初秋の或る晩に、帝都でも有力な伯爵家が舞踏会の開催を豫定し、御多分に洩れず、ブラッドリー家にも早々、正式な招待状が届けられた。
淑女同伴が前提の会ならば、後見人夫妻が代理に赴くのが常であったが、開催する側は何時も此れを未婚者に限り免除と明記して、家長自身の来臨を望んだ。
舞踏(ダンス)は不得手では無いものの、臨席すれば優に十指を超える申し込みが殺到し、紳士の嗜みから当然請け負う羽目になり、唯々閉口した。
睫毛を俯けて案内の文字を追い、服装規定(ドレスコード)を第一正装に限らぬ砕けた夜会と知るや、僅かな救いを得た素振りに、ひとり肩を竦めた。
目も眩むばかりに燦々と照明を落とした大広間(フロア)は、絢爛豪華に着飾った人々で溢れ返り、扉を潜れば、熱気に噎せ返りそうな程だった。
不躾に注がれる好奇の視線を受け流し、接待(ホスト)役の伯爵と寄り添う夫人に挨拶を済ませ、足早に其の場を後にした。
給仕係に勧められた爽快な発泡酒(シャンパン)で喉を潤せば、先方から誰かを捜し歩く人影が近付いて来た。
長身の凛々しい青年は大学の同科で、此方に気付くなり、おや。と悪戯気に片眉を上げた。
傍に歩み寄ると自分も飲み物を手に取って、連れと逸れ窮している処と明かし、大仰に溜息を吐いて項垂れた。
正則に入学した相手は二つ年長乍ら、遠巻きに窺うだけの学生達とは違い、何時も屈託無い笑顔で話し掛けてくる、稀有な人物であった。
其方も名立たる家柄の出身で、今迄にも斯うした上流階級の集いで、幾度か鉢合わせた経験があり、最早緊張は皆無の間柄と謂えた。
話を傾聴しつつ、此の人混みの中で見失っては捜索も困難を極め、また、開会が宣言される前に同伴者から離れるとは、少々軽率に思った。
陽気な同輩に違いなかったが、大方失態を演じて女性(レディ)の機嫌を損ねたか、彼女が他所の男に気を取られたかの、何方かであろうと豫想した。
其れらしい人物を見掛けたならば、知らせる。と約束を交わして二人は別れ、間を置かず、贅を尽くした舞踏会の始まりが高々告げられた。
場内の活気が落ち着く迄屋外で一服する心積りで、きりり冷えた炭酸水を片手に、気取られぬようそっと屋外(テラス)へ出た。
欄干に寄り掛かって紙煙草を咥えると、擦った燐寸の焔を華奢で大きな掌で覆い、夜風から庇いつつ、白い先端に灯した。
薄い唇から解き放たれた紫煙は、夜空に細く棚引いて、幽けき月光を浴びた後に儚く消えた。
喫煙が人体に及ぼす害悪については無論承知の上で、しかし彼は此の緩やかな自殺行為を決して止めなかった。
肺の奥に溜まった煙を悠然と燻らせていたが、不意に微かな気配に感付き、素早く辺りに視線を巡らせ、全神経を尖らせた。
優美な曲線を描く耳翼が敏感に音を拾い、見当を付けた方向へとコツリ歩先を進めると、指に挟んだ煙草をまたも咥え、庭園との境の植え込みの枝を、利き腕で
乱暴に掻き分けた。
果たして其処に潜んでいたのは、左膝に擦過傷を負って啜り泣いていた幼気な年頃の男児であった。
頭上から仔猫と思しき鳴き声がして、如何やら此れと遊んでいる最中に怪我したらしいが、相手は素知らぬ風で梢を伝い、姿を晦ました。
夜会服(ダーク・スーツ)に落ちた煙草の灰を指先で払い、見知らぬ発見者に驚愕している子供の姿に目を凝らすも、突如有無を言わせずか細い腕を掴んだ。
木陰から強引に灯りの差す方へ連れ出そうしたが、挫いた様子の足を引き摺って苦しげに柳眉を寄せるのを見て、軽々抱き上げた。
庭先へと続く露台の片隅に置かれた円卓(テーブル)の上、まるで生贄を捧げるかのように恭しく載せ、自分は其の向かいに腰掛けた。
小さい乍らも身形は整えられており、主催者たる伯爵家の子供かと思われたが、熟々眺めてみれば面差しが似ていた。
「…………ヴァインベルグ家の子息か?」
煙草の火を揉み消しつつ尋ねれば、叱責される覚悟で居たたらしい幼い軀がびくり跳ねたが、返答を待つ素振りに、恐々ひとつ頷いた。
物怖じしない学友と同じ真っ青な空色の瞳に、連れが斯様な年端も行かぬ子供では、逸れるのも至極当然と、クククと肩を揺すった。
訝しげな上目遣いに名前(ファースト・ネーム)を問うと、明朗快活な兄とは真反対に人見知りなのか、風前の蛍火宛らの声で、……ジノ。と小さく答えた。
礼儀として此方も名乗らねばならなかったが、敢えて姓は伏せた。
ジノは初めて聞く響きを咀嚼するように、ルキアーノ。と後について繰り返した。
約束通り監督者に引き渡さねばならぬ処であったが、擦り剥いた膝の傷が目に留まり、連鎖的に捻挫を思い出した。
ルキアーノは新しい煙草に火を点け、古美術品でも鑑定するかのように、子供の細い足首を掴んで、ゆっくりと左右に捻った。
或る方向に一定の力が加わると、眉間に皺を刻んで金色の睫毛を震わせ、健気にも息を殺した。
不意に掴んだ手を引き寄せられ、弾みで均衡を崩し掛けた少年だったが、仰向けの儘咄嗟に両腕を曲げ、如何にか卓からの転倒に堪えた。
突然の出来事に半ば呆然と窺えば、膝蓋の傷口にひたり唇で触れ、愈々言葉を失い瞠目するばかりを好い事に、温かく柔らかな舌先で半凝固した血液を舐めた。
突いたルキアーノのもう一方の手から、ジジジ…。と煙草の燃え滓が崩れ落ち、卓の上に散らばった。
こくんと二、三度上下した喉が止まり、唇が離されて猶傷痕と紅い舌先とを繋ぐ銀糸が、名残惜しむように伸張し、儚く途切れた。
「成程。件の伯爵の謂う通り、確かに子供の血は甘い…」
蠱惑的な悪戯に思い掛けず恍惚に浸った少年を他所に、一言然う呟いて、幾分短くなった煙草を呑んだ。
舌を這わせ抉じ開けられた傷からは、じわり滲み出た朱色が白皙の素肌に映えた。
彼は欄干に置き放しの飲用水で患部を洗い流し、上衣(ジャケット)の内隠しから真っ新な手巾を取り出した。
繊維の流れに沿って四半分に裂き、当て布に見立てて傷口を軽く押さえつつ、絹の胸飾り(ポケット・スクエア)を膝裏へ潜らせ、包帯の要領で縛り付けた。
倒錯的な行動と手馴れた処置との懸隔に混乱を浮かべれば、其の場から動くな。と命じ、橙髪の紳士は賑やかしい会場へと立ち去った。
経過する時間に不安の色を濃くしていた処、硬質な靴音を響かせ乍ら再び彼が姿を現し、兄の迎えを想像していたジノは瞳を瞬かせた。
卓上に葡萄酒を収めた楕円(オーバル)型の小振りな冷却箱と二人分のグラスを置くと、ソムリエナイフを巧みに捌いて栓を抜き、琥珀を湛えた一方を渡した。
其れは子供にも抵抗の少ない銘柄で、薄い硝子の縁に唇を沿わせて嚥下するや、忽ち芳醇な香りが幼い全身を駆け巡った。
感嘆を洩らした少年に彼は適当な相槌を打ち、痛めた片方を裸足にさせると、砕氷の詰まった保冷容器に突っ込んだ。
行儀の悪い治療に喫驚して、小さな悲鳴が聞かれたが、粗熱が取れれば大事無い。との説明に、反射で引っ込めた爪先を素直に浸した。
幾らかでも彼の優しい心遣いに報いようと、ジノは自分の懐から清潔な手巾(ハンカチ)を出し、手当てを施した指先に残る飛沫をそっと拭った。
其れ位自分で…。と断りを言い掛けたが、仄かに伝わる幼い体温に、ひととき大人しく口を噤んだ。
未だ腫れの引かぬ少年を残し、再び演舞場に戻った彼が、華美な人山の中から名家の次子を発見出来たのは、正に僥倖と謂えた。
怪我の話に兄は心配顔をしたが、程度を知ると安堵の胸を撫で下ろした。
元より舞踏に興じる積りも無く、彼は予定された散会の時刻迄の預かりを申し出た。
常日頃から他との交際を疎んじていると感じていた学友は、刹那喫驚したものの、給仕から甘味(ドルチェ)を受け取ると、意味あり気に片目を眇めた。
二つ歳上の紳士は、積まれた一口大のクリームパフに添えられた白桃を指して、あの子は此れに目が無くてね。と微笑み、彼に手渡した。
託けを了解すると、怒涛の気配で押し寄せる令嬢達の一群を級友に譲り、軽やかに身を翻して室外へと抜けた。
言い付けを素直に守って、ひとり大人しく待ち続けた少年にケーキ皿を差し出せば、忽ち子供らしい喜色を満面に浮かべた。
冷えた細い足首を丁寧に触診した末、恢復に納得の行ったルキアーノは、小さな軀をまた抱き上げて椅子に乗せ換えた。
同伴者たる兄との密談を聞いて拗ねるかと思われたが、名家の末子はすんなりと事情を了承し、逆に手数を掛けさせる不届きを詫びた。
別に。と淡白な返事を遣るも、憚らぬ真っ直ぐな上目遣いで此方を窺われ、溜息混じりに幼顔を一瞥した。
「…………ルキアーノ。あの…、今夜は…一緒に居てくれて、ありがとう。」
手持無沙汰を装い、今宵三本目の煙草を咥えた彼は、可愛らしい不意打ちを喰らって、擦り掛けた燐寸を止め、無垢な蒼穹の瞳を眺めた。
複雑な表情を浮かべた歳上を見て、何か不躾な事でも致したであろうかと、ジノは問い返す素振りで小首を傾げた。
彼は漸う紙巻に火を点け、夜空に向けて高く紫煙を放ち乍ら、自身のささやかな狼狽に、胸の内で苦笑を漏らした。
柔らかそうな蜂蜜色の髪を撫でようと指を伸ばし、襟足をひと束ねしていた天鵞絨(ベルベット)の蝶結びの緩みを認め、するり細紐を解いた。
艶やかな金糸が流れ落ち、一変して早熟な印象を与えたが、少年はほんのりと頬染めて俯き、小さな掌を向けて返却を求めた。
素知らぬ振りで菓子皿を勧め、ルキアーノは華奢な背をくるり後ろ向けて、月光に煌めく項髪を掻き上げた。
幼い彼は読み違えを指摘すべきか逡巡したが、素直に白い頤を下げ、魅惑的な甘い果実を口にした。
無防備に晒された盆の窪を長い指が掠めると、幼い両肩が微かに跳ねたが、歳若い名家の長は此の小さな秘密も敢えて無視した。
橙髪の紳士の日常に、年少者と接する機会は皆無に等しく、彼は今宵の自身の言動を、物珍しさから来る気紛れと解釈した。
見目が僅かでも劣れば、あの儘木陰に捨て置いただろうし、端麗なるも狡猾さの片鱗が窺えたなら、辛辣な侮蔑を浴びせたに違いなかった。
少女であれば果たして別な興味をそそられたかも知れぬが、一夜限りの戯れに帰着するであろう事は、容易に想像できた。
未だ明確に分化していない容貌本来の美しさと、清純で慇懃な気質が、自分の嗜好に丁度好い按配に適った相手と結論付けた。
然し乍ら、気取られぬ裡に煙草の煙を遠ざける配慮が、左様言い切るには些か優しすぎるとは、終ぞ思い至らなかった。
煌々たる灯りの漏れる盛大な催しも次第に収束へ向かい、彼は夜会の終わりを見計らって紙巻の火を消し、名家の末子を促した。
捻った足を気にして恐々椅子を降りたジノは、紳士の言葉通りに痛みが退いた事実を知ると、直ぐに先行く優しい背中を追い掛けた。
大きな硝子窓から室内に戻れば、二人には無遠慮な好奇の視線が集中し、少年は辟易している歳上の手を無意識に強く握って、陰に隠れた。
可憐な小公子の含羞にざわめきが湧き起り、一層身を強張らせた処に、人垣の中から兄が朗らかな笑顔で登場し、ほっと溜息を吐いた。
歳の離れた二番目の兄は、級友の親切に心から感謝の言葉を述べると共に、改めて末弟を紹介した。
仲立ちされて漸くルキアーノの姓を知った少年は、繋いでいた手を慌てて解き、次兄に倣って辿々しく謝辞を伝えた。
振り払われた格好の掌を眺め、デビュタントはまだ先の様だ。と洩らした彼に、兄も眉宇を寄せる仕草で冗談に応じ、弟は愈々赤面した。
「どうぞ失礼を御許しください、ブラッドリー卿……」
名家の歳若い長はそっと身を屈めると、睫毛を伏せて恐縮する小さな貴公子の耳許に唇を寄せ、名前で結構。と囁いた。
上手く聞き取れ無かった兄は、はっと見上げた弟の面差しに歓喜の色を見て、果たして如何な魔法の言葉を掛けられたものかと微笑んだ。
翻り、未だ邪気無いばかりの少年が、社交界で一等気難しい紳士の心を捉えた事実に、大変興味をそそられた。