北限の小国で勃発した軍事クーデターを受け、平穏な友好関係を築いてきた超大国ブリタニアは、外交政策の岐路に立たされた。
新政権が潤沢な地下資源を盾に取ることは明白で、鄭重に申し入れられた初折衝に派する特使を巡り、議場は連日連夜紛糾した。
先頃属領となった地から戻った第98代皇帝は、相容れない論戦に早々と見切りをつけ、ナイト・オブ・テンを招じて即座に全権を委ねた。
宥和を踏襲するか、或いは一気に略取か―――。
謁見の広間に畏まった数多の聴衆は、暗黙のうちに後者を予想し、下命を拝す騎士の端正な横顔に、畏敬と戦慄の眼差しを注いだ。
幾度も蒼インキを馴染ませた筆先を擱くと、円卓の第十席を預かるルキアーノ=ブラッドリーは、静かに片眼鏡を外した。
机上の懐中時計は残り半時で日付を越え、交渉の席に着くまでの猶予が、刻々と目減りする様に、細い秒針を震わせた。
翌週に迫った出立を前にして、煩雑を極めた膨大な事務処理も如何にか大詰めを迎えたが、今宵も帰宅は儘ならず、ひとつ溜息を吐いた。
俯けた瞼をそろり撫ぜると、秘めた微熱が指先に伝わり、流石に疲弊を認めざるを得なかった。
此処に於いて、絶え間無く酷使し続けた心身を漸う慮った騎士は、精査済みの書類を手早く整頓し、銀無垢を蓋閉じた。
明日にも専用機(パーシヴァル)の調整が最終段階に入り、より一層の激務に備え、当夜は速やかな就寝を図った。
黄金色の蛙足を捻ると、降り注ぐ温湯に、堆積した澱が洗い流されていくかの様で、ひと時排水口を眺めていた。
軀の火照りが落ち着くと、寝室の蘭灯を緩め、枕下で響く銀時計の音に耳を澄ませつつ、長い睫毛を伏せた。
眠りの浅瀬をたゆたっていたが、やがて深更の静寂を揺るがす微かな靴音を捉え、耳翼が小さく反射した。
訪問者は廊下に優雅な余韻を残しながら近付き、第十席の執務室の前で立ち止まると、不敵にも蝶番をキィと軋らせた。
面倒臭がって何時も施錠しなかったが、侵入を試みる命知らずなど居る筈も無く、部屋の主は疾うに其の正体を看破していた。
薄闇の褥でクスと笑みを零して直ぐに、薄く開かれた閨室の扉から、すらりとした長身の影が木目の床に映し出された。
ジノ=ヴァインベルグは、息を潜めて後ろ手に扉を閉じると、密室の仄暗さに蒼穹の瞳を眇めた。
八つ年上の幼馴染の無用心さを、常々諭してきた彼だったが、深夜に人知れず真鍮に手を掛ける度、審判を仰ぐ罪人さながらの動悸を覚えた。
自室と同じ造りの閨でありながら、洗練された調度品を配した空間は、ふわり芳香の名残を留め、脈打つ胸をやわらげた。
騎士は朧な灯りに包まれた敷布の上を見遣り、精悍な半面を覆う筋張った腕がゆっくりと上下するのを、ほんの少しだけ惜しんだ。
ナイト・オブ・スリーを拝命した当初、凱旋後も暫く戦場の血生臭さから醒め切れず、一人寝のケットに包まり、悪夢に怯えた。
―――“insomnia(不眠症)…?”
逸早く変調を見咎められ、精神的な脆さを羞恥すると、ルキアーノは夜想曲(ノクターン)の奏楽を理由に、少年を連夜枕辺に呼び寄せた。
鍵盤の前に掛けた儘、リンネルから垣間見える穏やかな寝顔を窺った彼は、添い臥しを赦す手立てに気付き、旋律を止めて十指を組んだ。
祈りを想わす仕草で、密やかに深謝した。
深緑のマントを長椅子の背に預け、細心して制服の袖を抜き、同色のベストが、衣擦れの音とともに肩先を滑り落ちた。
襟を寛げ、黒い帯革の留め具を外して、脱いだ長靴を几帳面に揃えると、寝台にそっと片膝を突いて乗り上げ、スプリングを撓ませた。
華奢で長い指先が、額に掛かる橙の猫毛を、躊躇いがちに払い退けた。
「……ん…」
くすぐったそうに身動ぎして、此方に寝返りを打った彼の白い耳朶に、Good-night(おやすみ).と伝え、閉じた薄い瞼に優しいキスを贈った。
倣って左下に横臥して寄り添うと、背中越しに大きな手を捜し求め、辿り着いた温もりを握り締めて、微睡みに身を委ねた。
薄明かりで微かに瞬き、淡い紫色の瞳が煌きを放った。
ルキアーノは繊細な目許をそろり撫ぜ、寝入った後にしか恵与されない慈しみの接吻を、記憶に強く焼きつけた。
小さな寝息に揺れる肩先は、未だ子供のやわらかさを残し、押し潰さぬ様に細心しつつ、額をコツと押し当てた。
昼間は丁寧に編まれた眩い金髪を、就床の折には昔日と同じにひと結びし、翌朝の沐浴まで、自ら細紐を解いた例は無かった。
二人が出会う遥か以前に、少女と見間違えられた経験が、在りし日の幼い矜持を少なからず傷つけた。
口籠もりながらの告白を受けたルキアーノは、添い寝の度に固い結び目の端を甘噛みして引き、艶やかな項髪に鼻先を埋めた。
今宵もまた、寝しなの密やかな儀式に本繻子をそっと咥えると、赫い唇が盆の窪を掠め、無意識のか細い嬌声が零れ落ちた。
拗ねた幼子のように身を捩る仕草を、繋がれた手の先を絡めて賺した。
「…仔猫(キティ)……」
最強の騎士団に名を連ねる迄になっても、呼び馴らし続けた響きは今も変わらず、白皙の頬に仄かな含羞の色を刷いて応えた。
囁きは少年を猶深い眠りへと誘い、ルキアーノは、たおやかな肢体から漂う石鹸(シャボン)の香りと、絹糸を想わす洗い髪の感触を堪能した。
初めは帰還当夜に限られた添い臥しは、次第に頻回となり、腕の中のあどけない寝姿をひと頃憂慮した。
快活で人懐こいジノの周囲は何時も賑やかだったが、その実、彼は負の感情表現を極力律し続けながら、歓談に興じていた。
幼馴染の処世術は、一方で純真な心の枷となり、日暮れる度に看過された思想を持て余した。
気に病んで程無く、残務に勤しむ夜更けの執務室を、長い逡巡の果てに弱々しく鳴らされ、嘆息を禁じ得なかった。
心許無げに俯く彼を招き入れると、桜色の唇が、ごめん。と言い掛ける気配を感じ取り、素早く純白の燕尾服(スワロウテイル)を翻した。
灯りを落とした寝室で、大人しく掛け布を被り、きつく目を瞑る幼馴染の背を静かに抱いた儘、ルキアーノは東雲を迎えた。