ナインに電話を掛けた。
聞かれても構わない話なのか、席を外そうとするのを止めると、モニカは声の調子を変えることなくノネットと話し始めた。
耳に入る言葉の端々から、二人の間に食事の約束があったことが分かり、彼女は予定の時間に遅刻すると連絡したのだった。
モニカが電話を切るとジノは帰宅を促したが、大丈夫だと笑顔で言い切り、また書類整理に取り掛かった。
申し訳なさで顔を曇らせたものの、彼女の意志は固く、どうやら仕事が片付くまで本当に残業しそうな様子だった。
ラウンズとはいえ、うら若い女性を遅くまで引き止めておくのは心苦しく、ジノは一刻も早く残りを捌いてしまおうとペンを執った。
それから約一時間後―――。
ジノの執務室は女性達の常春のような談笑の声に包まれ、部屋の主は多少圧倒された観を呈したが、勤勉な姿勢はそのままに、和気藹々とした雰囲気を享受して
いた。
モニカが電話を終えて程なく扉を叩く音が鳴り、ナイト・オブ・フォーとナイン、ヴァルキリエ隊のリーライナとマリーカが雪崩を打って押し寄せてきたのだっ
た。
聞く処によると、今夜は女性陣だけで集まって一年を締め括ろうと企画していたが、発起人のモニカが遅れると聞いて加勢しに来たのだと言う。
「ヴァインベルグ卿のお誕生日を思い出しますね!」
リーライナの明るく弾む声に、ジノは先月の今時分、バースデー・ケーキと共に突如訪れた賑やかな歓談のひと時を回想した。
彼は温かさで満たされた記憶を懐かしみ、見事な焼き菓子を提供してくれたドロテアに、改めて感謝の言葉を述べた。
ジノの一言で先日の様子を思い返した女性達は、天啓を得た様に顔を見合わせ、悪戯な微笑を浮かべた。
「あの時の計画、覚えていらっしゃいますわよね?」
勿論。と強く念を押したモニカの言葉に、他の四人は深々と頷いたが、ジノだけは展開について行けず一人蚊帳の外で窺っていた。
謂う処の『計画』が何であるかは不明であったが、見目麗しい五人の女傑達が、兎にも角にもそれを実行する気でいるのは間違いないようであった。
「今回は、私達がして差し上げます!」
「今回は、我々がして頂く!」
前者はヴァルキリエ隊の二人で、後者はドロテアとノネットなのだが、矢張り話の筋は分からなかった。
小首を傾げるジノに、モニカが嫣然とした笑みを向けた。
「お忘れですか?ヴァインベルグ卿は、ご自分のケーキに載っていた苺を、手ずからブラッドリー卿の口許に差し出されました。」
「え?!私が、そんな事を……?」
「なさいましたわ、ごく自然に。」
「それをルキアーノ様は召し上がりました。」
ごく自然に。と全員から口を揃えて言われ、ジノは赤く染まった頬を両手で覆い、必死に記憶を辿ったがどうにも思い出せなかった。
要するに彼女達の『計画』とは、リーライナとマリーカが上司に直接何某かを食べさせ、ドロテアとノネットは彼から食べさせて貰うと言うものだった。
「折角ですし、予定していた慰労会を此処でいたしましょう!男性陣もご参加頂けると幸いです。」
モニカの提案に他のみんなも賛成し、ドロテアとノネットはナイト・オブ・ワンの意向を伺う為に部屋を後にした。
「後は、ルキアーノ様がいらっしゃれば全員で新年を迎えられます!」
「でも、お見えになるかしら?」
「ブラッドリー卿は三日前から休暇に入られていますわよね?連絡がつけば良いのですが……」
表情を曇らせながらも、僅かな望みを繋ぐ様にリーライナが携帯電話を耳に宛がった。
数十秒の沈黙が続いたが、彼女は小さく頭を振って電源を切ると、残念そうに溜息を吐いた。
「余程緊急な呼び出しでもない限り、出て下さいません……」
「勤務中でなければ、部下である私達からの電話でさえ、この通りなのです。」
「困りましたわねぇ…………」
消沈する三人の視線が何か方法はないものかと宙を彷徨っていたが、休む間も無く羽根ペンを滑らせるジノの上で不意に止まった。
モニカがウィンクをして合図すると、ヴァルキリエ隊の二人は直ぐ様その意図を承知して首肯した。
「ヴァインベルグ卿からのお電話なら、もしかすると繋がるかもしれませんわね。」
「きっと出てくださいます!だって、お二人はとても仲良しですもの!」
「ルキアーノ様にご連絡して頂けないでしょうか?」
美少女達が神に祈るように十指を握りあわせて願い出ると、ジノは困惑しながらも制服の内隠しから電話を取り出した。
三年振りに再会を果たしてからは、庁舎で会える為に、殆どダイヤルを廻したことが無かった。
プライベート・ナンバーが表示された小さな液晶画面を前に、猶も躊躇していると、モニカの細い人差し指が通話ボタンを押した。
「あ。」
鳴り出した呼び出し音に動転していると、繋がりますわよ。と指摘され、慌てて小さな機器を耳元に固定した。
程なく三人の予想通り回線が通じたが、その瞬間にジノの頭の中は真っ白になってしまった。
「あ、ああの……、もし良かったら、食事でもどうか……なって……」
『…………………………ジノ?』
「あ!……ごめん、名前も言わずに。その……久し振りで緊張を……」
空いた片手で頬に触れると思い掛けず火照りを感じ、その事が彼を一層狼狽させた。
「……今、何処?」
『ベッドの上だ。』
「え…?何してるんだ?」
『ベッドの上でする事と言えば、そんなに沢山は無いと思うが…』
「…………………………」
二人の遣り取りが分からないモニカ達は、受話器越しにスプリングの軋む音を聞いたジノが忽ち青褪めていくのを、不思議そうに窺っていた。
ヴァインベルグ卿?と声を掛けられて正気に戻った彼は、会食は自由参加だと早口で捲くし立てるや、勢い余ってそのまま電話を切ってしまった。
動悸と息切れに苦しげな表情を覗かせたナイト・オブ・スリーは、すうっと大きく深呼吸をして結論を告げた。
「期待できそうに無い……」
三人は意外な回答に驚き、しゅんと残念そうな顔をしたが、予想に反してその小半時間後に、ナイト・オブ・テンは悠然と咥え煙草で現れた。
モニカ達は、既に残り少なくなっていた事務処理の手伝いをルキアーノに任せると、彼の執務室へと急いだ。
リーライナが上司に許可を強請った訳は、午前零時に打ち上げられる祝砲を最も美しく鑑賞できる場所が、ナイト・オブ・テンの部屋だったからである。
時間が差し迫っていると半ば強引に許諾を得て、彼女達は嬉しそうに準備に取り掛かった。
ルキアーノはそれまでモニカが掛けていたソファに腰を下ろすと、黙って書類に目を通し始めた。
部屋に入る際にバリスタが淹れた珈琲を持っていたが、その存在すら忘れて熱心に読み続ける姿を、ジノは自分の席から瞥見した。
読了すると薄型のラップトップを開き、時折煙草の灰を指先で落としては、軽やかにタイプを打ち続けた。
会話も無いまま時間が過ぎ、課題を全て片付けたジノは、静かにルキアーノの隣に掛けてディスプレイを覗いた。
気を散らさないように細心したつもりだったが、彼が傍に寄ると、視線はそのままに煙草の火を消した。
ルキアーノが手を止めて画面を見詰めていると、ジノはクスリと小さく笑った。
「何だ?」
「いや……変わらないなと思って。その癖…」
「癖…?」
「考え事をする時は、頬杖を突いた方の指で唇をなぞるだろう?…もしかして、今まで無自覚だった?」
「さて。」
再びタイプを弾き出したルキアーノの横顔を、ジノは柔らかな微笑を湛えて見守った。
新年まで一時間余りとなった頃に食事の席が整い、二人は揃って部屋を後にした。
執務室に入る間際にルキアーノの携帯電話が鳴り、彼の了解を得て、会は華々しく開始された。
ジノとモニカ、ヴァルキリエ隊の二人は未成年との配慮から、シャンパンの変わりに、これに似せて造られた炭酸飲料が用意された。
「シャンメリーって言うそうですわ。いろんな種類があって、ついつい迷ってしまいました。」
中華連邦から帰国する際に立ち寄った、エリア11でしか流通していない飲み物だとモニカが説明し、ジノは興味深げにグラスを眺めた。
ノンアルコールだという割には見た目も味も変わらず、その口当たりの良さに、直ぐ飲み干してしまった。
向かいの席に掛けていたノネットは、これが酒ならと豪快に笑い、ジノの空になったグラスにすかさずボトルを傾けた。
程なく戻ってきたルキアーノは、自分の席に置かれたシャンパングラスに口をつけ、怪訝な顔をした。
「これは一体何なんだ?」
右隣のリーライナに尋ねると、彼女もまた不思議そうな顔をして、彼の向けたグラスにそっと鼻先を近付けた。
漂う仄かな甘い香りに彼女は驚き、直ぐに手違いを謝罪した。
「申し訳ございません。シャンパンと間違えてしまったようです。これはシャンメリーと言う、エリア11で造られたジュースです。」
「ジュース?」
「はい。私とマリーカ、それにヴァインベルグ卿とクルシェフスキー卿は未成年ですので、お酒は頂けません。」
「でも、おかしいですわ。私、四人分のグラスに予め注いで用意していた筈ですのに……」
二人の会話にモニカが訝しげに口を挟み、リーライナの横に居たマリーカも首を傾げた。
ルキアーノは自分の席が左利き用にセッティングされているのに気付き、はっとして隣で談笑しているジノを見た。
「…………ジノ?」
呼び掛けに振り向いた青い瞳は潤んで揺らめき、テーブルに突いた両肘の上で指を組むと、気怠げに顎を載せて此方を見詰め返した。
普段とは明らかに異なる様子に、ジノが飲酒したことは直ぐに知れたが、果たしてその酔い加減は不明であった。
「シャンパン程度では酔わなかった筈だが……」
記憶を辿りながら呟くルキアーノの傍で、リーライナはノネットが注いでいた瓶のラベルを見て愕然とした。
それは紛う事無く騎士達に振舞われたシャンパンで、既に空の状態だった。
「ヴァインベルグ卿は、何杯お召しになったのでしょう……」
「三杯くらいかしら……?」
心配そうに囁くマリーカとリーライナに、モニカはやや深刻な表情を浮かべてジノの様子を窺った。
「私がお聞きしたとおりなら、ヴァインベルグ卿は此方に戻られてから、殆ど何も召し上がっていません。」
「何だと?!」
喫驚して飲用水の入ったグラスを手渡そうとしたが、ジノは蕩ける様な眼差しを向けただけで、ルキアーノの意図を汲まなかった。
強引に口元に押し付けると素直に喉を上下させ、見守っていた一同はほっと胸を撫で下ろした。
「平気か?」
「……ん……少し、眠い……」
言い終わらないうちから次第に瞬きが緩やかになり、小さな欠伸を最後に、目を閉じてしまった。
ナイト・オブ・ワンの指示に従い、仮眠室で休ませようと肩を揺すって起こしたものの、椅子から立ち上がろうとした途端、床にぺたりと座り込んだ。
酔いが足に来たと分からない様で、覚束ないまま膝を突いて立とうとするのを、全員から止められた。
「こういう時は、抱っこですわ!」
「冗談だろう。」
強く進言するモニカを鼻で嗤ったルキアーノだったが、きょとんとしたジノに全くの無邪気さで両腕を広げて見せられ、激しく狼狽した。
彼は溜息を吐くと、自分に向かって伸ばされた手の一方を引っ張り上げ、その身体を易々と肩に担いで隣室へと運んだ。
羽毛のような優しさでベッドに下ろされると、ジノは微睡みかけた瞼を軽く擦り、ふわりと微笑んだ。
縁に掛けたルキアーノが、柔らかな金髪を撫でて尋ねると、そっと窓の外を指差した。
「もう直ぐだ。」
間を置かず祝砲が響き渡り、後に続いた花火が冬の夜空を彩った。
雨粒を思わせる爆裂音と映し出された影に、ルキアーノが片眉を上げて見せると、ジノは笑顔のまま首を竦めた。
「芝居を打ったというわけか。」
「まさか。ただ、食事よりも今は睡眠の方を取りたかっただけで、酔っているのは嘘じゃない。」
「困った仔猫(キティ)だ。」
苦笑するルキアーノを、ジノは穏やかな表情で見上げ、本当にいろんな事があった。と漏らした。
「全く同感だ。再会するとは、思いも寄らなかった。」
「私は旧交を温める気でいたのに、あんなに毛嫌いされるとは思わなかったな。」
「それは失敬。」
素気無い態度にジノが噴出し、最後には二人でくすくすと笑った。
それは出会って五年余りの月日のうち、三年の空白を経ても、なお変わらずに信頼を寄せあっている証だった。
「しばらく休め。目が醒めたら、本宅まで送り届けてやる。」
「……うん。ありがとう。」
ジノが空色の瞳を瞑り、健やかな寝息をたてるまで、ルキアーノは傍を離れずに花火を見ていた。
暁の頃になって、背中に寄り掛かる重みに気づいたジノは、そっと身体を起こしてルキアーノの寝顔を見詰めた。
黒いシャツの首元を寛げた彼の傍には、読み止しの本が置かれ、ベッドに寝転んで読書する昔の習慣を思い出させた。
ジノは再び左下にして横たわると、三年振りの添い臥しにそっと瞼を閉じた。
ルキアーノから移った微かな沈丁花の香りが、彼を優しい時間へと静かに誘った。