やわらかな陽射しが降り注ぐ午後、白亜の長い回廊を、私は散歩気分でのんびりと歩いていた。
あと半時程で騎士達が羽根休めに集い、ドロテア御手製の焼き菓子を頂戴しながら、今日もにぎやかな歓談が……。
―――ドン。
「きゃ…ッ!」
「わ!!モニカ?!」
丁度角を曲がった処で出会い頭に衝突した私は、疾行するナイト・オブ・スリーの勢いに弾かれ、派手に尻餅をついた。
急ぎ足だった彼は喫驚の面持ちで膝を折り、直ぐ様謝罪の言葉を口にすると、倒れた身体を優しく助け起こした。
同僚の親切を受けて、そろり立ち上がろうとした途端、片耳のピアスが制服のスカートを伝い、足許に滑り落ちた。
咄嗟に目を凝らしたものの、衝撃で外れたらしい留め具は見当たらず、拾い上げた小さな装飾品自体も、残念ながら破損を免れなかった。
ヴァインベルグ卿は眉宇を寄せて再度深謝し、是非にと、自ら賠償を望んだ。
「そんなに深刻な顔をなさらなくても、大丈夫ですわ。」
「お気に入りだったじゃないか……」
「ええ。でも、斯うなっては、どう仕様もありませんもの。」
「何処で購入したのか、教えて貰えないかな?」
「それは構いませんが、あの…同じ物はもう手に入らないと思いますよ?」
「えっ?!」
「昨年の初冬に、完売必至の少数企画で発表されて、予約が殺到していましたから…」
彼は盛大な溜息を吐いて肩を落とし、申し訳なさそうに、代替品による埋め合わせの容認を願い出た。
気にしないで。と遠慮したが、しゅんと睫毛を下向ける様がいじらしく、其れで満足するならばと、私はにっこり快諾を示した。
精彩を欠いていた歳下の騎士は安堵の胸を撫で下ろし、参考にすると言って、壊れたピアスを上着の隠しに仕舞った。
私は小脇に抱えられた分厚い資料に目を留め、右の人差し指で左手首をトントンと叩き、腕時計を指す仕草をして見せた。
「あ!」
彼は口許を覆って遅刻を危ぶみ、忽ち身を翻して、風のように駆けて行った。
遠退く深緑のマントを見送っていると、既に覚束無くなった後姿が、不意にくるりと向き直り、ごめんね。と大きく腕を振った。
周囲を行き交う人々は一様に驚いたものの、私は彼の素直さにクスクスと笑みを零し、控えめに手を振り返した。
永らく空席だった円卓の第三席に、歳若い将校が内示された当初、政庁の其処彼処で、由緒正しい家柄が噂された。
実力主義を国是とするブリタニアに於いて、上流階級の新興も没落も日常茶飯でありながら、連綿と続くヴァインベルグ家の血統は別格だった。
四男とはいえ、名門の嫡流が軍籍に入り、程無く最年少でナイト・オブ・ラウンズを拝するに至れば、当然に金権を振るったと中傷を受けた。
御前試合で優れた戦闘能力を発揮したが、嫉妬と羨望の嵐は、容易には静まらなかった。
主席騎士に伴われて登場した彼は、叙任式を終えた直後で、真新しい制服に、煌く黄金色の髪と蒼穹の瞳が印象的な少年だった。
徹底された躾の賜物か、丁寧な言葉遣いと優雅な身のこなしは流石だと、皆が感嘆した。
お日様みたいな人懐こい笑顔で、物怖じせず誰にでも声を掛けたが、十番目の騎士からは、素気無く遇われた。
ブラッドリー卿の冷淡さは周知の事実だと慰めたものの、密やかな憂いを募らせ、終には体調を崩した。
彼が自宅療養を厳命される運びとなって、漸う二人が旧知の間柄と明かされ、同輩は言うに及ばず、直属の部下達までもが衝撃に顔を見合わせた。
万事に興醒めた帝国の『吸血鬼』には凡そ不似合いな、八つ歳下の幼馴染の存在を知り、一同は瞠目するばかりだった。
健康状態が恢復する迄の一時さえ待ち兼ね、二人は旧交を温めた。
―――“ルキアーノ。”
皇帝陛下とナイト・オブ・ワン以外の、誰もが呼び捨てを憚った名前を、彼は微塵も躊躇わず口にした。
ブラッドリー卿が時折返す、恋人への甘い囁きにも似た愛称もまた、意想外の親密さを物語った。
無邪気な悪戯と濃やかな配慮を織り交ぜた睦み合いは、孤高の騎士に春の木漏れ日をもたらし、頑なな警戒心を雪解けへと導いた。
血生臭い戦場を想わせる緊迫感を、終始纏っていた卿だったが、彼が傍に在る束の間だけ、淡い紫色の瞳をふわりと綻ばせた。
空き部屋を挟んだ第十席の執務室は、職務に事寄せなければノックも儘ならず、配下を通じての遣り取りが常態化して久しかった。
卿自身との接点を殆ど見出せずにいた筈が、何時しか二人の談笑の輪に溶け込み、遥かな距離が少しずつ埋められた。
幸福な作用を素直に嬉しいと感じる一方で、この胸に潜む誤魔化し切れない焦燥の本体を、何度と峻烈に拒んだ。
幼い頃は少女と見紛う可憐さで、第二皇子を筆頭とする数多の人々が、仄かな想いを寄せていたのだと、マルディーニ伯から聞き及んでいた。
―――“仔猫(キティ)。”
歳下の一途さが際立っていながら、赦す素振りで渇望を滲ませるブラッドリー卿に気付き、私の心は細波立った。
二人のひたむきな情熱と深い慈しみは、定義づければ忽ち氾濫する崇高さで、命名された範疇を疾うに凌駕していた。
唯々静やかに事実を甘受する騎士達が、気高い精神を昇華させる何時かを、予感せずにはいられなかった。
ヴァインベルグ卿より一足早く円卓の末席に腰掛けた私は、会議の度に隣り合う騎士をちらと窺い、幾度と儚い溜息を吐いた。
無駄を削ぎ落とした長身と端整な目鼻立ち、洗練された所作は憧憬の的だったが、帯びる空気が鋭利な兇器を想像させた。
虚勢かと迂闊に近付けば、忽ち辛辣な言葉で切り捨てられ、眉一つ動かさなかった。
戦地を離れて、猶非情さの片鱗を垣間見せる『人殺しの天才』が、何故熱狂的な支持を受けているのか、私には甚だ不可解だった。
彼が率いるグラウサム・ヴァルキリエ隊は、志願して厳しい選抜試験を潜り抜けた精鋭で、瑞々しく秀麗な女性達が名を連ねた。
年齢の近さから直ぐに打ち解けたものの、ブラッドリー卿の人物像を掴み倦ねていた私の目に、心酔する彼女達は眩しかった。
ナイトメアの調整が予定よりも随分と長引いた、或る昼下がり―――。
その日は、いつも食事を共にするドロテアが休暇で、ノネットは陛下の外遊に付き従い、前日から遥か異国の地へと旅立っていた。
朝から整備に立ち会っていた私は、気晴らしを兼ねて、政庁の表通りから一本奥に入った場所に建つ、隠れ家のようなカフェを訪ねた。
通い慣れた道を挟んだ小さな名店は、最近見つけた御気に入りで、白壁の佇まいや、風にそよぐ一輪挿しが、喧騒を忘れさせてくれた。
老舗で修行を積んだ味はやさしく舌に馴染み、疲れた心と身体が癒されるのを感じた。
テラスの端には、そっと手を翳してくれているかの様に緑の街路樹が伸び、私は木陰でゆったりと読書に耽った。
時間が経つのも忘れ、夢中で頁を捲っていると、憶えのある芳しい花の香りがしっとりと漂い、まさか。と喫驚した。
書籍から逸らした視線の先には、朝焼け色の髪をした十番目の騎士が佇み、Excuse me.と悪戯っぽく片眉を上げて、同席を願い出た。
咄嗟に頷いたものの、服装や髪の乱れ、昼食を頂いた後に保湿しただけの唇が気に掛かり、不行き届きを密かに悔いた。
ギャルソンが踵を返すと、二人きりの静けさに胸が高鳴った。
「意外な処で御目に掛かりましたね。……今日は、御一人ですか?」
「御覧のとおり。」
ちらり周囲を窺った私は、其の言葉に違わず、常時彼の傍に侍するヴァルキリエ隊の不在を認めた。
自然と怪訝な表情を浮かべてしまい、卿は肩を竦めて、Escape.と小さな声で事訳を明かした。
さも面倒臭そうな口振りに、クスと笑みが漏れた。
「人騒がせな上司ですこと。今頃、右往左往していますわ。」
「職務に支障を来たさない様、手持ち分は捌き終えてある。」
「そう迄して此方へ?」
「羽根休めの為に立ち寄ったが……美人を口説く方が、余程有意義だな。」
さらりと言って退け、彼は上着の隠しから、丁寧に折られた淡い色のハンカチを取り出した。
魔術師のような上品さで一振りし、ふわり広げた刺繍入りを、卓の下を窺う素振りで、そっと私の膝に載せた。
一刹那面喰った後に、制服の深いスリットから覗く露な外腿に気付き、私は狼狽して、組んでいた足を解いた。
卿の紳士的な心遣いに戸惑い、羞恥に胸を掻き乱した。
親切を感謝すると、頬杖を突いて、気怠げに一輪挿し弄っていた騎士は、ほんの少しだけ表情を寛げた。
珈琲と焼き菓子を届けた給仕が、恭しく御辞儀をして立ち去り、ブラッドリー卿は漸く小休止を得た。
内隠しから銀色のシガレット・ケースを出し掛けたが、ふと俯けていた薄紫の瞳を上向け、伺いを立てる様にゆっくりと瞬いた。
さり気無い仕草に、動悸がした。
こくりと首を縦に振って、硝子製の小さな灰皿をぎこちなく手渡すと、抜き取った紙巻きの吸い口を卓上で慣らした。
咥え煙草のまま燐寸を擦り、華奢な五指で揺らめく焔をそっと庇って移し、やがて紫煙を燻らせつつ、残り火を素早く払った。
優雅な動作に見惚れていると、卿は香ばしいガレット・ブルトンヌを私に勧め、隠しの奥から取り出した手紙を、静かに封開いた。
「恋文…?」
「まさか。」
思わず口を衝いて出た問い掛けは、即座に鼻先でクスと往なされたが、決して蔑ろには出来ない相手からだと感じた。
私は読書に戻る振りで頁を開き、便箋に綴られた文字を真摯に追う卿の、雪消を想わせる穏やかな面差しを幾度と窺った。
数葉に及ぶ私信に目を通し終えると、睫毛を伏せてひと時余韻に浸った後、差出人の署名に優しいくちづけを捧げた。
部下達から電話越しに嘆願される迄の短い時間、ブラッドリー卿は至福の休息を堪能した。
やれやれ。と零す広い背中を見届けた後、小半時余り経って精算を求めた私は、ギャルソンの控え目な笑顔に首を傾げた。
「先程、頂戴しました。」
「え…?」
「言伝を承っております―――“焼き菓子が御気に召せば幸いだ。腰細の貴卿が今少し柔らかさを纏えば、完璧。”と。」
「まぁ…それで、卿は手を御付けにならなかったのかしら?」
「実は、何時もと違う御注文を受けて、少々驚いておりました。大抵、ショコラを御申し付けになるので……」
私は残りのガレットを持ち帰ろうと、給仕に包装を依頼し、膝の上に置き忘れられた薄布を、指先でそっと撫でた。
卿のやわらかな微笑みが瞼を離れず、甘く切ない感情のざわめきは、最早偽りようもなかった。
最後に恋をしてから随分と時が経ち、こんな風にもう一度誰かを想う事に、躊躇いを感じた。
失うと解った前後の激しい憤りや悲しみが過ぎても、心は永らく傷を負った儘で、近頃、如何にか独りにも慣れてきたつもりだった。
返す機会が得られず、今も手元に残されたハンカチを眺めては、儚い溜息を重ねた。
後に、歳若い円卓の第三席こそが、あの春の午後、ブラッドリー卿に微笑を湛えさせた書簡の相手と直感した。
二人の仲が深まるにつれ、淡い瞳の奥をふわりと緩める姿を度々見掛け、次第に確信へと変わっていった。
ヴァインベルグ卿の存在無しでは、誕生しなかった筈の恋心は、相反して、醜い嫉妬と独占欲で私を苛んだ。
八つの歳の差を何ら障害とせず、気付けば自然と寄り添い、濃密な時間を分かつ二人を、何時も遠くから見守った。
些細な癖や嗜み、感覚、思想―――。
知る術さえ無い卿の素顔を、澄んだ青空色の目に、どれだけ焼きつけたのだろう?
快活で旺盛な好奇心と、慎ましく純真な気質が、卿の最たる慰めであるならば、初対面で抱いた親近感を、素直に受け容れたいと願った。
回廊での不慮の事故から、一週間が過ぎた午後。
淹れたての紅茶と美味しい手作りを囲んでの、にぎやかな羽根休めを期待しつつ、定刻より少し早くラウンジを訪れた。
部屋には既に他の騎士達も集い、歓談する声と、奥のキッチンから漂う焼き上がりの匂いに、自然と頬が緩んだ。
扉を潜って直ぐ、モニカ。と待ち侘びた様子のヴァインベルグ卿に手招きされ、私は足早に傍へと歩み寄った。
勧められる儘、窓際のソファに腰を下ろすと、彼は憚る様に周囲をちらと窺い、リボンの掛かった小さな箱を、そっと差し出した。
「この前は、本当にごめん。ピアス……気に入って貰えると、嬉しいけど…」
女性を巡る噂も何度か耳にしていたが、辿々しい口調と心配そうな面差しは如何にも不慣れで、初々しかった。
私は光沢のあるベージュの細紐を解いて、可愛らしい小箱の蓋をゆっくりと開き、感嘆の声を漏らした。
「…素敵。」
「本当?!」
「ええ。……でも、こんなにも御気遣い頂いては、却って申し訳無いような…」
中敷の上で輝きを放っていたのは、壊れた物と同じ、薄桃色の天然石をあしらったピアスとブレスレット。
溜息が出るような繊細な意匠に、気後れを感じていると、彼は叱られた子供さながら、膝の上で手をぎゅっと握って、萎れてしまった。
涙を堪えるかの様に唇を噛み、俯けた睫毛を弱々しく瞬く姿を、ドロテアとノネットが訝しげに窺っていた。
私はすっかり狼狽し、身を屈めて、ひとつ歳下の騎士をそろりと覗き込んだ。
「ヴァインベルグ卿……?」
「私は、その…モニカの事を、未だよく知らないから…いろいろな人達に意見を聞いて、選んでみたんだけど、ごめん……やっぱり駄」
「大好きですわ。」
「…え?だ、い…」
「好き、ですわ。」
大きく頷いて返すと、ヴァインベルグ卿は一瞬きょとんとした後、忽ち頬を淡色に染め、口許を覆って含羞を隠した。
可憐な花を模った小さな宝石も、嗜好が分からず、何日も悩んだであろう心優しい彼の事も、最初から―――。
私は告白の勢いに乗じて、手鏡を携帯し忘れたのを理由に、魅惑的な宝飾品の装着を、当の贈り主に強請った。
「お願い出来ますか?」
「え…っと、“喜んで。”と言いたい処だけど……そういう経験が無くて。い、痛いかも…知れないよ?」
「大丈夫。」
にっこりと根拠の曖昧な自信を見せると、彼は降参とばかりに肩を竦めて手袋を取り、耳飾りの留め具を慎重に外した。
緊張した面持ちでサラと髪を除け、じっとしててね。と囁いて、優しく耳朶に触れた。
直ぐ傍から立ち籠める香りは、森の奥深くで見つけた日溜まりの爽やかさで、馴染ませた胸板の逞しさに、図らずも異性を意識した。
くちづける様に至近に迫り、見難いピアスホールを懸命に探し当て、程無く、鼓膜に金属の触れ合う小さな音が沁みた。
ヴァインベルグ卿は一先ず安堵し、もう片方に挑戦しようと奮い立ったものの、指の隙間から大切な留め具を落として仕舞った。
談笑していた騎士達は、慌てふためく彼に温かな目線を送り、第十席はククク…と肩を揺すった。
自分でも少し大胆な願い事だと思ったが、叶えてくれた卿の長い指先は、終始微かに震えていた。
如何にか大仕事を終えると、小箱の中で煌くもうひとつの装身具を指し、此方は赦して。と大真面目に両手を合わせた。
これ以上の我が儘は憚られたものの、私は正直に残念な顔をした。
心苦しそうに眉根を寄せた彼は、見立てるにあたり、ブラッドリー卿から多大な助言を授かった事実を明かし、全権を委譲したいと願い出た。
喫驚して言葉を失っていると、歳上の幼馴染を直ぐ隣に招き寄せ、後任に推挙した訳合いを、そばだてる耳許に密々と伝えた。
当然に鼻先で嗤われるだけと予想したが、卿は役を引き継いで立ち位置を変わり、グローヴの先端を軽く噛んだまま、するりと五指を滑らせた。
慌てて自分も倣い、肘下の端を折った処で、一歩退いて佇んでいたナイト・オブ・スリーが、モニカ…。と優しく首を左右に振った。
違うよ。のサインに、手袋を嵌めたままで?と腑に落ちないでいると、衣擦れの音と共に卿が制服の袖を抜き、第三席以外は皆瞠目した。
十番目の騎士は、温もりの残る上着を私の腰元にふわり着せ掛け、躊躇いもせず大理石の床に跪いた。
刹那、恋に落ちた過日の午後を思い出し、切なさを噛み締めたものの、失礼。と突いた片膝に無防備な右足を載せられ、鼓動が激しく乱れた。
「…ブラッドリー卿……」
魔法を掛けられた様に、身動ぎひとつ儘ならず、囁き声さえ掠れた。
意に介す素振りも無く、華奢で大きな手の先が、ゆっくりと長靴のファスナーを下ろし、その扇情的な響きに眩暈を覚えた。
僅かに踵を持ち上げて靴を脱がせると、卿は宝飾品の留め金を丁寧に離して、そっと私の足首を潜らせ、再び輪を繋いだ。
「惜しいな…矢張り、素足の色香には及ばない。」
薄絹の上から踝を撫ぜられ、密かな熱い吐息がはらりと落ちた。
火照りに羞恥して口を噤んだ私に、ドロテアは賛辞を贈り、ノネットもまた、此の助け舟にさり気無く力添えした。
リーライナとマリーカが溜息混じりに羨む声が聞こえ、一層頬を染めた処を、可愛い。と呟くアーニャに記録されてしまった。
彼女達は装飾が隠れてしまうのを残念がったが、露になった儘の下肢は不謹慎に思われ、私は傍に置かれた片靴に手を伸ばした。
「私が。」
窘める様に、上から五指を重ねて制すと、ブラッドリー卿は先程と全く逆の手順で、右足に長靴(ブーツ)を宛がった。
か弱い素材の長靴下を気遣い、下げた留め具を戻す際には、手を添えて踵から膝裏までを緩やかに辿った。
コツと静かに爪先を床に降ろされるのを待って、騎士達は各々、喫茶の席に着いた。
私は傍寄ったヴァインベルグ卿から、親切なエスコートの申し出を受け、ざわめきの中で言葉を交わした。
「歩いても、違和感は無い?」
「ええ、全く。良く馴染んでいますわ。ブレスレットとばかり思っていたので、吃驚しましたけれど。」
「悪乗りと誤解されるって言ったのに、ルキアーノが半ば強引に決めてしまったんだ。」
「ブラッドリー卿が?」
「ねぇ、モニカ…其方が利き足って、本当? “足組みの時は、必ず右を載せる。”って話していたけど……」
思い掛けない打ち明けに一驚を喫し、手を携える金髪の貴公子を咄嗟に見上げた。
木漏れ日のやわらかな微笑を湛え、卿はそっと耳打ちをした。
「永く交際を続けてきたけど、女性に贈り物を選ぶ姿は、初めてで…あんな風に誰かを想う時間って、素敵だったな。」
長靴を履いた時に足首を痛めないか吟味し、留め具が内に隠れても、猶優美さを損なわない意匠が選ばれた。
素足を護る薄い絹を傷つけない様に、当たりの滑らかさも重視していたと聞き、先を行く第十席の背中を目で追った。
ヴァインベルグ卿は、私の指定席の椅子を引きつつ、内緒だよ。とウィンクして、小声でもう一つの事実を告げた。
「壊れたピアス、修復を依頼してたんだ。」
差し向かいを意識して、テーブルクロスの裾を整える振りで、別なリボン掛けをそっと手渡された。
今日だけで、一体何度驚かされただろう。
悪戯気に瞳を輝かせる彼と、同じくらい明るい笑顔で、私は、ありがとう。と返した。
それからの楽しい午後のひと時、私は時折、組んだ右足の先に優しさを感じては、そっと睫毛を俯けた。