荘厳な建築様式を誇る政庁の一角―――。
書庫の最も奥深い場所で、円卓の第三席は、読み終えた古い戦記を静かに閉じた。
穏やかな陽光が射していた天窓を見上げ、煌めく満天の星空に嘆息を漏らすと、指先で微熱を帯びた瞬きを慰めた。
北欧情勢が俄かに緊張の度合いを増し、派兵に向けた大規模編成が行われて以降、遅い帰宅が続いた。
眠りの浅瀬を漂う裡に夜明けを迎え、恢復の儘ならない軀は幾分細ったが、家族が変調を慮る度、虚勢を張って誤魔化した。
円卓に叙任後、直ちに技術部局が開発に着手したものの、成長著しい騎手(デヴァイサー) に馴染む駿馬(ナイトメア)は未だ誕生せず、今般は除外の憂き目と噂された。
量産機に騎乗した処で覚束ない戦力と、諦観の面持ちで臨んだ会議で、総司令官直々に参謀の補佐役を打診され、喫驚した。
貴卿には閑職であろうが…。と微笑む隻眼に狼狽し、白皙に淡色を湛えつつ、謙遜の言葉を添えて拝承の意を伝えた。
暗黙の名指しを受けた帝国の吸血鬼を瞥見すれば、一向構わず頬杖を突き、はらりと資料を捲る素気無い反応で、仄かな憧憬を牽制された。
騎士が纏う冷淡な雰囲気に、秘めた感情が切なく揺れたが、僅かでも力添えが適うならばと、寸暇を惜しんで日夜職務に精励した。
決戦の機運が熟すにつれ、逸る気持ちとは裏腹に、永らく顧みず、粗略に扱ってきた五体が再々疲弊を訴えた。
卓上に置いた銀無垢の懐中時計を眺めて、子供はもう寝る時間。と諭された幼い日を思い出し、ふわり目許を寛げた。
家族の晩餐に不在を続けた我儘を、今宵まで寛恕してくれた温かさを想い、静かに帰り支度を整え始めた。
読破した数冊を手に席を離れ、整然と並ぶ書架の最奥で足を止めると、一段度に軋む古い木製の梯子を上まで昇り切った。
蔵書棚を元通りに埋め、足掛かりをひとつ降りた処で、キィと蝶番の微かな鳴き声を捉え、半ば本能的に身構えた。
正規の利用時間は疾うに過ぎ、戸締りを約束して特別に貸与された長鍵の在り処を求めて、白い制服の隠しを指先で擦った。
大理石造りに響く優雅な靴音は、騎士から幾分離れた場所で佇み、吟味した背表紙をひとつ抜くと、そっと頁を繰った。
時折硬い筆先が紙を滑る控えめな余韻を残したが、やがて智の殿堂は今一度の静寂に包まれ、続く沈黙から耽読の気配を感じた。
嘆息を漏らす素振りで警戒を解き、月夜の晩に、女性とも窺い知れぬ勤勉な訪問者を見過ごす訳にもいかず、帰邸を先送りした。
暫しの慰めに背高な書棚を眺め、魅惑的な表題に手を伸ばし掛けた刹那、激しい眩暈に均衡を失い、よろめいた。
閉じた瞼の内で世界が大きく傾ぎ、足場を踏み外した。
「……ッ!!」
虚空を掴み損ねたしなやかな腕(かいな)が、雛鳥の羽搏きを想わせた。
背後に屹立していた書架は触激を受け、崩れ落ちた俯せの軀に、夥しい図書が降り懸かった。
嵐のような騒音が止み、背けた頤を怖ず怖ずと返した少年は、一面の惨状に溜息を吐き、深々と項垂れた。
―――コツ。
存在を誇示するかの高雅な響きに、はっと我に返り、思い掛けず喉がこくりと上下した。
周囲を緊迫した空気が漂い、ひと足毎に近付いて来る靴音をひたすら窺った。
「聊か危険を孕んだ超過勤務だな、ヴァインベルグ卿…?」
蒼穹の瞳に映る人影は、月光を想像させる艶やかな低音で、歳若い騎士の心を掻き乱した。
ブラッドリー卿…。と、一驚した唇から微かな声が零れ落ちたが、第十席の鼓膜に達するより先に、儚く消えた。
彼は長身を屈めて足許の数冊を手に取り、分類に従い書棚に戻すと、同じ作業を繰り返す心積もりで跪いた。
茫然自失していた第三席は瞠目し、散乱した図書を拾い集めようと急いたが、咄嗟に遮った指先が黒革の手袋を掠め、甚だ狼狽えた。
動揺から謝辞さえ辿々しく、年上の騎士が纏う名香を傍に感じては、微熱に潤んだ眼差しを逸らす様に睫毛を伏せた。
舞い降りた僥倖を寸刻でも永く願ったものの、華奢で大きな手に倣い、淡い期待を放擲して、黙々と書籍の整頓に努めた。
「……卿、大変御手数をお掛け致しました。」
名残惜しんだ最後の一冊を仕舞うと、別れの頃合いを意識して、後に続ける言葉を躊躇った。
切なさの滲む上目遣いで窺ったつもりが、怪訝な面持ちで見詰め返され、意想外な反応に、卿?と小首を傾げた。
彼は歳若い騎士の戸惑いを容易く看過し、中指を甘噛みして手袋(グローヴ)を取ると、楽団の指揮者を想わす仕草で、稚い頤を掬った。
素直に仰のけた顎(あぎと)を横向けて、艶やかな金髪を梳き、眇めた浅紫の瞳を一層近付け、白い耳殻の端をそっと撫ぜた。
繊細な器官にひんやりとした感触を受け、瞬間肩先が小さく跳ねた。
まるで挑発的な悪戯に戦慄くばかりの耳許で、失礼。と擦れ気味に囁かれ、最奥に潜めた官能の焔が揺らめいた。
軀の疼きを深く羞恥する一方、気取られる不安が胸を過り、きつく柳眉を寄せて唯々終息を願った。
夢見た唇から零れる吐息の温もりが、微熱に色づく細首を伝い、少年は甘美な衝動を掻き立てる責苦を躱そうと、僅かに身動ぎした。
「先程の衝撃で受けた傷…思いの外、深い様子。」
「……え?」
誘惑する小声のやわらかさに、ふるり項髪を乱す傍らで、彼は内隠しから抜いた真新な手巾に指挿し、谷折りした先端を耳翼に宛がった。
不穏な言葉に俯けていた睫毛を瞬き、振り返る仕草で優しい手先を窺うと、創傷。と事訳を告げて繍入りを託した。
「怪我…?」
「出血は微々たるものだが、一先ず適切な処置を勧める。」
憧れの存在に動揺するあまり、些細な擦り傷など無為に見過ごした。
傷口に添えた当て布をそろと離し、一瞥した清潔な白地に、言葉通り赤褐色の染みを認めて、苦笑混じりの溜息を吐いた。
「御気遣い、ありがとうございます。残念ながら、医務官も退庁している筈の遅い時間。手当は帰宅後、家人に―――。」
「眉間に皺寄せて苦悶する様も感興をそそるが、此の儘捨て置いて、化膿させるのも癪。不束を咎めないならば、承るが?」
「いいえ、其の様な事…!!」
遠慮から出た咄嗟の一言は、思惑に反して、頑なな響きで親切な申し出を霞ませた。
決然たる拒絶の余韻が、猶更不躾な返答との誤解を招き兼ねず、自らの強い語調に喫驚して口許を覆った。
若輩たる立場を弁え、言い訳のひとつも適わぬ儘に黙すと、古参の騎士は切れ長の目を俯け、……僭越であった。と謝した。
強い衝撃が心臓を貫き、手の窪に鋭く爪立てて、如何にか氾濫する感情を律したが、碧眼には淡い煌めきが滲んだ。
「誤解です…私は、唯……此れ式の怪我で、卿の御手を煩わせるなど、畏れ多いと…」
「大袈裟だ。」
長い五指が伸び、黄金色の額髪をさらり掻き上げると、悲しみの証左に気付き、小さく嘆息した。
憚って逸らせた涙目を暴かれ、揺れ動く幼心を恥じて押し黙ったが、未だ他に何処か痛むのか?と微かな憂いを帯びた声に間誤付いた。
白い項を複数回左右に振り、怪訝そうに覗き込む浅紫の瞳を見詰め返すと、彼は子供を褒める仕草で、少年の頭を優しく撫でた。
懐かぬ野獣さながら他を威嚇する白昼との温度差に、歳若い騎士は一層想いを募らせ、切なげに含羞を湛えた。
蔵書が眠りにつくのを見届けるかの様に、騎士は静かに扉を閉め、漆黒の細長い鍵をかちりと鳴らした。
中庭に面した廊下に出ると、秋のやわらかな夜風がそよぎ、灯楼の朧な橙に癒しを感じた。
外衣を翻す端正な後姿を眺め、騎士の気紛れに淡い期待を抱く未熟さを、重ねて戒めた。
やがて仄暗い回廊に響く靴音が立ち止まり、後追いを躊躇う第三席を振り返った。
少年は情熱を燃やし続けた幾つもの季節を想い、自身の素直な選択に従って、ゆっくりと一歩を踏み出した。