誕生日の話が綺麗に纏まった処で、俺達は当初の目的である宿題に取り掛かった。
リヴァルと会長は、カレンダーを見て青褪めたのも納得で、苦手とする理数系の教科を半分以上残していた。
冬休みの期間中は何かと行事が多く、二人が誘惑に流されたとしても不思議はなかった。
幸い、課題の殆どを終えていたシャーリーが手伝ってくれ、俺は安堵の胸を撫で下ろした。
今日中に目途が付かなければ、心残りで、とても明日を迎えられなかっただろう。
隣でくすりと笑うジノは、折角帰国しても本宅で暇を持て余し、片付けてしまったのだと肩を竦めた。
役員を招集した会長が、申し訳なさそうに掌を合わせて謝ると、小さく頭を振った。
「みんなの顔を見たかったから、良いんだ。ちょうど手紙を書くつもりだったし……邪魔はしないよ。」
古風な伝達手段が意外で、机の上に置かれた手帳と万年筆を興味深く窺うと、またクスと笑われた。
言葉どおり、中には封蝋の施された手紙と真っ新な封筒が挿してあり、私信を交す習慣を想像した。
ラブレター?と尋ねられると片眉を上げ、洗練されたペーパー・ナイフを使って封切った。
「昔馴染みからです。逢えない時には手紙を書くと約束して、気付けば、もう七年半も続いた文通で……」
「それは随分長いね。ジノ君が子供の頃からって事でしょう?」
「仲が良くても、時間が経つと途絶えてしまうものよ。相手の事を余程大切にしているのね、お互いに。」
「俺の予想する展開としては……、ずっと友達だと思っていたけど、ある時自分の中で密かに恋愛感情が芽生え」
「ません。」
自説の途中で打ち消されたリヴァルは大袈裟に残念がり、明るい笑声が部屋中に広がった。
その否定が自分に向けられたものの様な気がして、俺は談笑の輪の中から少し外れた。
長年書簡を往復したとしても、叶わない願いだった。
あの太陽の微笑みを捉える事が出来るのは、一体どんな人だろうかと思いを巡らせた。
隣に立つ人影を想像しながら横顔を見詰めていたら、不意にやわらかな視線を向けられ、赤面した。
「送り主は、幾つも年の離れた大人の男性で、とても気難しいのですが、子供だった時から誠実に親交を深めてくれた、優しい人です。一見すると冷淡な様で実
は慈しみに満ち、少し愁えた翳がある処も魅力的で、幼心に強く憧れて……、年の差も弁えず、此方から申し込みました。」
私が初めて口説いた相手です。と含羞みながら懐かしむ瞳は、穏やかな澄んだ色をしていた。
静かな話し振りに惹きつけられ、耳を傾けていた誰もが交際の深さを感じた。
「永く続いたのは同性故とする処が大きくて、違っていれば……、そうですね……或いは、恋に落ちたかもしれません。恋愛感情とは若干異なりますが、彼を大
切な存在だと思うし、家族のように自然な意味合いで、とても愛しています。」
「そういう関係なら、一生続くんじゃないか?」
「それだけ相手の事を思い遣れるんだから、きっと続くよ。」
「大事にしなきゃダメよ。生涯の親友と巡り逢えないままの人だって、たくさん居るわ。」
満たされた表情で語り合う三人を、ジノは優しい眼差しで見守り、其処だけ光に包まれた様だった。
俺は命の一片を捧げるという言葉を思い出し、その人には数え切れない程分け与えたのだろうと、胸を切なくした。
嫉妬だった。
向けた相手が手紙を送った紳士ではないと気付いて、内心激しく狼狽した。
あの眩い微笑みは、家族や友人達の深い愛情に育まれた純真な心の表れで、憧憬と羨望を恋情と錯覚していたのかもしれないと思った。
俺が本当に求めていたのは、果たして…………。
「女性なら、初恋だった。」
耳に届いた微かな声に、心臓が悲鳴を上げた。
ジノは封書を眺めていた淡色の瞳をそっと閉じ、束の間遠くに在る人を想った。
「時々大人っぽい仕草をするのは、その人の影響かしら?」
小首を傾げるジノに、会長はちらりと俺を見て、耳打ちとかね。と言葉を続けた。
上手く躱したつもりだったが、矢張りまだ内容が気になっている様子で、悪戯な丸い瞳に俺は眉間を押さえた。
最も敵に廻したくない相手ではあるものの、その件に関しては断固黙秘を貫く構えだ。
「子供染みた内緒話ですよ、会長。どうぞ御気になさらないで下さい。」
努めて涼しい声で言うと、腕組みをした会長は嫣然一笑して対決姿勢をとった。
条件反射でびくりとなったのを見て、リヴァルは肩を揺すり、ジノとシャーリーは心配顔で窺っていた。
「人間の心理としてね、眼の前で意味有り気に密々されると、とっても気になるのよ。」
「隠れてやらなかったんだから、そりゃ仕方無いよな。」
「それはジノが場所を選ばず、突然……いや、待て。隠れるのなら、そもそも耳打ちする必要は無いだろう?」
遣り返すと、会長は立てた人差し指を顔の横で振って、容易くあしらった。
二人きりなら、普通に話せば良いのでは……?
「堂々とやるって処がオ・ト・ナ、なのよ!分からないかなぁ、副会長……」
さっぱりだが、溜息混じりに余裕を見せ付けられると、何だか悔しい気がする。
リヴァルの方が先に回答を得たらしく、眉根を寄せる俺に咳払いする素振りで、そっと漏らした。
「まぁ…確かに、ちょっとエッチな感じだしな。……耳打ち。」
「何だと!?」
愕然として詰め寄ると、リヴァルは困惑しながらも、口元を覆って耳打ちする真似をした。
それは小さな子がよくする可愛らしい仕草で、二人が遠回しに言う不謹慎な要素など全く無かった。
「ほら、手で隠すと何してんのかなぁ…って……」
「何だ?耳打ちする時は、声が他に聞かれるのを防ぐ為に、そうやって手を添えるものだろう?隠して何をすると言うんだ?はっきり答えろ、リヴァル!」
「先輩。そんなに早口で喋ると、舌を噛んでしまいます。落ち着いて……」
「噛んだの、耳だったりしてね〜」
会長の鈴を転がす様な声は、まさに青天の霹靂だった。
罪の無い遊びみたいなものだと思っていたのに、そんな風に見られていたのかと、俺は猛烈な眩暈に襲われた。
「じゃあ…最初、ジノ君がくすぐったそうにしていたのも、ルルが真っ赤になって逃げちゃったのも……、そういう事…だったの?」
「ち、違う!二人の勝手な妄想だ!!信じてくれ、シャーリー!そんな事は、断じて無い!み…耳を、か……か、噛んだりなど……」
シャーリーは沈痛な面持ちで、目にはうっすらと涙さえ浮かべていた。
俺は有らぬ疑いを晴らそうと頻りに首を振ったが、話を複雑な方向へ導くかのように、脇から邪魔が入った。
「じゃ、舐めたり……」
「するか、馬鹿者!!」
「ちょっと掠めただけです。」
「余計な事を言うな!くそ…お前、どっちの味方だ?ますます収拾が…つか…な、……く、……………何!?」
「話し掛ける時に少し唇が触れて……。キスをされたのかと、実はとても驚きました。」
屈託の無い笑顔で説明されて瞠目したが、……ルル。とか細い声に呼ばれて、我に返った。
もしかして、今のような状況を、四面楚歌と言うのではないだろうか……。
ふふふ。と得意顔の会長とは対照的に、俺は嘆息してがっくりと項垂れた。
「可哀想だから、これ以上の穿鑿は止めてあげるわ、ルルちゃん。」
「大体、お前は年下には甘いって言うかさ……、上手く、主導権を握られてるだろう?……ジノに。」
「おい!!誤解の無い様に断っておくが、此方がイレギュラーに応対してやっているんだ!」
断定口調で訂正させてもらったが、向かいに掛けた三人は、シャーリーまでもが、やれやれ。と呆れ顔。
時折紳士的な所作に動揺を隠せないのは確かで、年上としての面子が立たずに、苦笑する場面も少なくなかった。
「ルルーシュは結構複雑というか、なかなか扱い難い処もあるだろう?警戒心、強いし……」
「……人懐こい性格ではないのは、認める。」
「でもジノと一緒にいる時のお前って、本当の意味での素顔に戻ってる気がするんだよな。」
「ジノ君の前では、表情が豊かになるよね。口数が少ないのも、か…格好良いと思うけど…」
「年下と言いながら、さり気無くリードしているのが、傍見にも分かるわ。自然過ぎて、気付かなかった?」
仄かに匂う香水が、控え目に存在を意識させた。
右隣にはいつも日溜りの笑顔があって、ただそれだけで、倖せだった。
「親しくても、普通は照れや躊躇いが先に立って、そう簡単には出来ないものよ……耳打ちなんて。」
「……あれは、一つの解決策で…」
あの問題を終息させるだけなら、ジノが謝罪を受け入れれば済む話だった。
それなのに、無邪気に強請る仕草ひとつで、自責の念に駆られる俺を掬い上げた。
逆の立場だったら、及びもつかなかっただろう。
「そういう風に気遣ってくれる処が、スマートだと思うわ。」
「ジノが先輩呼びを止めたら、どっちが年上だか分かんないなぁ?」
「でもね、ジノ君が『先輩』って言えば、それだけでルルの事だと分かるでしょう?私はそっちの方が、すごく特別な気がするんだけど……」
「それは確かね。名前と同じくらい、親しみを感じるもの。」
からかい半分だったリヴァルも深く頷き、面映さからジノを窺うと、肯定する様に見詰め返された。
自分だけ名前を呼ばれない事に、寧ろ不安を覚えたことさえあった。
差別化を図っていたとは思いも寄らず、名前で呼びたいと願い出られた以上に、喫驚した。
……特別……?
言葉にする前に、空色がふわと微笑んだ。
「ほら、其処!!今度は何の話をしているの?」
二人は口を揃えて、内緒。と噴出した。
その後みんなは宿題に着手し、ジノは開封した手紙を静かに読み始めた。
ちらと見えた数葉の便箋には、右上がりの細く流麗な文字が綴られていた。
まるで恋文を受け取ったかの様に、何度も丁寧に見返して、ジノは言葉の一つ一つを、そっと胸に仕舞った。
手紙を認める横顔はとても穏やかで、受取人の紳士を少し羨ましく思った。
薄紙の上を滑る硬いペン先の音が、しばらく続いた。
戸締りを終えて生徒会室を後にする頃には、すっかり日が落ち、冬の厳しい寒さを一段と感じた。
意を決して玄関先から踏み出そうとしたら、朝と同じ科白が右隣から降ってきた。
「先輩、待って。」
振り向くと、はい。と今度は両方の手袋を差し出し、ジノは矢張り笑みを浮かべた。
辺りは冷たい夜風が吹き抜け、佇む二人の息は白かった。
厚意に感謝しつつも丁重に断ると、叱られた子供みたいに唇を噛んで押し黙り、俺は慌てて手袋を奪い取った。
「あぁ、良かった!霜焼けになると困るなぁって、心配だったんだ。ありがとう、先輩!」
「……困るのは、俺だろう?ありがとう…?」
「私も困ります!だって、手が繋げなくなっちゃうでしょう?そんなの絶対ダメです!!」
耐えられない!と頬を膨らませるジノを、先に帰った三人に見せてやりたい心境だった。
さり気無く、スマートに、リードする、オ・ト・ナ……だと?
加えて、どちらが年上だか分からない。とか、言っていたな?
笑止千万!!
「あ、そっちの手も出して……」
「ん?」
俺の左手に手袋を嵌め終えたジノが、もう片方の下端を折り曲げて待っていた。
先輩としての矜持から、俺はその手袋を取り上げ、ジノの右手にするりと嵌めた。
指、長いな……。
「……ありがとう。」
「俺が両方嵌めたって、お前が霜焼けに罹ったら繋げないだろう?それに、ナイトメアの操縦だって……」
仕事の話に及びそうになり、瞬間、傷ついた悲しい瞳を鮮明に思い出した俺は、咄嗟に口を噤んだ。
もう二度と、あんな真似はしたくなかった。
「……ありがとう。」
優しい声に、心を読まれたと感じた。
どちらからとも無く、自然に手を繋いだ。
凍える月夜に、指を絡めただけでは熱は護れず、一層身を寄せ合った。
伝わる密やかな温もりが、会長の言葉を証明していた。
俺が固辞する事も、拗ねた振りをされれば受け入れる事も、多分、ジノには分かっていたのだ。
それから後、こうして今、二人が手を携えるまでを、果たして予見出来ていたのだろうか?
無意識に握り締めると、直ぐに立ち止まり、ジノは心配そうに此方を覗き込んだ。
「寒い?ごめんね……気を遣って貰ったけど、やっぱり両…」
一つに重なり合った右手と左手は、吐息を吹き掛けたくらいでは解けない程、固く結ばれていた。
大人の配慮と子供の純真な優しさの、絶妙な加減がいつも心を惹きつけた。
長身が僅かに傾ぎ、くちづけを思わせる仕草で、冷えた指先を互いに温めた。
二人の唇から零れた甘い溜息が、束の間冬を忘れさせた。
クラブハウスに着き、借りていた手袋を渡すと、もう左様ならしかする事が残っていなかった。
「あと少し早ければ、是非食事に誘いたかったけど……、残念。出掛けるには、遅い時間。」
「日付が変われば、また逢えるだろう?」
「……半日以上も、待ち切れないよ……」
名残を惜しむ声に、胸が強く締めつけられる。
今日逢うのでさえ十日振りなのに、明日までの十数時間を本当は待ちたくなかった。
「そんな事を言っておいて、明日の朝遅刻したら何て言い訳するんだ?」
「『貴方の夢をみていました。』」
「御上手。」
くすくす笑うと、ジノは右の小指を立てて、ゆびきり。と約束を強請った。
古い誓いの儀式を知っていた事に喫驚したが、左指をそっと絡めると、嬉しそうに含羞んだ。
「嘘吐いたら……先輩の針なら五千本くらい平気かも。」
「安心しろ。多く見積もっても、その百分の一程度だ。」
「え……やっぱり、ちょっと怖い……」
「時間どおりに来れば、問題ない。」
「先輩も、ちゃんと待ってて。あ、でも…もし朝寝坊しても、可哀想だから、針は呑まなくて良いよ!私、許してあげるから…ね?」
最後は慰める様な面持ちになり、俺は堪え切れずに噴出した。
些か誤った知識を蓄えているらしいが、教えた犯人はスザクか?
俺は涙目を拭いながら、きょとんとするジノに、感謝の言葉を述べておいた。
次第に遠ざかる背中を見送っていると、ジノは門扉の前で身を翻し、腕を大きく振った。
暗闇で覚束無いが、俺はあの木漏れ日のような微笑みを、瞼の内に想像した。