06. hope

息急き切ってクラブハウスに駆けつけると、薄着のまま屋根の下端で佇む先輩を、片腕で引き寄せた。
華奢な軀に残る優しい温もりに胸を撫で下ろしたが、何時から此処に立っていたのかと不安が過ぎった。

「……ごめ……ん……」

約束の時間から、どれだけ過ぎてしまったのだろう。
整わない呼吸のまま、黒髪に隠れた耳朶の辺りに囁くと、ほっそりとした肩先がびくりと喫驚した。
胸元から弱々しい声で私の名を呼んだが、邪魔をする動悸にそれ以上は何も語らなかった。
無言を貫かれるのが厭で、ちらと覗いた白い項に、言い訳を並べた。

「今朝は早く目が醒めて、……折角の青空だったし、少し歩きたくなったんです。……それで、ちょっとだけ離れた場所で車を降りて…。
散策のつもりで、脇に入ったら……その…迷子に…。直ぐに道を尋ねて、出来るだけ急いで来たんだけど……ごめんね…遅刻しました。」

夜風の名残を探して、しっとりと艶やかな後ろ髪を嗅ぐと、僅かに身動ぎした。
ささやかな小指の誓いを、大切に思っていた証拠のように、先輩は沈黙を守り続けた。
別れ際の可憐な微笑みが恋しくて、後悔に居た堪れなかった。

「……ぃ………ッ……」

微かな悲鳴で、無意識に細腰を強く抑えつけているのに気付き、慌てて腕を解いた。
先輩は溜息を吐いて、埋める格好になっていた額を静かに離すと、潤んだ紫色の瞳で、上目遣いに私を一瞥した。

「謝る時は、いつも相手を抱き締めるのか?」
「…………え…?……抱き……締…め……?」

心臓に悪いな。と、子供の悪戯に困った大人の微苦笑で、上着を掴む指をそっと緩めた。
自分の礼節を欠いた行動に狼狽したが、躊躇いつつ残された繊手に、心が細波立った。

「気が動転していて、大変失礼を……。ごめんなさい。それ以外に、思いつく言葉が無いんだ。本当に……、ごめん。」

深謝すると、先輩は薄い携帯電話を取り出し、蓋を開いて中の液晶画面を差し向けた。
首を傾げて小さなディスプレイを覗き込むと、其処に示されたのは、約束よりも幾らか早い時間。
一驚して、あ…。と口許を覆った私は、くすくす笑う上品な白皙の面差しに、ただただ見惚れていた。





くしゅ。と可愛らしく小鼻を隠した先輩は、手渡したハンカチを丁寧に折って仕舞い、私を暖かな屋内へと招き入れた。
席には既に二人分の喫茶の準備が整えられ、慎ましい心遣いが胸を優しく満たした。
ケトルを火に掛けた先輩が戻ると、私は戯けて片膝を突き、贈り物の花束を恭しく捧げた。

「私の…生涯の恋人になって……」

なんて、…ね?
求婚の真似事をした筈が、先輩は首元まで薄桃色に染め、揺らめく瞳で私を熟視していた。
何かを返そうとした赫い唇が微かに震え、逡巡した言葉が幾つも儚く消えた。

「…………ありがとう。とても素敵なアレンジメントだ。真冬の寒さだと言うのに、健気だな。」

睫毛を伏せて芳香を楽しむと、不意に細身を屈め、しなやかな指の背で、戸惑い気味に私の頬をそろりと撫でた。
私は鼻先を埋める素振りで、冷たい。と窘める真っ白な手の甲に、密かな接吻をした。



沸騰を知らせる笛が鳴り響き、喫驚して厨房へと入っていく後姿を見届けると、私は深い溜息を漏らした。
甘い展開を期待しないでもなかったが、実の処は、救われた。と、ほっとしていた。
一度心を赦すと、安易には拒み切れない優しい人で、受け流す余裕を奪ったのは、私だ。
相手を傷つけない様に細心し、望まれた答えを手探りで求め、不安で声にするのを憚った。
過ぎ行く先輩の横顔はとても切なげで、涙に濡れて見えた。
本気だと、伝えたかった。
―――抱き締めて、くちづけて、もっともっと貴方が欲しくて堪らない。
この狂おしい嵐のような想いに、私は永らく翻弄され続け……。
秘めた感情が爆ぜるのを、巧みに遣り過ごすより他に、大切にする術を持たなかった。





綺麗な形を崩さない様に、丁寧に挿されたガーベラの花を、先輩は穏やかな表情で眺めていた。
嬉しい?と尋ねると、含羞んで素直にこくんと首肯し、もう一度、ありがとう。と口にした。

「花を贈られたのは、初めてだ。」
「本当?」
「いつもは、贈る立場で……」

花束を結っていた銀灰色のリボンを、頻りに指先で弄りながら、俯けた視線をちらとだけ上げた。
そっと微笑むと、覚束無い手つきで紅茶を傾け、ふわりと漂った蒸気で恥じらいを隠した。

「実は、寄り道をしていた時に、仕度途中のフローリストを偶然見つけたんです。無理を承知でお願いしたら、快く了解してくれて。
どの色を選ぼうかと随分悩んだ所為で、危うく約束の時間に遅れそうになりました。全力疾走なんて、多分、士官候補生の頃以来。」
「連絡を寄越して貰えれば、迎えに行ったが……」
「大 丈夫。子供の頃から社交界では、指折りの『迷子の仔猫ちゃん』でならした私です。最後にはちゃんと、涙を誘う感動的な再会が用意されていますので、御心配 には及びません。尤も、昔、御目付役だった兄は、私と出掛けると意中の令嬢と碌に話も出来ず、大変な苦労をした様ですが……そこは割愛します。」

先輩は眦を指で拭いつつ、兄上は御気の毒だな。と、小さく肩を揺らして笑った。
外套も羽織らずに立っていた理由は、いつも御行儀悪く二階の窓から訪問する私の事が気になり、偶然窺っていたのだと肩を竦めた。
その説明には、可愛い嘘がちょっとだけ含まれていて、ほんのりと染まった勝気な鼻先を重ね合わせ、私は目許を綻ばせた。



飾られた中の一輪をくすぐる様に爪の先で撫でると、先輩は、向日葵の印象が強かったが…。と首を傾げて呟いた。

「ガーベラは……私の最も理想とする女性が大好きな花で、見掛けると思い出されて、少し胸が切なくなります。花言葉もひとつひとつ教わって……」

瞼に浮かぶ懐かしい面影に、言葉が途切れた。
一緒に過ごせた筈の時間を失うと知った時、愛しているわ。とだけ伝えて、彼女は私を見送った。

「もう逢えない人、なのか?」
「いいえ。機会が少ないだけですよ。逢えない時でも、常に気に掛けてくれて……それだけで、倖せ。職務に専念する事で応えたかったのですが、今の軍位に就 いてからは、猶更心配な顔を。戦局に赴くと報告するのが、…一番辛い。先輩と話していると、そういう処が似ている気がします。」
「…………気持ちを、伝えてみてはどうだ?」

細布の絡む指をぎゅっと握り締め、控えめに提案した。
片恋の相手と誤解された様で、私の心中は些か複雑だった。

「優しい言葉とくちづけを与えてくれますが、残念ながら人の妻で……」
「…………そう…か…」

先輩は紅茶をひとくち飲んで、動揺を流し込み、気まずそうに視線を落とした。
恋愛事情には驚くほど疎くて、焦らされている様な錯覚を起こすが、気付かれない事実の裏で、赦されている部分も多々あった。

「彼女は伴侶を大変深く愛していて、実際二人はとても似合いの夫婦なんです。……私という、自慢の息子も授かっていますし。」
「…………え?」
「私も父を尊敬しているので、長年連れ添ってきた母を略奪するのは、どうにも心苦しく……」

先輩は漆黒の睫毛を数度瞬かせて、束の間きょとんとしていたが、私が片眉を上げると、途端に噴出した。
静かな冬の朝には、この幸福なひとときを何度も何度も懐かしみ、温かさに胸を満たすだろう。



今日の予定を尋ねると、誕生日にはケーキだ。と尤もな話になったのだが、私は創作意欲に満ちた先輩に、憚りながら苦言を呈した。
腕前は超一流でも、自分の誕生日ケーキを自分で作るのは、ちょっと変……では?
主役自ら、『Happy Birthday,Lelouch.』とチョコレートのペンで記すなんて、矢張り腑に落ちない。
意気軒昂に材料を買いに出掛けようとするのを制し、パティスリーに誘ってみたものの、予想どおり固辞された。

「其処は甘えてくださると、嬉しいです。」

自主製造を止められた先輩は、楽しみを奪われた子供みたいにがっかりして、私は何だか意地悪をしてしまった気分。
何処の名店のケーキを以ってしても、素直に喜ぶ顔は見られそうにない。
先輩は食事自体よりもその製作過程の方が好きで、もっと言えば、誰かの為に腕を振るう事に喜びを…感じて…いて……。

「……今日は…ずっと、二人きり……ですね…」

今更ながら思い出して言葉にすると、先輩は熟れた果実みたいに頬を赤らめ、ひとつ小さく頷いた。
清純な反応を返され、私は高鳴る胸を考え込む振りで誤魔化し、そっと嘆息を漏らした。

「…じゃあ……私…、先輩の為に作ってあげる。」
「えぇッ?!」
「…………吃驚し過ぎです…」

思わず大きな声を出した口を両手で塞いで、先輩は瞠目したまま、だって…。と言い淀んだ。
余程意外だったらしく、此方を訝しげに窺っては沈思黙考していたが、最後には了解を得る事が出来た。

「御所望は?」
「…………ホットケーキ……」

気が気ではない様子。
頬を膨らませて拗ねて見せると、躊躇いがちな上目遣いで、……ババロア。と小さく希望を伝えた。





出掛ける頃には暖かな日が射し、私は来る時に嵌めていた手袋を、ポケットに仕舞い込んだ。
手を繋ぐ口実を失くして、少しだけ残念に思っていると、点滅するシグナルの前で、先輩の細い指がするりと絡まった。
走ると澄んだ空気が肺に沁み、十指が解けてしまわない様に、二人はそっと歩幅を合わせた。