00. wish

―――ジノ。
幸福の呪文ようにそっと声にしてみると、肩越しに振り返って、ふわり優しい微笑を浮かべた。
耳に届いた事実に驚いて、はい。と窺う澄んだ空色の瞳に瞬間言葉を失い、密やかな感情が揺らめいた。
初冬の帰り道。
思い掛けず立ち止った直ぐ傍を、談笑する生徒達の一群が行き過ぎた。
二の句を逡巡していると、話していた相手と別れてゆっくりと数歩分戻り、こくりと首を傾げた。

「先輩?」

あどけない様子が余計に胸を締め付け、加速する動悸に降参して笑みを零した。



不思議そうな顔のジノに、俺はここ数日抱えていた悩みを正直に打ち明けた。

「……来週、誕生日だろう?プレゼントを何にするか考えていた処で…」

本当はその日まで内緒にして驚かそうと目論んでいたのだが、何を贈っても素直に喜びそうな当人が困り者だった。
名門貴族出身のラウンズともなれば大抵の物は手に入るだろうし、迂闊な選択は避けたいものの、嗜好を正確に把握出来ずに懊悩した。
市井に対する関心は高いが、下手な物を渡すと洒落が通じず、庶民感覚を曲解される可能性も否めない。
あれこれ考え込むほど却って月並みになってしまい、計画は敢え無く頓挫。
この際、思い切って本人の希望を聞くことに決めた。

「お前の欲しがりそうな物がさっぱり分からなくて、直接尋ねるのは甚だ不本意だが、…………ん?」

思索に耽っていた所為で、右隣が空白になっている事に気付かなかった俺は、慌てて後方に目を遣った。
並んでいた筈のジノの姿は随分小さくなって、両手で顔を覆ったまま立ち尽くしていた。
貧血かと心配して駆け寄ると、長い指の隙間から覗いていた虚ろな瞳が二、三度瞬いて、忽ち耳まで赤くなった。

「先輩が憶えていてくれたなんて……。それだけで、とても嬉しいです。」

ありがとう。と真摯な眼差しを向けられ、俺は大袈裟に肩を竦めて、甘く切ない動揺を遣り過ごした。
ジノと一緒に居る時は、感情の振り幅が容易く乱れて、自分を律しきれなくなる。
そんな事を知られる訳にはいかないと、俯く真似をして溜息を吐いた。
結局、咄嗟には浮かばないと困った顔をされて、ジノはその課題を持ち帰った。





それから幾日かが過ぎ、とうとう誕生日が翌日に迫っても、プレゼントは決まらなかった。
本職が軍人であるジノは学園に編入した当初から欠席が目立ち、あの日も夜に帰国したらしく、暫く姿を見せなかった。
前日の今日になって生徒会室に現れた時はほっとしたが、俺が尋ねた事など忘れてしまった様子で、会長達と楽しそうに世間話をしていた。
時刻は六時半を過ぎて辺りは薄暗く、出掛ける頃合を逃した俺は、明日に間に合わせるのを諦めた。
窓の外は北風が吹き始め、来週からの試験に備えて真っ直ぐ帰ったロロも気に掛かり、そろそろクラブハウスに戻ることにした。
みんなと別れてひんやりとした廊下に出ると、吐く息が白かった。





「先輩。」

玄関を出ようとした処で、聞き慣れた声に呼び止められた。
振り向くと階段の踊り場から、忘れ物です。と手袋を掲げて見せられ、俺は好意に甘えて、届けに来るジノをその場で待った。
礼を言って受け取ろうとしたら、下端を丁寧に折り曲げて、差し出した右手の指先にするりと通した。
吃驚して手を引っ込めそうになったが、ジノは時々こういう事をすると思い当たった。
感情が乱れる理由の半分はイレギュラーによるものだと学習しても、いつも応用が利かず苦笑した。
反対も同じ要領で嵌め、はい、これで大丈夫。と満足げに微笑んだ。



ジノが一人で登下校する時は、必ずクラブハウスの先にある通用門を利用すると知っていた。
政庁から車で送迎される場合は別として、大抵は通行の妨げを理由に正門を避けた。
今日のように帰りが一緒になることも多く、俺はその都度、短い家路を惜しんだ。



校舎を出てから続いていた沈黙を破ろうと、それとなくプレゼントの件を話題にした。
責め立てていると誤解されない様に、成る丈穏便な口調で尋ねたが、眉宇を寄せて申し訳なさそうな顔をした。
聞くと、忙しい仕事の合間に考えてみたものの、矢張り特段欲しい物は思い浮かばなかったらしい。

「ごめんなさい、先輩。お気持ちだけで、十分です。」
「いや、こちらこそ無理を頼んで悪かった。誕生日を過ぎてからでも、何かあったら教えてくれないか?」

当日に何も用意できないのは残念だが、余計な気を遣わせたと反省した。
そのうち必要な物や欲しい物が出てくるのを、のんびり待とうと思った。
ジノは腕組みして少し考え込んでいたが、やがて、物以外でも良いですか?と尋ねた。
悪戯を思いついた子供みたいな目で強請られると、とても嫌とは言えなかった。
諦めて首肯すると、あっさり許可されて肩透かしだったのか、訝しげに此方を覗き込んだ。
じっと見詰められて気恥ずかしくなり、早く言え。と、キラキラの不可抗力をぐいっと押し戻すと、くすりと笑った。

「明日から一週間、毎日一つ私のお願いを聞いてください。」
「願い?」

聞き返すと、真っ直ぐに人差し指を立てたジノは、はい。と頷いた。
仕舞ったと慌てたが、要求の如何によっては拒否権も発動可能という急拵えの代替案に、少しほっとした。

「とんでもない願い事だと困るな。どうぞ、お手柔らかに。」

ジノはとても喜んで、そんな顔が見られるなら、少しくらいの我が儘も叶えてやろうと思った。