稚い子供への変身も然る事ながら、見慣れた快活な姿とは真逆の、慎ましい含羞みに言葉を失った筆頭騎士は、漸う第三席不在の事態を了解し
た。
円卓最上位の立場から、今般の不可解な退行現象を奏上する任を負ったものの、還す手段など皆目見当の付かない幼子の処遇を慮った。
悩ましげな嘆息を漏らすと、十番目の騎士からそっと目配せを受けた部下が、寝室の屑籠から救出された淡色の包みを、ロイド=アスプルンドに差し出した。
未だ幼児返りに熱視線を傾けていた科学者は、何だい?と少女が手にした焼き菓子を覗き込み、強烈な刺激臭に中てられて口許を覆った。
彼は経験則から即座に味覚音痴の部下の仕業と心得ると同時に、今朝方喫驚した第十席の徒ならぬ様相を鼓膜に甦らせ、密かに背筋を震わせた。
「あら?それは昨日、私がヴァインベルグ卿に差し入れしたマドレーヌ……」
セシル=クルーミーの無邪気なひと声に、技術主任は長嘆して深々と項垂れ、ナイト・オブ・セブンは青褪めた。
円卓の騎士達は、先頃キャメロットを大混乱に陥れた衝撃の創作料理を思い出し、幾分諦観の面持ちで、幼い第三席の金髪を順に優しく撫でた。
「セシル君…後学の為に御教示賜りたいんだけど、この焼き菓子を作る時に、何か特別な隠し調味料を加えたかい?」
両手で耳を塞ぎつつ恐る恐る尋ねると、彼女は嫣然たる笑みを浮かべ、勿論。と得意気に桜色の唇を動かした。
やおら眼鏡を外した天才科学者は、大仰に倒れ込んで滝の如く涙を流し、製菓の為に取り揃えた材料の品々を諳んじるよう求めた。
ほっそりとした指を折りながら、ひとつひとつ記憶を辿る女性の横顔を、一同は固唾を呑んで見守った。
「小麦粉にお砂糖、卵、バター、蜂蜜、ベーキングパウダー。バニラエッセンスとラム酒を少々…」
「他には?」
「……溶かしたキャラメルを、ほんの少し。」
「本当に、それだけ?」
列挙された食材の中に、特段耳を疑うような物は無く、肩透かしを喰らった彼等は落胆の色を滲ませた。
失敗作なんじゃないの…?と小さく零した伯爵は、美顔を引き攣らせた部下から、容赦ない力で頬を抓られて悶絶した。
何度も謝罪を繰り返す涙声を無視して、円卓の騎士達は、菓子職人(パティシエール)顔負けの腕と聞こえが高い第四席の見解に、耳を傾けた。
凡そ人体に悪影響を及ぼす要因は見当たらず、彼女もまた腕組みして柳眉を寄せ、先般巻き起こった怪現象との符号を模索した。
過日の奇天烈な事件は、主任技術者が胡椒挽きの中に忍ばせていた秘薬を、知る由も無い部下が、独創的な料理の仕上げに振り掛けた為と解明された。
EU侵攻中の宰相の許へ特派を控えていた第七席は憤り、機関の責任者は厳罰に処されると噂が立った。
組織の存続すら危ぶまれたが、ロイド=アスプルンドは飄々と、不可思議な作用が当日中に消滅すると明言し、精製した霊薬は、デヴァイサーの能力向上に寄与
する品だと申し開きを行った。
第二皇子は報告を受けるなり、君は相変わらずランスロットに夢中だね。と微苦笑を浮かべ、騒動を不問に付した。
「…まさか此度も、博士の如何わしい薬の所為では……?」
ドロテアの指摘に第十席以外の全員が胸騒ぎを覚え、枢木スザクに至っては冷笑さえ湛えて、当代一の科学者に詰め寄った。
何時も冗談半分に話を逸らかす彼も、流石に大慌てして首を振ったが、そう言えば…。と何事か思い出した部下の様子に、ぎくりと表情を強張らせた。
「冷蔵庫の一番上の棚にあった、可愛い小瓶……甘い香りがしたので、風味付けに数滴混ぜましたけど…?」
「えぇッ!!アレを入れちゃったの?!」
愕然とした機関の主任者は咄嗟に声を上げたが、背中に突き刺さる鋭い視線の数々に気付き、仕舞った。と漏らした。
薄笑いで誤魔化そうと試みたものの、身長差のあるナイト・オブ・セブンから強く襟首を締め付けられ、早々に白旗を振った。
「また内緒の薬を使って、僕を実験するつもりだったんですね?」
「違…っ…!く、苦し…!!」
「スザク君…手を離してあげないと、喋られないんじゃ……」
白き死神が掴んでいた手を緩めると、科学者はゴホゴホと咳込み、瓶詰の正体を、個人的に請け負った抗加齢薬だと告白した。
居合わせた女性達は挙って依頼主を尋ねたが、然る高貴な御方。と悪戯気に碧眼を眇め、躱された。
「聊か加減を誤ったようだな、アスプルンド伯爵。」
「ええっと…ルキアーノ君。先ずは、その物騒な兇器を懐に戻してくれないかな…弁明の余地は、残されているよね?」
「伺おう。」
灰白の鋭利な刃が胸元に仕舞われると、ロイドは深く安堵の溜息を吐いて、手の甲でゆっくりと額の汗を拭った。
曰く、マウス実験で得た情報とその解析は完璧であり、数倍に希釈して精製された後、品質検査で合格点を得た折り紙付であった。
特許を出願した矢先の不祥事に、彼は力無く肩を落として見せた。
「極々少量の誤飲で、この有様。もうひと欠片食せば、嬰児に逆行か?」
「総ての化学反応を予測するなんて、不可能だよ…用途からも、加熱は前提条件から外していたし、第一セシル君の……」
言い掛けて直ぐ様口を噤むと、十番目の騎士は怪訝な様子で片眉を上げた。
一旦言葉を濁して、兎にも角にも、謳い文句以上の効能を緩和させる手立てを約束し、異臭を放つ焼き菓子は成分分析を受ける事となった。
「ルキアーノ様が召し上がっていれば、幼い頃の御姿を拝見出来たでしょうに……」
「惜しいわね…若返りの霊薬だったのに。」
マリーカとリーライナは共に柳眉を寄せて残念がったが、上官に一睨みされ、慌てて機関の主任者に包み紙を手渡した。
受け取ったロイド=アスプルンドもまた、僕も十歳の頃の彼の方にもう一度逢いたいな。とぽそり呟き、微かに顔を綻ばせた。
密議を終えて散会の流れとなったが、不意に来訪を告げる音が響き、一同はその場に足止めされる形となった。
部屋の主が許諾すると、廊下に控えた側近が恭しく開扉し、帝国宰相が副官を伴って、にこやかに足を踏み入れた。
「此れは此れは…円卓の騎士(ナイト・オブ・ラウンズ)が勢揃いすると、流石に圧巻だね。」
第二皇子の登場に、騎士達が膝を折って畏まる中、親交の深い科学者と遠縁にあたる第十席だけは腕組みした儘であったが、不行儀を咎められなかった。
御当人。と伯爵の密やかな囁きを捉え、忌々しげに舌打ちすると、シュナイゼルは情無い態度に肩を竦めた。
一向打ち解けない又従兄弟に、機関の主任者を尋ねて辿り着いた旨を口にし掛けて、ふと白い燕尾から様子を窺う麗しい姿に気付き、瞠目した。
初めて謁見に臨んだ名家の末子を見初め、永らく片恋に身を焦がし続けた宰相は、在りし日の第三席を彷彿とさせる小公子を看過出来なかった。
「…他人の空似とは、とても思えない。ブラッドリー卿、其の子は一体……?」
「御見込みの通り。」
「ジノ…なのかい?」
第三席が居合せない事態を不審に感じていた副官もまた、見覚えのある可憐な容貌に驚愕した。
ロイド=アスプルンドは、混乱を隠しきれない二人にそっと近付くと、コホンとひとつ咳払いをして、事の次第を簡潔な言葉で申し伝えた。
信じ難い不可解な現象を率直に受け止めると、宰相は優雅に長身を屈め、純白の騎士服を握り締める少年に声を掛けた。
七つになる歳から面識があった事実が幸いして、幼いながらも、円卓の第三席は礼儀作法を弁え、慇懃な挨拶で応じた。
シュナイゼルは高貴な立場を微塵も顧みず、小さな紳士の前に片膝を突くと、想い人の繊手に、そっとくちづけを捧げた。
「一層の事、此の儘何処かへ攫って仕舞いたい。」
「……殿下、其の様な御戯れを…」
情熱的な言葉に戸惑い、長い黄金色の睫毛を伏せて漸う凌ぐと、一礼して年上の幼馴染に寄り添った。
佇む騎士の大きな手が華奢な肩を静かに抱き、燕尾の裾を掴む幼気な動揺の仕草を、暗黙の裡に宥めた。
十年の歳月を経ても叶わぬ恋に、皇子は微かな嘆息を漏らしたが、其処が世界で一番優しい鳥籠だと、慈しむ腕(かいな)の意義を了解した。