柔らかな肌触りから抜け出して、ジノは制服の隠しから、リボンを掛けた小さな箱を取り出し、Happy
birthday.と手渡した。
掌の箱を、細長い指で器用に廻し見ていたルキアーノが、求婚か?と戯けると、贈り主は含羞んで睫毛を俯けた。
その言葉は、銀無垢の懐中時計を収めたベルベットを受け取った、十歳のジノが彼に尋ねたのと同じだった。
「気に入って貰えるか、自信が無いな…」
ルキアーノは繊細な結びをするりと解き、静かに蓋を開けると、訝しげに首を捻った。
箱の大きさから、貴金属の装身具と想像していた彼は、中身を慎重に指で挟み上げ、Key?と翳した。
「うん…本邸の親鍵。」
「何だと?!そんな大事な物を、軽々しく受け取る訳には…ヴァインベルグ卿に御返ししろ!」
「家族の了承も得ている。……父に、シュナイゼル殿下の護衛の件を話したんだ。」
「……何事か仰せか?」
「『義理立て』という言葉に少し驚いて、“私はずっと、我が子のように想っていたのだが…”と話していた。」
「卿……」
感慨深げに口許を押さえたが、ルキアーノは眉宇を寄せたまま、手の窪に載せた古めかしい鍵を見詰めていた。
ジノは、猶受取りを逡巡する彼の五指を順々に折り込み、赤銅色の細長い金属をそっと握らせた。
「昔から…贈り物には、未熟な私の力強い援けとなる物を、必ず選んでくれただろう?子供心にも、気付いていたんだ。」
特別な日以外にも、金髪を結わえる細紐や軸先の滑らかな万年筆、稀少な絵画集など、金額の大小に関わらず、大切な思い出の品々が残された。
気紛れな振りで授与された物は、的確に有用と判断され、何れもその時々に歳下の紳士を急場から救い、同時に稚い内面を癒した。
「濃やかな配慮に報いたくて、でも…見掛けた憶えのある物しか、思い浮かばなかった。何かして遣れる事は無いかとも、考えてみたけれど…」
「気持ちだけで充分だ…深刻になるなと言った筈。」
眼窩を縁取る翳を、冷たい指先でなぞって窘めた。
ひとり殻に籠もって煩悶していた間、他人行儀を責めもせず、一途に平静を貫いた彼の親切をジノは思った。
「慰めが欲しくなったら、何時でも逢いに。力添えには及ばないとしても、傍に居させて呉れ……たった一人の幼馴染の幸福を希うだけが、為せる総てなん
だ。」
極めて曖昧な定義の無形物にも関わらず、間違いなく其処に在る何かを象徴したものが、優美な装飾品にも似た鍵だった。
遠い邂逅の夜に、空虚な貴公子を跪かせるほど強く惹きつけた気高い感情は、肌を許す瀬戸際までジノを躊躇わせて、不滅の証左とした。
「お前には、永遠に敵わんだろうな。」
苦笑混じりに拝受の意を伝えると、ジノは我が儘半分の強引な贈呈を素直に謝り、萎れるように嘆息して黙った。
瞬きが伏せた長い睫毛を微細に震わせ、涙の予感に、鍵を握り締めた手先が、俯けた頤をゆっくりと掬い上げた。
「私の至願は、遥か以前に叶えられている。此れ迄に何度と望んでは、望んだだけ……枯渇さえ厭わず捧げられた。最早、充分過ぎる程だ。」
「ルキ、話が上手く呑み込めないよ…子供の頃は、私からの贈り物を断り続けたじゃないか……」
贅沢な不満と長年憚ってきた言葉が零れ、そろり瞼を上向けて窺うと、ルキアーノは顔を逸らして手の甲を唇に宛がい、幼い仕草をクスクス笑った。
幾つになっても年下扱いする彼に、常々頬を膨らませていたジノは、恥ずかしげに怖ず怖ずと顎を引き、相手の言葉を反芻しては小首を傾げた。
思案に耽るつもりが、男前が下がる。とルキアーノから眩い金髪共々に集中力を掻き乱され、謎解きを観念した。
ジノは意地悪に見せ掛けた気遣いを感じ取り、離されようとした大きな手を引き留めると、甘える素振りでそっと頬を摺り寄せた。
「ルキアーノ……あの時、本当は何を希望したんだ?」
「五月蝿いお喋りの所為で、正確に聞き取れなかったようだな。」
「囁き声だって、小さかっただろう?全部を拾うなんて無理だ。」
「………… “All I need is one knight’s love.”」
あ…。と微かな感嘆を漏らして、青空色の瞳の奥がふわりとやわらいだ。
昨秋近まった歳が今日でまたひとつ離れても、輝石を想わせる慧眼は、最後には必ず、幾重にも覆い隠された繊細な核心を看破した。
過日を髣髴とさせる深みのある低音で、御名答。と返して、ルキアーノはヴァインベルグ邸の鍵にくちづけた。
春は、悲しみの季節だった。
ルキアーノの誕生から三度目の冬が終わる頃、就褥したきりの母が身罷り、錯乱状態に陥った父は、嬰児を呪い、折檻した。
片親から引き離され、親族の監督下で名家の長に据えられた彼にとって、世界とは、形骸化して色褪せた悪趣味な箱庭に過ぎなかった。
年端もゆかぬ金髪の小公子が、愛の一切を否定し続けた虚ろな精神に、その真義を実証しなければ、彼の命はもっと早くに摩滅していた。
草花の萌える頃に、永訣した母を偲んで出生を懺悔する習慣は、幼い友人を同伴した年から、穏やかな哀悼の時間となった。
睡眠不足を理由に帰宅を促されたジノは、精一杯の慈しみを籠めて、橙色の頭をふかふかのピローに載せ、肌触りの良いケットを肩まで掛けた。
その後、大人しくベッドから下りたが、床に両膝を立ててルキアーノの枕元に頬杖を突き、子守唄でも歌いだしそうな風情。
「…おい、何をしている?」
「寝入るのを見届けてから帰ろうかな、と。」
「何処ぞの誰かさんと違って、暗闇怖さで一人寝出来ないほど、鋭敏な感性は持ち合わせていない。傍に居られると却って障害だ。私に構うな。」
「……添い寝して欲しい?」
「結構だ。」
「あ、おやすみのキスは?」
「要らん。」
「えっと、ね…じゃあさ、」
「全く…好い加減にしろ!」
若干大仰に諭したつもりが、瞬間びくっと制服の肩先が揺れ、純白のシーツをぎゅっと握り締めたジノは、ごめん…。と萎縮した声で謝った。
ルキアーノは、罪の無い子を叱った様な後味の悪さに狼狽し、軀を傾けて、項垂れた白皙を下から窺い、宥め賺した。
「ジノ…?」
「…………」
「言葉を遮って悪かった。他に…何をするんだ?」
「いいんだ……もう遅い時間だし、失礼するよ。」
「中途半端な処で話を切られて、熟睡できると思うのか?」
「…………小さい頃は、夢に怯えないように、一晩中手を繋いで貰ったから…」
それは、九つのジノが吐いた優しい嘘だった。
ルキアーノに自覚は無かったが、先に休んだ小さな温もりに寄り添って微睡む時、彼は必ず、子供の手を指先でそっと撫ぜた。
冷たい感触に目醒めても、餓えた心のささやかな甘えの仕草を、ジノは瞼を閉じたまま静かに赦した。
暫く経った或る夜の寝しな、夢見が悪いと偽りの打ち明けをして、彼の知らない躊躇いがちな癖を強請った。
ジノはもう一度ベッドの端に腰掛け、ブランケットから覗く長い五指を軽く握り、Good night.と囁いた。
Good knight.と悪戯っぽく片眉を上げたが、やがて緩慢な瞬きが微かな寝息に移り、掛け布が穏やかに上下した。
小半時程見守った後、ジノはゆっくりと手を解いて、スプリングが軋まないよう注意しながら立ち上がった。
気配を潜めて部屋を後にしようとしたが、バスルームの灯りが目に入り、足音を忍ばせた。
近付いてみると、ブースの奥からも光が漏れ、浴後は必ず栓を抜くほど几帳面な彼を思い、ジノは怪訝に密閉された防水扉を開いた。
中はじっとりと湿度が高く、換気もしていないのを猶更不審に感じ、温湯を湛えた優美な曲線のバスタブを窺った。
彼はクスと漏れた口許を慌てて覆い、乳白色の水面にたゆたう三羽の黄色い水鳥達に、目を細めた。
「可愛い…」
此処からは覚束無い部屋の主を、ちらと振り返ると、ナイト・オブ・スリーは迷わず黄金色の蛇口を捻った。
子供のように瞳を輝かせた彼が、夥しい水飛沫を上げて、大理石の浴槽に飛び込む迄、残り時間は、あと―――――。