04. 至純

誕生会が無事に幕を閉じた後、ジノは些か緊張した面持ちでナイト・オブ・テンの執務室を訪れた。
深呼吸をし、充分な心構えで重厚な扉を等間隔に四度鳴らしたものの、残響が耳元を離れても、中から応答する気配は一向に窺えなかった。
把手に触れると、常ながら無用心にも施錠されておらず、拍子抜けする程あっさり蝶番が軋んだ。
不在かと踵を返そうとしたが、奥から聞こえた微かな物音に眉を顰め、静かに足を踏み入れた。
隣部屋へと続く扉の前に立つと、最初から此方に気付いていたらしく、馴染みの声が得意気に名前を言い当てた。
悪戯好きな子供気質は、ひとつ歳を重ねても相変わらずで、ジノはくすりと顔を綻ばせ、掌の小さな真鍮を回した。



仮眠室の扉を開くと、着替え途中のルキアーノが、クロゼットにずらりと掛けられた衣服を眺めていた。
オリーヴ色のボトムスに合わせるシャツを決め兼ねている様子で、無防備に曝された彫刻的な半裸体からは、仄かな香水石鹸の名残がした。
生成りに朽ち葉色を織り込んだ一着に袖を通し、上二つを飛ばして釦を留めると、ようやく振り返って、どうした?と見惚れていた騎士に尋ねた。
頬染めたジノは、帰り支度を邪魔してはと慌てて首を振ったが、浅紫の瞳を僅かに細められ、観念して溜息を吐いた。

「時間…、本当にいいのか?」
「酔いが醒める迄なら。朝帰りを強行した所為で、丁度、旅疲れも感じていた処だ。暫く休んでから戻る。」

背伸びをしながら言うと、整えられた褥に横たわり、ふっくらとした感触を堪能する様に、並んだ枕のひとつに鼻先を埋めた。
広げたブランケットで、彼の軀をそっと包み込んだジノは、ベッドの端に腰掛けて、組んだ十指を膝に置いた。

「誕生日プレゼント……先週、紅茶の時間に訊いただろう?あの時貰った返事を、如何解釈すれば良いのか、悩んでいたんだ…」
「それが、此処最近の憂い顔の原因か。」

呆れ口調の受け答えから、シュナイゼルの言葉に違わず、見守られていた事実を知り、一層切なく胸を締め付けた。
気遣いに感謝しながらも、今また、馬鹿馬鹿しい。と素気無く切り捨てられ、不明瞭な嘘と本当に翻弄されそうになった。

「喜ばれる何かを贈りたかった。強請られた例の無い相手なら、猶更希望に添いたいと…。だが、ルキアーノ…耳打ちされた言葉は、真偽を判断し兼ねる。」
「戯れ言とでも?」
「…………願いを叶えれば、我々の関係は確実に破綻する。それでも、欲しいか?」

祈る様に、睫毛を俯け、両指をきつく交差させた。
静かに上体を起こしたルキアーノは、艶を帯びた低音で、渇望して止まない。と、そばだてる白い耳翼にはっきりと返した。
ジノは打ちひしがれ、柳眉を寄せて吐息を漏らし、微かに滲む瞳を向けた。
幼い日に、彼にせがんだ約束は、羞辱を謀った過去を、決して十字架にはしない事だった。
兄同然に敬愛し続けてきた年月も、今宵ひと度の戯れで灰燼に帰すのだと悲嘆したが、見詰める美しい淡紫の双眸から、本気と受け止めた。



戸惑いながら伸ばした腕を、ぎこちなくルキアーノの襟元に絡めると、優しい沈丁花が香った。
母を偲ばせる極上のパフュームは、移り香にして何度と持ち帰った思い出を甦らせ、小高い鼻梁が彼の項を掠めた。
自分を欲望の対象と見做した相手と分かっていながら、慄いて縋ると、大きな右手がジノの背をそろりと撫でた。

「抱き…締めて…くちづけて…………それから…その…後、は…?」
「…………ジノ…」

首筋に温かな雫が伝うのを感じたルキアーノは、身動ぎで三つ揃いを僅かに離した。
やわらかな金髪を払い、丸みの残る白皙の頬を両手で包み込むと、親指の腹で眦の湿りを拭った。
円卓の第三席を預かる騎士は、小さく肩を震わせ、嗚咽を堪えるように、赫い唇を噛んだ。

「ずっとずっと、大切な存在だった…ルキアーノ、お願いだ……どうか、嘘だと…」
「私の望みは唯一つだ。」
「…愛しているんだ……」

擦れた悲痛な叫びに、薄紫の瞳の奥が揺らめいた。





ルキアーノは傾けた下顎に指を添え、深く愁嘆するジノを暫く窺っていたが、考え倦ねた様子で肩を竦めた。
真新しいハンカチを貸して遣ると、碧眼が怪訝に瞬き、弾みで、際に浮かべた涙がほつりと落ちた。

「…ありがとう。」
「落ち着いた処で、詳しく説明して貰いたいのだが?」
「説…明?」
「お前が此の部屋に来てからの話が、今ひとつ解からん。折角、希望を答えて遣ったのに、何故余計に悩む?」
「訊いたけど、幾ら何でもあんな…!!」
「泣くほど厭か?」
「許容範囲って、言葉があるだろう?!」
「大袈裟な話だ。」
「お…、大袈裟ぁ?!如何いう貞操観念をしているんだ!!真剣に申し込むならまだしも…一体、私がどれだけ沈鬱な日々を過ごしたと…」

軽薄な態度に息巻いたが、貞操?と眉を顰めて聞き返されて、彼の気炎は急速に立ち消えた。
橙の髪を掻き上げると、視線を落として記憶を辿り始め、ジノもまた、大人しく傍に端座し、先日の遣り取りを振り返った。

「端的な言葉を選んだつもりだが、甚だしい齟齬を感じる…意味を誤解していないか?」
「素直に訳したさ。誤解も何も、拡大解釈の仕様も無いじゃないか……一度きりの熱情なんて…」

萎む語尾を耳にしたルキアーノは、心外とばかりに片眉を上げた。
目許に薄紅色を差したものの、思い掛けない反応から曲解と知り、狼狽する声で尋ね返した。

「“one night love.” ―――仮初めの情事…と……」

上目遣いに窺うと、ルキアーノは途端に噴出し、大層怪しからん願いだ。と文字どおり抱腹絶倒した。
普段は肩を揺するだけが声を上げ、ジノは熟れた果実の様に頬を染めて、意趣返しに、身を捩る彼にブランケットを覆い被せた。
幾らかでも溜飲を下げたかったが、やわらかな織物をちらと捲ると、相手には事欠か無い。と意地悪を言われ、枕を投げつけた。



連夜真意を忖度して、碌な睡眠を得られなかったジノは、勘違いとも知らず、悶々と悩んだ挙句にからかわれ、流石に外方を向いた。
拗ねた素振りをくすりと笑い、グローヴを嵌めた手を強引に引くと、わ。とバランスを崩してスプリングを軋ませた。

「抱かれる為に、わざわざ此処へ来たのか?」
「五月蝿い。私の気持ちも知らないで…違うなら、何故拒まなかったんだ?!」
「此れ迄、散々人のベッドに潜り込んでおいて、何を今更。抱擁も接吻も、お前の常習だ。許容範囲だと?全く譲歩に当たらん。」
「其れこそ誤解される!暗闇を怖がった頃の話だ…それに、親愛のしるしを深読みするな!甘える時は、ぎゅっと抱き締めるだろう…普通?」
「ほう。」
「キスだって、額や頬じゃないか!……あ…その、えっと…髪と手……瞼も…かな?」
「淫逸な仔猫(キティ)だ。」

反駁が却って羞恥心を煽る結果となり、耳朶まで火照らせたジノは、ブランケットを奪い取ると、隠れるように包まった。
ルキアーノは喉奥で笑いを噛み殺し、子供は常々寝冷えする。と毛布の乱れを丁寧に正した。
皮肉めいた揶揄かと端から覗くと、儚げな微笑みを湛えた瞳を捉え、ジノは機嫌直しを装って、優しい温もりを分け与えた。