遣り取りが分からず不思議そうな顔をしていた先輩に、痛みは伴わないらしい事を伝えると、如何にも安心した風情。
自分から言い出した手前、怖くても暴れるわけにいかない相手の心境を踏まえて、私は正面から挑むことにした。

「それでは、お言葉に甘えさせて頂きます。」

宣言して華奢な両肩にそっと手を置くと、一瞬揺らめいた紫水晶の瞳が、ゆるゆると閉じられた。
黒髪の穂先が震えて、秘められていた虚勢を暴いた。
ほっそりとした首筋の見当をつけた場所に唇が触れると、思い掛けずびくりと軀が跳ね、勢みで肩先にぶつかった両の犬歯から鈍い音がした。
反射的に口元を押さえた私を見て、先輩はひどく慌てた。
舌先でなぞると切れた箇所は無かったものの、どうやら時間切れらしい。
残念。と言って、開いた掌に載った歯の尖端を見せると、先輩は心底ほっとした表情を浮かべた。



私は成長期の栄養摂取の為に、見事にデコレートされた出来たてのパンプキン・プディングを堪能していた。
味覚も元に戻り、とても美味しいです。と言うと、紅茶を飲んでいた先輩は嬉しそうに微笑んだ。

「お菓子は絶品だけど、先輩の仮装した姿も見てみたかったです。」
「俺はハロウィンには不向きだからな。一々悪戯を考えるよりも、菓子で片を付けた方が楽だ。」
「それは、先輩が優しいからですよ。」

先輩は頬を赤らめて全力否定しているけれど、ここは譲れない。

「大体考えてもみろ!会長に悪戯なんてしたら倍返しで済む筈は無いし、リヴァルは日頃から世話になっていて心苦しい。シャーリーやロロは可哀想で出来な い。アーニャはモルドレッドを出してきそうだし、スザクはいろんな意味で、とても危険だ!!」
「…………じゃあ、私は?」
「え?」
「悪戯、しないんですか?」

少し困った顔をされて、意地悪な事を言ってしまったと反省したが、先輩は腕を組んで悪戯を考え始めた。
一生懸命さが可愛いけれど、頭脳明晰な先輩に本気を出されると敵わないので、手加減を是非忘れないで欲しい。
私が心配していると、やがて先輩は諦めた様に首を左右に振った。

「無理だ。」
「思いつきませんか?」
「ああ。悪戯とは、何かをして相手を困らせる事だろう?理由も無いのに出来ない。」

だから、貴方は優しい。
言えば先程と同じく、耳まで朱に染めるだろうと思い、私は言葉を胸の奥に仕舞いこんだ。

「お前が俺に考えていた悪戯は何だ?それを真似るから教えろ。」

先輩は名案が閃いたとばかりに嫣然と口元を綻ばせたが、尋ねられた私はすっかり窮してしまった。
不真面目で申し訳ないが、悪戯をするのに深い意味など持っていないのだ。
きちんと定義されると、私にだって先輩を困らせる理由は無いし、真似されるなら下手な事も教えられない。
先輩が困る事…………。
…………………………。
私は頬杖を突いたまま石になるほど考えてみたが、悪戯の加減が難しく当惑した。
結局、今ではすっかり御馴染みになって、すんなり躱されてしまう挨拶に決めた。
悪戯される先輩の方を向くと、漸くか。と待ち詫びた表情に、良心の呵責を感じてしまうので、即実行。
―――では。

「先輩、大好き!!」

細い軀を抱き締めると、大抵は『離せ、馬鹿者!』と怒鳴るか、『はいはい。』と呆れ顔を…………。
あれ?していない。
私は腕を緩めて腰を屈めると、いつもと勝手の違う先輩の顔を覗き見た。
頼り無く足元を泳ぐ視線は悲しげで、今にもその睫毛から露が零れ落ちそうな様に、私は愕然とした。

「あの…先輩、ごめんなさい。そんなに嫌だった?」

好きな人に嫌われるより、好きな人が泣く事の方が余程辛い。
努めて優しく囁くと、先輩は消え入りそうな声で、悪ふざけで言っていたのか。と呟いた。

「先輩?」
「分かった。それを真似れば良いんだな?」
「え?ちょっと待ってください、あの」
「……ジノ、……好きだ。」

抑揚の無い声とは裏腹に、背中に廻された先輩の腕は強く私を抱いた。
密着した部分から体温が伝わり、胸元に埋められた黒髪の下の瞳から、雫がはらりと伝った。



二人は言葉も交わさずにその場に立ち尽くしていたが、やがて抱擁が解かれた。
先輩は気まずさに俯いたままで此方に目を向けず、私は離れて出来た空間を推し量った。

「済まなかった。」
「先輩………」
「やはり悪戯は無理なようだ。」

私は器用な人間ではないので、今の先輩に気の利いた科白の一つも掛けられないが、他の手段を講じることは出来る筈。
例えば、涙には気付かなかった振りをしてあげたり、わざと軽い咳払いをしてこんな風に定説を覆してみせたり。

「御心配には及びません。先輩の悪戯は見事成功です。」
「ジノ?」
「これは新説なのでまだ御存知無いでしょうが、悪戯は二つに大別できるんです。」
「新説?」
「はい。人を困らせる従来の悪戯と、人を倖せにする悪戯。先輩の悪戯はたった二文字ですが、新型です。」
「はぁ?」
「ヴァインベルグ博士によると先輩の型は少し特殊で、最初に仕掛けた人物に限り何度でも有効。図らずも私の悪戯と同じ特性です。ただし、同じ悪戯を別の人 物にすると信用を失いますから、御注意を。」

下顎に手を当てて為たり顔で話すと、先輩は噴出して、憶えておこう。と、息も絶え絶えに切れ長の目の端を拭った。
その一つ一つが私を強く惹き付けるが、いつも心を掴むのは、穏やかな微笑みだった。



「では、後学の為に従来の悪戯を吸血鬼方式で。」
「何?!」

私はちょっとした戯れを思いついて、戸惑う先輩の両肩に先程と同じく手を添えると、途端に紫紺の瞳に緊張が走った。
もう吸血鬼ではありませんが。と断ると、思い出したように含羞んだが、顔を近付けるとびくりと跳ねて僅かに身を捩った。
兇暴な衝動を掻き立てるとも知らずに、怯える素振りで見詰められ、私は忠告も忘れて露な白い素肌にくちづけた。
微かに上擦る声に構わず、鎖骨の窪みの傍に赫い痕跡を残すと、先輩は羞恥に慄いていた。

「……ッ、こんな悪戯…!」

理由がどうあれ、私は性急過ぎた行為を素直に謝罪した。

「その、……余りに煽情的で、つい本気に……余裕を無くしてしまいました。……ごめんなさい。」
「せ、煽情的?!」
「…………はい。」

頷くと小首を傾げたが、悪戯ではなかった事を知ると、立腹していた事も忘れて頬を朱色に染めた。
幸福とは、手を伸ばせばいつでも其処に在る、ささやかな優しさの事だと信じていたが、この感情は容易無かった。

「先輩に悪戯する権利、独占しても赦して貰えますか?」

執着から来る憂慮が私に我儘な約束を強請らせると、従来型はお断りだ。と言って先輩はふわりと微笑した。





Fin.









(注)
※1.ブラム=ストーカー:作家。『吸血鬼ドラキュラ』の著者。
※2.フランツ=カフカ:作家。『変身』の著者。