07. fragile

諸般の事情を考慮したアッシュフォード家の計らいで、学園が生活空間の場となってから、随分久しかった。
命の保障は完璧とは言い切れなかったが、幼い兄妹が身を寄せ合う場所など他に無く、非力な自分に苛立ちを覚えた。
まるで飼われた小鳥だと自嘲しては、退屈な午後の授業を聞き流し、ぼんやりと飛行機雲を眺めて、日々を過ごしていた。
出会いから程なく、空にたなびく一条の白さを見て、遠く離れた年下の騎士に思いを馳せるのが、密かな習慣となった。
淡い恋心に戸惑い、微熱を帯びた溜め息が幾つも落ちた。
唯一逢瀬の叶う場所を、もう鳥籠とは揶揄しなくなり、不規則な本職の合間を縫って登校する日が、とても待ち遠しかった。



―――私の為と言って。

偽りの告白さえも真実に変える魔法の力で、ひと月余り抱き続けた罪悪感に、優しい罰を命じた。
内密を決断した時、確かに俺は、心から…………。

『ジノだけを……、想っていた。』

終生信じ抜き、償いとする覚悟で、激しい熱情の欠片を囁いた。
その寛容さで猶更強く惹きつけておきながら、容易く看過して、俺の心を残酷に掻き乱した。



背信の記憶を、二人にとっての幸福な思い出にする約束で、こうして一日を傍で過ごせる僥倖に巡り逢えた。
信号を急ぐ口実で繋いだ手は、ゼブラを渡り終えても離されず、長い指先から伝わる体温に、胸を震わせた。
素直に嬉しいと感じる一方、昨日とは違い、人通りの多い日中の往来で、誰かに見咎められる不安に揺れた。
その時になって、相手方の要望だ。と正当な申し開きをされれば、立つ瀬以上の大切な何かを失うと思った。
昨日からの自然な流れと承知していながら、赦される特別な理由を期待した。
一対の翼のようにも見えるシルエットは、季節が過ぎれば、羽搏く術を忘れてしまう運命なのだろうか……?
…………ジノ。
指を解かない思惑を意識すれば、儚い片恋の存在を最早否定仕様も無いが、どうか悪戯に手折らないで欲しい。





折角だから、少し足を伸ばしませんか?と提案され、電車で都心まで出ようと決めた。
ジノは普段どおりの話をしながらも、さり気無く歩幅を揃えて車道側を歩いた。
ひと続きの手を引き寄せて、追い抜く通行人から庇い、不法な障害物を避ける時には、そっと背後に廻った。

「あ。先輩、ちょっとだけ…ごめんね。」

駅舎に着くと一言断り、絡めていた指にくちづけを落として束縛を緩め、足早に右横から去って行った。
俺はやわらかな唇の感触に驚き、離された手を咄嗟に胸元で握り締めた。
真意を忖度したが、大きな背中は一度も振り返らず、置き去りにされた様な焦燥感から、直ぐに後を追った。
ジノは、構内の隅に設置された赤い郵便箱の前で立ち止まると、ついて来た俺を認め、にっこりとした。

「今朝迷子になった理由のひとつが、これで……。馴染みの薄い土地から出すのは、意外と大変だと実感しました。」

微苦笑を浮かべ、外套のポケットから一通の手紙を取り出した。
丁寧に封蝋で閉じられた私信は、昨日の午後、生徒会室で認めていたものに違いなかった。

「必ず届きますように。」

ジノは投函する前に、そう願いを込めて、記された宛名に優しくキスをした。
旅立ちを見送る惜別の面持ちになったが、ポストの中に落ちる音を聞き取ると、一度ゆっくり瞬きして、余韻を払拭した。
今までに幾度と無くと繰り返されたろう情景に、二人の間の深い絆を感じずにはいられなかった。
リヴァルの言葉を簡単に往なしたが、女性なら、初恋だった……年上の相手。
その人には、きっと躊躇わず名前で呼んで、手を繋ぎ、抱き締めて、指だけではない他の場所にもくちづけるのだと、確信した。



家族同然と公言する親友にさえ、こんなにも胸を切なくして、未だ明かされない恋人の存在に怯えた。
恋愛については言葉を慎んだが、騎士道精神に則る以前に、総じて女性を崇敬し、親切な応対を心掛けていた。
整った顔立ちと恵まれた体躯は、佇んでいるだけで、今も行き交う人々の好意的な眼差しを浴び、当然、学内でも圧倒的な支持を誇った。
ジノが登校する機会を窺って、果敢に告白を挑む女生徒達は後を絶たず、時折他校の制服を見掛けることもあった。
仕事の都合で断っていると聞いたが、彼女達は、その口実の半分が優しさだと気付いていた。
言葉にしないだけで、誰かに想いを寄せている事実を、敢えて隠すような態度は取らなかった。
凛とした誠実さに、いつも恋の終わりを予感した。



指に唇で触れた事など、まるで気にしていない素振りで、ジノは興味深そうに券売機を眺めていた。
今朝も遅刻と勘違いした弾みで、きつく抱き締められたのを思い出し、あれも無自覚な行動だったのだろうと、密かに嘆息した。
目的地の最寄り駅を教えると、覚束無い風情で点灯したボタンを押し、手にした切符を子供みたいに喜んだ。
先輩の分も買っていい?と澄んだ空色の瞳を輝かせ、許可すると、嬉しそうに同じ手順を踏んで、得意気に渡された。

「もしかして……初めて乗るのか?」
「え……っと、前に公務で乗車した事があるから、三回目…かな…?切符を買うのは、今日が初めてです。」
「あの制服で乗ったのか?!」
「いえ、それは流石に……。有事と誤解されてしまいますので、IDを提示するだけです。」

成程。と返したものの、満員電車で揉みくちゃにされる白い騎士服を想像して、思わず笑みが漏れた。
深緑のマントは忽ち皺だらけになってしまうだろうなと、肩を揺らす俺を、ジノは不思議そうに見ていた。

「いや…すまん……何でもない。同じ車両にラウンズが乗り合わせていたら、痴漢だって逃げ出すだろうな…と。」
「先輩、まさか……襲われた経験があるの?」
「失敬なことを言うな!!」
「…………………本当…?」
「男に痴漢など、誰がすると言うんだ?混雑していれば、自然と接触を受けるものだ。一々気に」
「して!!」

俺の両肩を掴んで訴えるジノは、何故かとても悲痛な表情を浮かべ、その深刻さを軽くあしらえず、こくりと頷いた。
それを見て幾分頬を和らげると、子連れの母親がするように、しっかりと手を繋いで、改札を潜った。



二人は横並びのまま到着待ちの列に加わり、吹き抜ける風の匂いに、春を待ち侘びた。
次々に乗り入れてくる電車をじっと観察していたジノは、思い掛けず近くから聞こえた発車ベルに驚き、心臓の辺りを押さえた。
噴出すと首を竦めて見せ、俺の耳を両手でそっと塞いで、けたたましい警報から守った。
ジノの唇が何かを伝えたが、鳴り止まぬサイレンに掻き消された。
困惑して上目遣いに窺ったものの、やわらかな微笑みを返されただけで、その短い言葉は秘密のままになった。



やがて自分達のホームにも車体が滑り込み、動き出した人波に従って、乗車口へと足を進めた。
ジノは半歩下がると、先にステップを昇る俺の背中に手を添え、後に続いた。
昨日よりも若干寒さが緩んだ所為か、車内は予想外に人で混み合い、あっという間に向かいの窓際まで押し遣られた。
ドアが閉まって動き出すと、途端にバランスを崩してよろめいたが、真後ろの広い胸板が素早く受け止めた。
ほっと安堵の息を吐き、振り返る変わりに、ちらと肩の端を見る仕草で謝意を示した。
暫くすると、僅かに身動ぎする気配がして、ジノが鼻先でそっと俺の髪を掻き分けるのを感じた。

「…………ルルーシュ……もっと……」

耳朶に沁みた吐息の熱に、軀の芯が甘く痺れた。
ゆっくりと瞼を開き、反射的な強張りが次第に解けると、少しだけ冷静さを取り戻した。
時折左右に揺れる人波から、その後に隠された言葉が、傍に。であると分かり、躊躇いながらも停車を待って向き直った。
何も言わずに大きな腕で抱き寄せられ、更なる動揺を隠しきれずに、ずっと俯いたままで優しさに甘えた。
目的地に着くまでの間、仄かに漂う香水に包まれながら、ルルーシュ。と囁いた声を、何度も何度も思い返していた。





書店に立ち寄ると、以前ナナリーが欲しがっていた点字の絵本を偶然見つけ、俺は退院のお祝いに贈ろうと即決した。
お兄様、ありがとう。と喜ぶ顔が目に浮かび、自然と穏やかな気持ちになった。
リボンを掛けて貰う間、ジノは広い店内を見て廻っていたが、程なく一冊の本を手に取り、熱心に読み始めた。
そっと屈んで下から表紙を窺うと、果たしてそれは可愛らしいお菓子作りの解説本で、クスと笑みが零れた。
ホットケーキで十分だと思ったが、不満そうな顔をされたので、初心者向けで且つ自尊心を損ねないものと考え、ババロアを希望したのだが……。
本当はその気持ちが何より嬉しくて、失敗したとしても、きっと倖せな美味しさだと想像した。

「作り方、教えてやろうか?」

ジノは小さく頭を振って申し出を断り、決めてください。と、手にしていた本を此方に寄越した。
開いていた頁には、様々なバリエーションに富んだババロアの写真が掲載されていて、目移りしそうな程だった。

「以前、エルンスト卿……あ…えっと、ナイト・オブ・フォーに教えて頂いた事があるので、基本は大丈夫です。」
「…………まさか、本当に作れるとは……」
「此処だけの話、古参のラウンズは全員、大の甘党で。午後のお茶会には、美味しいお菓子と楽しいお喋りが欠かせません。」

人差し指を唇の前に立てて、ジノはにっこりと笑った。
作ったコーヒーババロアが好評を博したと聞き、俺はもう一度手元の本に目を落とし、大好きな苺をリクエストした。

「では、腕前を見込んで。」
「了解。」

自信有り気な様子を見て、俺は静かに書籍を閉じた。



「ついでに、昼食の献立も考えないか?要望があるなら、受付けるぞ?」
「先輩の手料理にも、大変心を動かされますが……正直、未だ…帰りたくないな…」

早速買出しに行こうと急いていた俺に、ジノはやや憚りながら、外での食事を願い出た。
せめて昼でも。と返礼を考えたが、次に二人だけで出掛ける機会など、望める筈も無いと思えば、同じ気持ちになった。

「賛成だ。」
「嬉しい。」
「記憶に残る一日にしようと、約束したからな…。今日は、成る丈お前の願いを叶えるつもりでいた。」
「私の?……逆です。ひと月遅れだけど、先輩の誕生日でしょう?本当はもっと…お願い事、して欲しい……」

最後の方は声も小さく、強請られるのを期待した瞳で、じっと覗き込んだ。
渇望して止まないものは、世界でたった一つしかないのに、言葉にすれば永遠に失われてしまう。
今の関係さえも崩れ去ってしまうのが怖くて、とても伝えられなかった。

「………………ルルーシュ。と…、もう一度、名前で呼んでくれないか?」
「……え?」

逡巡したが、素直に告げた。
ジノは昨日語った自身の願望を思い出した様子で、俄かに戸惑いの色を浮かべた。

「…お願いだ……」

見詰め返すと、それが二人の願いである事に気付き、何度でも。とふんわり微笑んだ。





食事の前に、老舗の果物専門店に連れて行かれて気後れしたが、託った用事があると聞いて、胸を撫で下ろした。
贈答品の配送を依頼したジノは、併せて買い求めた苺を受け取り、宜しく。と言い残して店を出た。
支払いを気にしていると、悪戯っぽく片目を閉じて、手間賃として先方に請求するのだと打ち明けた。
果物とは到底分からないほど丁寧に包装された苺を、ジノは大事そうに右手に持ち替え、大きな左手を差し出した。
自然な振りで繋いだ手は、震える指先から忽ち緊張を見抜かれ、数歩先で優しく握り返された。





リストランテへと向かう途中、ジノは通り向かいの複合型施設を見て、あ。と声を漏らした。
何か別の用件を思い出したのかと窺うと、申し訳なさそうに、顔の前で両手を合わせた。

「ごめん。直ぐに済ませるから、ちょっとだけ、待ってて貰える?」
「ああ。……急ぎの様だな。入り口付近で待っているから、行って来い。」
「じゃあ、入って直ぐ正面に噴水があるから、其処で……」

荷物を預かると、ジノは礼を言って、颯爽と横断歩道を駆け抜けた。
程なく信号が赤に変わり、俺は建物の中に吸い込まれた背中を追って、少し先にある歩道橋を目指した。



段差の低い階段を上り終え、幾らか高い場所から見下ろすと、人通りの多さが際立ったが、それが却って孤独を感じさせた。
絡めた指が離れるだけで、こんなにも心細くなるとは、思いもしなかった。
今度は自分が迷子になりそうな気がして、逸る気持ちを抑えつつ、俺は一段ずつ階段を降りた。
残り僅かとなった処で、女性の悲鳴のような声が聞こえ、同時に、背後から衝撃を受けた。

―――真っ黒なアスファルトが、瞼に強く焼きついた。