日捲りが一枚ずつ剥がされるに連れ、昔馴染みへの誕生日記念について苦慮していたナイト・オブ・スリーは、密かに焦燥の度合いを深めた。
十を迎える年の初秋から始まった交際は、本質的には慎ましいものであったが、大人顔負けの奢侈な遊興に掛けられた額を、終ぞ承知し得なかった。
不夜城からの帰りしなには、じゃれる素振りで、内緒。と瞳を眇める踊り子達から、何時も上着の浅い隠しに歓待の代価を捻じ込まれ、途方に暮れた。
躊躇いつつも支払った本人に渡そうとすると、随分と羽振りが宜しい様で。と惚けて紫煙をたなびかせ、仕方無しに翌日の散歩で、その幾らかを撒き餌に費やし
た。
彼にとっての煙草銭は、禄を食む身となった今日振り返っても決して廉からず、子供ながらに執着心の薄さを憂慮する度、片眉を上げて戯けた。
ジノは白い制服から懐中時計を取り出し、内蓋に刻まれた文字をそろりと指で撫ぜては、またひとつ溜息を落とした。
出逢って最初の誕生日に贈られた銀無垢は、硝子皿の奥の小さな紋章に気付いた兄から、邸宅を構えられる値打ちと教えられ、面喰った。
歳下は黙して相伴に与れば良い。と一度も自弁を認めて貰えず、翌月のクリスマスも春の誕生日さえも、当然の様に贈与は固辞された。
少年の拗ねる仕草に、頬杖を突いたまま睫毛を俯け、All I need is ……と零したが、くすりと小さな微苦笑で、最後の一語を秘密にした。
考え倦ね、母と大切に育てた季節の花々にリボンを掛けて、おめでとう。と含羞むと、黄金色の髪に優しいくちづけが捧げられた。
密かに執事から手順を教わって淹れた珈琲や、ヴァイオリンの奏曲なども好評を博したが、追想の援けとなる物は何一つ望まなかった。
騎士の最高位を得て認知度も高まり、もはや親の膝下を離れて充分な身となった今、永らく続いた親交に形で報いたいと考えた。
心を慰める何某かを思案したものの、粋な着こなしで貴公子達の憧れを攫った昔日が甦り、気後れから儚い吐息を幾つも重ねた。
誕生日まで一週間を切っても、依然懊悩を抱いたままで、終いには、沈鬱な表情を見咎めた当人から、むに。と右頬を摘まれた。
和やかな紅茶の時間にそぐわない態度だったと改め、ごめん。と囁きで返して、小皿に載った焼き菓子を、そっと口許に運んだ。
やわらかな生地を咀嚼し始めたが、直ぐに微妙な違和感を覚え、しゅんと上目遣いで、向かい席に掛けたナイト・オブ・フォーを窺った。
「エルンスト卿のお手製だと思ったのに、残念……」
「たった一口で見破られてしまいましたわね、ドロテア。」
可愛らしい不服顔に、悪戯を仕掛けた女性達は、小鳥の囀りにも似た快活な笑い声を響かせた。
テーブルに並べられたチーズスフレのうち、半分はドロテアが拵え、もう半分は、過日の手違いを詫びに訪れた第二皇子の側近の作と、モニカは告白した。
双方とも優劣付け難い出来映えで、交互に配されたケーキ皿の正体は、食べる迄のお楽しみ。と内密にされた。
副官の腕前も一級品だったが、馴れ親しんだドロテアの控えめな味と比べ、些か甘味が勝り、ジノはティーカップを心持ちゆっくりと傾けた。
大人しくフォークの先端を刺そうとした処へ、右横から手付かずのデザートを差し出され、きょとんと青い瞳を瞬かせた。
頬杖を突いたルキアーノは、要領を得ないナイト・オブ・スリーの手元に皿を置き、やれやれ。と大仰に嘆息を漏らした。
ジノは狼狽しつつ、スフレと隣の席とを二、三度じっくり見遣り、頂戴した方を一掬いして、はい。と十番目の騎士に勧めた。
「………………結構だ。」
「ふわふわの絶品だぞ?」
「其れは何より。」
「もう。ほら、卿が御覧になっているじゃないか……」
正確には、その場に居合わせた全員が、事の成り行きに注目していた。
ナイト・オブ・トゥエルヴとグラウサム・ヴァルキリエ隊が、劇的瞬間を収めようと、携帯電話を翳して虎視眈々と狙い、ドロテアは幾分不安げな面持ち。
一欠片も口にせず譲渡したのは流石に乱暴と観念し、微かに揺れる銀食器の切っ先を、そろりと食んだ。
フラッシュを焚かれて顔を顰めたものの、確かに。と述べた感想に、涼やかな目許を綻ばせる気配を察して、寛恕と弁えた。
紅茶茶碗の繊細な把手に指を絡めたルキアーノが、何気に心痛の種を質すと、やさしい甘さを堪能していた横顔が忽ち萎れた。
湛えた琥珀色を下向けながら、促す素振りで一瞥した。
ジノは躊躇いがちに睫毛を伏せ、誕生日プレゼント…。と煩慮の事由を仄めかし、素直に伺いを立てた。
肩透かしを喰らった様子のルキアーノだったが、昔日の述懐を交え、子供時代からの大願と含羞まれては、些事とも扱い難かった。
女性騎士達も同じ気掛かりを抱えていた風で、苦笑しつつも思いを巡らせる第十席に、熱視線を注いだ。
皆が固唾を呑んで見守る中、静やかな熟考の時間が流れたが、最後は頤を左右に振り、落胆の色を滲ませた溜息が其処此処で漏れた。
同僚達は緊張を解いて、午後のテーブルに、再び賑やかしいお喋りの花を咲かせた。
隣で項垂れる眩い金髪を眺めていたルキアーノは、Don’t you really understand
it?と微かな声で挑発し、戸惑う青空色の瞳をくすりと煽った。
「今更願うのも滑稽だが……既に充分享受していながら、猶欲深になる。」
「……え?」
談笑に掻き消されそうな小声を護ろうと、五指で庇った耳朶に、薄い唇が希望をそっと伝えた。
ジノは重心を右に寄せたまま、囁かれた言葉を一頻り反芻したが、意味する処が上手く解せず、束の間呆然とした。
二人の部下から、恭しく退席の時間を告げられたルキアーノは、深刻に考え過ぎだ。と苦悶し続ける騎士の肩を叩いて、部屋を後にした。
扉が閉じられた後も、ジノは虚空を見詰め、ゆらゆらと向かいで掌を振っていたドロテアは、無理難題を吹き掛けられたものと判じた。
喜色満面のノネットとモニカは素早く彼の両隣に腰掛け、で?と耳打ちの真相に迫った。
蒼穹の様な瞳が次第に像を結び、やがて、はたと我に返ったジノは、瞬時に頬を染めて口許を両手で覆い、断固として拒否を貫いた。
好奇心に満ちた女傑達は大層手強かったが、彼の地位と名誉と誇りに懸けて、鼓膜に残る秘密を厳守した。
そうせざるを得ないのも、道理だった。
一夜限りの相手に望む。と告げた艶やかな低音が、未だ耳奥を震わせていた。
普段のシニックな口調であったなら、誕生日に性質の悪い冗談だと往なせたが、趣旨とは裏腹の真摯な響きに、激しく狼狽した。
今更…。と漏らした呟きは、暗がりを怖れて添い臥しを強請った、幼い時分の記憶と感知したものの、慈愛に満ちた思い出であった。
想定外の返答ながら、永らく家族同然に親しんできた昔馴染み相手に、敢えて火遊びとした真意を忖度し兼ねた。
だが翻って、仮初めでもと切実に願われれば、意向に沿う心積もりで尋ねた手前、容易く退けるのも無作法と憚られた。
去り際の忠告も空しく、ジノは眉間に深く皺寄せて長嘆し、隠しに仕舞われた銀無垢の音に、ゆっくりと瞼を伏せた。