窓掛けから漏れ射す陽に、伏せた長い睫毛を微細に震わせ、ルキアーノ=ブラッドリーは薄らと淡紫の瞳を開いた。
寝覚めを急かす小鳥達の喧しい囀りのおかげで、如何にか場所を執務室内の臥房と認識したが、煩瑣な一日を想い、再び瞼を閉じた。
昨夜漸う区切りを付けた書類の続きや交渉相手の情報収集、KMFを用いた演習に、召集した作戦会議、それから………。
辟易して溜息を吐くと、ふと自身が頬寄せる温もりに気付き、朧な記憶を手繰り寄せて、夜更けの来訪を思い出した。
残り香の在り処を探り、艶髪の奥深く鼻先を埋めたが、凭れた肢体の意想外な繊弱さに愕然とし、夢現から目醒めた。
―――女性(レディ)……?
豊かな金髪(ブロンド)の質感に、年下の幼馴染と承知したつもりも、柔らかな肌掛けから覗く華奢な肩甲骨は、図らずも彼の喉をこくんと上下させた。
未だ覚醒する気配のない相手から、そろり離れて起き上がると、肌理の細かい儚げな背を訝り、夜具の端を捲った。
「ジ…ノ?」
網膜が結んだ映像の信憑性を、彼は心底怪しんだ。
褥に俯せるのは、紛う事無き円卓の第三席であったが、心を許しきって、穏やかな寝息を立てる稚い小公子の姿に瞠目した。
限界に達した疲労が見せる幻だと、中指で眉間を押さえつつ、身頃が合わず、すっかり開けたシャツに包まる幼顔を窺った。
何かの冗談に、似た子を添わされたと勘繰ったものの、矯めつ眇めつ眺めても、矢張り昔日の彼其の人で、猶更頭を抱えた。
やれやれ。と嘆息した彼は、乱れた前髪を掻き上げると、倖せそうな寝顔をそろと撫でた。
「…ぅ……ん…」
少年は切なげに柳眉を顰め、微かな声を漏らした。
慌てて指先を引き込めたルキアーノは、小さな領域を侵犯された挙句の不条理に呆れ、ひとり肩を揺すった。
夢の途中ならば、今一度幼い背に寄り添う処だったが、枕下に秘めた懐中時計の蓋を開いて、二度寝には幾分不足と断念した。
そっとベッドを降りた彼は、不可解な現象の手掛かりを求め、長椅子に預けられたナイト・オブ・スリーの制服を弄った。
脇机に並べられた物のうち、IDと携帯電話、ハンカチーフ、銀時計に手帳までは了解したが、貝殻を模った焼き菓子の登場に眉宇を寄せた。
一度解いたセロファンの中から、女文字の綴られた紙片が現れ、些か躊躇いつつ瞥見した。
仄かな恋心を抱く令嬢の手蹟と想像した彼は、末尾にナイト・オブ・セブン専用機の開発組織に属する女性の名を認め、早朝の奇禍を心得た。
温和そうなセシル=クルーミーの前衛的な手料理で、機関内の技師達に毛艶の良い動物の耳と尻尾が生え、大騒動となったのは、つい先頃。
円卓の第六席が、パイロットスーツを着用出来なくなったスザク=クルルギの任務を代行する羽目になり、データを得られなかった主任者は大層御冠だった。
ジノと二人、一体如何して起きた化学反応かと顔を見合わせたが……。
ルキアーノは災難に見舞われた幼馴染に同情し、香ばしいバターではなく、鼻を突く薄荷臭を放つマドレーヌを早々に処分した。
窓辺から優しい朝日を感じたが、幼子の安息をもう一時其の儘に、奥のバスルームへと移った。
彼は閨との仕切りを静かに閉じると、壁掛け電話の受話器を取り、本宅の番号をダイヤルした。
間を置かず通じた回線の先には、何時もどおりに恭しく応答する忠実な家従が控え、主人からの言い付けに耳を傾けた。
執事によると、嘗て足繁く往来していた少年の為に折々揃えられた衣類は、総て大切な思い出の品として、今猶クロゼットの奥に仕舞われていた。
ルキアーノは急場に用立てるとだけ明かし、家人には内密の上で、新たな肌着と服装一式を政庁まで持参するよう命じた。
当然ながら従僕は不審の念を抱いたものの、賢明にも立場を弁え、数日来不在の続く主の言葉を、真摯に拝した。
起き抜けのシャワーで軀を温め、歯磨剤で泡立つ口腔を濯ぎ、清潔な折り目高に脚を通すと、睡魔の影も立ち消えた。
誰かに祈りを捧げる様に、俯き加減にひとつ溜息を吐いて、隣室への扉をカチリと開け放った。
半時程を費やして戻った部屋は、ほんのりと明るみを帯びてセピア色に染まり、映画の回想場面を彷彿とさせた。
敷布を握り締める稚い姿に、涼やかな紫の目許をふわり緩め、寝覚めの不可思議を、如何やら現実らしい。と苦笑混じりに心得た。
気配を忍ばせて傍寄り、ギシと寝台の縁に腰を下ろすと、薄く唇を開いた無防備な半面を眺めつつ、揺り起こすべきか否か逡巡した。
出逢った頃に遡った少年が、八年後の自分と対峙して平静を保てるとは思えず、幼馴染の混乱は必至だった。
手櫛でざっくりと整えた髪は、せめてもの気休めで、年齢を重ねた面差しや、無駄を削ぎ落とした軍人の体躯に喫驚する様が易々と浮かんだ。
同時に、職務上の地位からも、第三席の異変を自分一人で隠し果すのは困難を極め、否が応でも同僚達には報告せざるを得なかった。
幼児返りしたナイト・オブ・スリーの姿に騒然となるのは確定的で、憂鬱な嘆息を漏らした。
女性達は兎も角として、円卓の騎士団を統率するビスマルク=ヴァルトシュタインには、重要な戦力を欠いた事実を、冷静に直視して貰いたい処だった。
今般の事故は帝国全体にとっての打撃であり、少なからず潜む間諜は言うに及ばず、軍内部でも極秘扱いとなる事項と思料した。
遠からず開門の時間を迎えれば、執事が着替えを揃えて参じ、永らく親交を深めてきたヴァインベルグ家に、暫しの預かりを伝達させる次第で居た。
如何言葉を尽くそうと、愛息の変貌は説明し難く、斯様に奇怪な現象で、我が子同然に慈しんでくれた優しい人々を動揺させたくは無かった。
自分の取る手立てを、冷淡と非難されようとも、今は沈黙を誓った。
では、後程。と受話器を置いたブラッドリー家の執事は、足早に衣装部屋へと赴き、直ぐ様支度に取り掛かった。
用命に従い、小作りながら洗練された仕立て服とシックな装飾品、伝統的な型の靴、真っ新な肌衣を揃え、丁寧に旅行鞄に詰め込んだ。
長年使えてきた家従は、整えた中身から、昔日の仲睦まじい二人を思い出し、最後に細い結い紐をそっと忍ばせて、蓋を閉じた。
猫可愛がり…。と自嘲しつつ、ルキアーノは幼い寝姿にふわりと薄掛けを被せ、密やかに閨房を離れた。
中衣を纏った処で、執務室の扉が慇懃に四度鳴らされ、半時足らずで駆けつけた従僕の有能振りに、時計を見遣る仕草で脱帽して見せた。
壮年の執事は、着替えを納めた鞄をソファの脇に置くと、焦げ茶のバスケットを卓上に載せ、朝食でございます。と慎ましく微笑んだ。
名家の使用人頭が早朝に屋敷を空けるには相応の理由が要り、遠征に発つ日取りが近しい事を挙げて、留守を預かる後見人夫妻の許しを得た。
幼少期から補佐役を担ってきた心温かな叔父夫婦は、三人の食卓を懐かしみ、ブラッドリー家の手作りを一緒に届けさせたのだった。
本職とはいえ、激務に感けて久しく外泊が続き、当代の任を全うし兼ねる度、成人後も猶補佐し続ける二人に援けられた。
籠を覆う純白のテーブル・ナプキンをそっと摘み上げたルキアーノは、まるで遠足気分。と微かに目許をやわらげた。
「当月中に果たせれば幸いだが…帰還する迄は、我が家の門扉を潜れそうにない。」
「畏まりました。」
「それから、ひとつ頼まれて貰いたい。この手紙をヴァインベルグ卿へ……」
封蝋の施された家紋入りの書簡を受け取ると、執事は辞去する頃合と悟った。
気高い主は暇乞いを認め、誠実な家従の見送りに、開き戸まで足を運んだ。
「御武運をお祈りいたします。」
「…………感謝する。」
思い掛けない言葉を返され、一刹那瞠目した執事は、感慨を滲ませつつ深々と頭を下げ、主人に別れを告げた。