01.胎動

長きに渡り超大国の軍事の一翼を担ってきた名家の継嗣と、先々の皇帝に繋がる血脈の令嬢との恋物語(ロマンス)は、帝都でも大きな話題と なった。
激戦地で獅子奮迅の働きを見せ凱旋した暁、騎士は下賜される筈の莫大な財を総て辞し、想い続けた人との成就唯ひとつを褒章に願い出た。
密かに淡い感情を抱いていた若き帝王も、終には麗しい遠縁の婚娶を許し、春、初戀の二人は祝福の嵐の中、夢見た永遠を誓い合った。





穏やかな蜜月の後、二人は母親譲りの艶やかな赤毛と、貴い系譜を証する浅紫の瞳とを持つ美しい嫡子を授かった。
生来虚弱であった奥方は、産褥期を終えても肥立ちが捗らず、臥しがちな軀となるも、歳若い夫婦は無垢な嬰児に惜しみ無い慈愛を注いだ。
家族の肖像は何時も温かな微笑みに溢れていたが、やがて夫人が静かに黄泉へと旅立ち、その調和は足早に終息した。
遠征先で妻の訃報に接した卿は、直ちに戦線離脱を命じられた。
一昼夜愛馬に鞭打ち、漸う悲嘆に包まれた屋敷に帰着すると、蒼白な面持ちで閨室へと駆け付け、儚く身罷った伴侶と涙の対面を遂げた。
比翼の鳥、また連理の枝と喩えられた終生の恋人を喪い、卿は絶望の果てに錯乱した。
葬列の際には足許が覚束無い迄に憔悴し、見兼ねた親族が彼に代わり、蕭やかな儀式の総てを執り仕切った。
卿は軍律で定められた忌引を過ぎて猶蟄居し続け、一門周囲では、気性の激しい主君が何時官位を剥奪するものかと、尤もな噂が囁かれた。



春が過ぎゆく或る時節、約束の時間通り往診に訪れた主治医は、扉越しに微かな嗚咽を聞きつけ、思い掛けず眉を顰めた。
先導していた執事もまた愕然とした面持ちで、共に施錠された重厚な開き戸を破ると、忽ち激しい折檻の場面が目に飛び込んだ。
奥から洩れていた擦れ声は父親の呟く妄言であり、黒い帯革で搏たれ続けた幼子は、既に失神していた。
小さな背に刻まれた痛ましい傷痕も構わず、虚ろ乍らも猶鞭を振り上げる狂態に、典医は虐待の常習化を看破した。
慎重な聴取の末、卿は忘れ形見たる子の胎懐が妻を永訣させたと結論付け、理性との狭間で葛藤を繰り返しつつも、暴行に及んでいた事実が明らかになった。
医師は想像に難くない悲劇を回避する為、直ぐ様二人を隔離するよう先代に進言した。
いよいよ以て官爵の返上が危ぶまれ、参集した一門は、屋舎を分けて隠居の身となった先の家長に、速やかな復帰を求めた。
退役した将軍は高齢を理由に要望を撥ね、長子を療養名目で廃し、家名を嫡孫に負わせる意向を伝えれば、異議を唱える者も無かった。
親族会議では、心身に深手を負った孫息子の補佐として、他所からの養子を検討していた卿の温和な末弟が、満場一致の推挙を受けた。
新任の後見役は直ちに名代として拝謁を賜り、御前で簡潔に経緯を申述したなら、幼い独り子が何れ兵籍に入る条件付きで、相続を許された。



五体に及ぶ夥しい裂傷が癒えるより前に、父は郊外の静養施設(サナトリウム)へ身を移し、一時に双親との別離に見舞われた子は、寂寥に心を閉ざした。
唐突な母の死を消化しきれぬ儘、容赦無い暴力の犠牲となり乍らも、残された片親の喪失を強く豫感して、高次の恐怖に慄いた。
四肢の損壊其れ以上に、精神的拒絶が鋭利な刃となって小さな胸を苛み、到頭虚無と謂う名の破綻に追い遣った。
後見人たる叔父は、何かと甲斐甲斐しく世話を焼いたが、曾ては清純さを映した鏡であった当主の瞳からは、最早憂いすら奪い去られた。





翌年、同年代との交友を目的の一つに兼ね、帝都屈指の難関校の幼等科に上がった。
然し乍ら周囲の目論見は外れ、実父と遠く隔絶された生活を強要した結果、小公子は良家の子女教育で名高い校風を頑なに倦厭し続けた。
日々の課程を淡々と熟し、礼儀作法や学問の基礎を早々に修めては、群を抜く才能と感性に教職員達は皆目を見張った。
世間的認知の高い家柄故と、希薄な交流さえも疎まし気であったが、同輩達が最も魅了されたのは、氷を想わす雰囲気と相応の容貌に違いなかった。
憧れを抱く者は終生現れたものの、幼くして名門を継いだ彼にとって、注目は既に単なる日常の茶飯事と位置付けられていた。



初等科に進むと漸く物事に関心を寄せ始め、芸術に傾倒した。
殊に音楽を好み、召抱えた楽士の技量を超えると次々入れ替えたが、投影すべき精神を持ち合わせていない事実に気付くや、あっさりと其れを棄てた。
刮目に値する美意識が彼の行動様式の根幹を成していたにも関わらず、放擲にすら美の本質を見出し、刹那的な慰撫の環(ループ)を漂い続けた。
また更に学年を昇ると、少なからず社交の場に赴く機会も増え、結果、服飾にも強い拘りを持ち出した。
洗練された着熟しは瞬く間に若年層を虜にしたが、安易に真似た処で誰も彼の贋作にすら成れず、其れが余計に憧憬を集めた。
定番(トラッド)の中に幾分かの前衛を加えた洋装を好き、絶妙な匙加減で、何時も他の追随を鮮やかに躱した。
丁度此の頃から、やわらかな毛髪の赤い色素が徐々に薄れ、金髪(ブロンド)との相半ばする色味に落ち着いた。
斯うした第二次性徴の始まりを見計らったかの様に、中等科に入ると、不道徳な誘惑の手が数多伸べられた。
老獪な貴顕紳士達は、子どもの殻を脱ぎ始めたばかりの、秀麗な名家の長を取り込む為に、皆躍起になって手段を講じた。
誂えた夜会服に袖を通す回数が増し、やがて交際の過程で大人の嗜みを覚えた。
本人の自由意志に基づき、裏の社交に深く踏み込んだが、酒も煙草も交接も、凡そ此の空虚な胸を満たさず、また当初から左様な期待も無意味と承知していた。
特権階級ならではの、如何わしい趣味の催しに於いては、加虐乃至嗜虐と謂った倒錯的な快楽に却って興醒め、翻り薬物に溺れるほど浅慮で脆弱でもなかった。
淫靡で背徳的な光景を前に、彼は豪勢な食事をゆっくりと堪能し、手遊びに妙なる音楽を奏で、書架に並んだ発禁本の頁を捲った。
生に執着の無いことが不遜な態度を取らせたが、其れが高貴な人々の強欲を一層焚き付け、歳若い紳士に繰り返し懐柔を挑んだ。
勤勉な叔父は風紀の乱れに顔を顰めたが、世間は橙髪の貴公子を躊躇わず“ブラッドリー卿”と称え、正統なる名家の当代と認識した。





美麗な母が逝って十二の歳月を過ぎ、父は療治を終えて年若な後添いを得、其の儘二度と屋敷には戻らなかった。
長く武官の職から遠退いた事実を踏まえ、隠居の取り消しは行われず、少年期只中の彼の双肩に、依然家名が重く伸し掛かる結果となった。
高等科に及第した恵みの季節、父が後妻との間に新たな命を儲けたと知り、唯一望んだ片親の愛情は、最早永遠の夢と痛切に理解した。
喪失と謂う重い現実からの逃避に、ひととき学業に専心した結果、二年飛び級して最高学府へ進み、医科に籍を置いた。
未だ幼さの影すら留めた母の一生を奪い、寛容なる父を狂気に陥れ、自身を虚無へと導いて、猶内在する圧倒的な何かを見極める為であった。



大学での成績は申し分無かったが、生憎素行は改善されず、社交界は大いに此の異端児を歓迎したものの、親族は常々頭を痛めた。
卒業後は士官学校への入学が最も正規な道とされ、先々父や祖父同様の活躍を皆が期待しても、後見人の叔父は何時も過剰と此れを諌めた。
一族の中では若輩に入る身乍ら、彼と彼の妻だけは、二十歳にも満たぬ聡明な当主が抱える孤独を、如何しても看過出来なかった。
常時一定の距離を保つ習慣が、決して懐かぬ獣の警戒心を想わせても、夫婦は何れ補佐役を辞して、彼を正式に迎える日を願い続けた。
翻り今は、実父が築いた新たな家庭に揺れる心を癒し、当面は自身の胸の奥底に仕舞い込んでおくべき事柄と、暗黙のうちに了解していた。