丘陵に佇む旧家所有の古城を預かり、永らく高貴な系譜を見守り続けた執事は、定刻通りに最上階の特別室(スイート)を訪れた。
橙髪の未だ歳若い秀麗な当代が、折々密やかな羽根休めに、夭逝した美貌の貴婦人から受け継がれた部屋で寛げば、誠実に本職を全うした。
五十路間近の謹厳実直な家従は、精緻な装飾の施された開き戸を慇懃に二度打ち鳴らすも、残響は儚く絶え、回廊は再びの静謐に還った。
漂う孤独感に少しく落胆の面持ちで、危うく零し掛けた嘆息を深々胸奥に仕舞い、敬虔な祈りにも似た想いを込めて、真鍮の把手を掴んだ。
窓掛けに遮光された室内は未だ仄暗く、忠僕は豊かな襞(ドレープ)を静やかに手繰り寄せて真冬の陽射しを導き、色褪せた夜の名残を掻き消した。
純白の敷布を広げた無垢材の卓上、燭台は最早燃え尽きて、一昨日以来続く全き手付かずに胸を痛めつつ、彼は淡然と朝餉の席を整えた。
東雲の帰邸から閨室に籠り、頑なに沈黙を貫く主を唯々慮るばかりも、ふと扉向こうの微かな気配に支度の手を止め、薄ら目許を綻ばせた。
長年王宮の厨房を指揮した総料理長直々に、絶食後の軀を労わる献立を拵えては、虚しく廃棄され続けたが、経験則から終息を豫感した。
―――ガシャ…。
銀匙を唇へ運ぶ優雅な姿を目蓋に描き、そっと澄ませた耳翼が捉えた不穏な響きに、執事は喫驚し、間髪を入れず主寝室へと駆け込んだ。
真っ先に見遣った台架(ベッド)の上、残された最高級の毛布(ケット)は微睡の抜け殻を想わせ、歳若い長の習慣を刹那に鑑みて、続きの瀟洒な湯殿を窺っ
た。
聊かの躊躇いを覚えつつ、首傾げの仕草で大胆にも開け放たれた二枚扉をちらり垣間見るや、自然光の只中、佇む端麗な姿に感嘆を零した。
名将と謳われた矍鑠たる祖父の下、物心付いて早々に官軍伝統の厳格な教練を課された体躯は、青年期初めにして比類無き強靭さであった。
崇高美漂う完璧な半裸身に忽ち心奪われるも、細かな金属片のぱらぱらと砕け落ちる音で覚醒し、眩い朝の光景総てを漸う網膜に捉えた。
「…ルキアーノ…様……?」
絢爛豪華な彫金縁の鏡を強殴した恰好の儘、鮮やかな紅の滴りにも一向構わず、幾何学模様にひび割れた気高い面差し其れ丈を睨み続けた。
神々しい肉體の発する壮絶な殺気に気圧され、本能的に後退り掛けるも、執事たる矜持で以て核心の慄きを凌ぎ、彼は平静な対処に努めた。
「暫し御待ち下さい。只今、傷の手当てを。」
凛と落ち着いた所作に秘めた動揺を、秀麗な紳士はちらり凍える一瞥で見透かし、興醒めた風情で月白の大理石造りに映ゆ、ぽたり深緋の斑を眺めた。
慇懃な辞儀で直様踵を返した忠僕の背に、没意義。と自嘲を帯びた擦れ気味の声が届いても、聞こえぬ素振りで薬瓶の在り処へと急いだ。
昔日、床臥しがちな令嬢が密やかに情熱を綴った書斎は、代替わりの後、愈々深遠なる背表紙が並び、大學に籍を置くより遥か先、膨大な軍法文献と充分過ぎる
医療器具とが、至極当然の如く文机の最も手近に揃えられた。
名門の筆頭に就任して爾後、呟かれ続けた辛辣な言葉を、執事は独り胸の内で反芻して眉間に皺寄せ、猶氾濫する遣る瀬無さに唇を噛んだ。
愁いを掻き消すかの様に一拍置き、聡明な主人手ずから厳選した医薬品を見定めると、未だ翳りを隠せぬ面立ち映す硝子扉に五指を伸べた。
ふとした仕草で瞳を俯ければ、爪先に粉々破けた複数の注射器(シリンジ)が散乱し、秀逸な織りの絨毯の上には、最早錆色に褪せた體液の飛沫。
「穢らわしい…即刻、棄てて仕舞え。」
儚く折れた針の尖端に名残の一雫を認め、思い掛けず口許を覆った忠僕の後ろ背へ、凛冽な声が鞭打ちの如く放たれた。
喫驚して振り返ったなら、鋭鋒想わす淡紫の双眸に忽ち射貫かれ、静寂を纏いつつ微塵の隙も窺えぬ立ち姿に、次代の軍閥を担う風格を感じて慄いた。
無機質な兇器をひたり宛がわれたかの様な錯覚に、生温い汗が襟下を伝い落ち、胸奥の搏動さえ不明瞭乍ら、執事は漸う喉を震わせた。
「……御意。」
感情の片鱗すら窺えぬ紳士の、つ、と視線を逸らせ、暖炉際の長椅子に腰を据えれば、躊躇わず戸棚の真鍮を捻り、早々処置道具を整えた。
物憂げな様子で頬杖を突く主人の足許に跪き、肘掛けの上、撓やかな五指にきつく握られた手巾(ハンカチーフ)を細心して解いた。
血染めの刺繍入りに息を呑むも、露になった裂傷の存外浅く、謹直な家従は微かに愁眉を開いて、直ぐ様然るべき手当てに専念した。
乱雑に捲られた袖から覗く無数の針刺し痕は、自虐行為の確たる証拠で在り乍ら、最中も身動ぎ一つせぬ端整な貴公子に、諫言は憚られた。
靴紐の緩みを丁寧に結び直せば、当然に何事も語らぬ儘身を起こし、自身もまた同様に心得て逞しい背に廻り、ふわり上着を羽織らせた。
「朝食を準備致して居ります。」
隣室を仄めかす慎み深い黙礼にも、踵の響き唯其れ丈であったが、一足毎遠退く芳馨の淑やかさは、執事の胸中渦巻く葛藤を優しく宥めた。
背凭れを引いて着席を見守り、幸福な蒸気漂う銀食器を主の手許に置くと、中老の家僕は深々頭を垂れ、独りの食卓を静かに閉ざした。
扉の外、意図せず零れた小さな溜息が肩端を揺らせば、不謹慎を厳に自戒して、直ぐ様書斎に戻り、散った硝子片を手早く掃き寄せた。
蒐集された典籍を支える堅牢な脚下、無造作に捨て置かれた未使用品に気付き、刹那躊躇したものの、そっと上着の右隠しに仕舞った。
血と薬液の滲む綿花を載せた不銹鋼(ステンレス・スチール)の医療皿に、悪徳の残骸を添え、折った片膝を正すと、清澄に復した所縁深い小部屋を眺めた。
耳を傾ければ、小鳥の囀りを想わす微笑み声が鼓膜に甦り、篤い忠誠を誓った麗しい貴人を偲んでは、寡黙な唇が憚り続けた響きを擦った。
小半時過ぎるのを待ち、再び主人の許を訪ねれば、何時も乍らに気品と遊び心とが見事調和した装いで、今し方淹れた珈琲を堪能していた。
入れ違いに退く給仕の持つ深皿を瞥見し、半量の残を認めるなり、家長の恢復途中の身に在って、褐色の嗜好品が及ぼす強刺激を懸念した。
諫言を呈す立場を承知も、さらり流れ落ちる橙髪を無造作に掻き上げ、片眉で挑発する悪戯気な仕草一つで、齢の刻まれた眦を緩ませた。
白髪混じり(ロマンティックグレー)の優秀な執事は、昨晩に本邸から使送された王家の紋章入り一通と、紙切り刃(ペーパーナイフ)とを本革製の小盆(トレ
イ)に載せ、傍へと歩み寄った。
歳若い主は露骨に不機嫌な溜息を吐き、しかし、忽ち見事な手際で封切って、興醒めた風情を崩さぬ儘、書簡箋の文字を淡々と辿った。
「……何時に無く急な話だ。」
先頃、宰相の緻密な外交戦略が奏功し、大陸の主要国を一滴の血も流さず統治下に置いた皇帝は、豪奢な祝宴を張る意向を臣下に伝達した。
玉座に最も近いとされる第二皇子の偉勲を讃える晩餐会は、翌週第六夜の開催と認められ、当代が凛々しい俯け顔を顰めたのも道理と謂えた。
帝王の公務を調整の上と申し添えられたなら、誰彼も、万障繰り合わせて馳せ参じるであろう事は想像に難く無かった。
格式とは裏腹に、作り笑いの假面を被り、美辞麗句と追従で以て保身を図る貴顕達の真似事など、歳若くも誇り高い家長には拷問と同義。
何時もならば後見人夫妻が自然と代役に立つ処、招待主が超大国の皇帝とあっては、一門の筆頭に判断を委ねた。
橙髪の紳士は物憂げに頬杖を突いた繊指の先で、そろり唇を撫ぜて思慮に耽っていたが、やがて内隠しに挿した白銀の万年筆を摘んだ。
鞘から舞い降りた細身の外形(フォルム)が、濃藍色の華麗なる文字で臨席の心積もりを綴れば、伏し目勝ちに窺って居た執事が確と返書を託った。
当然に本家宛、一報が届けられれば、罪深い夜の秘め事を聞き及んで居る筈の後ろ盾が、爾来帰邸せぬ儘の軽薄な主に心痛める姿を想った。
然うしてまた、国政の重職に就くヴァインベルグ家の当代へも招待状が送られ、温厚な人柄の卿は快諾し、宴に臨むであろうと豫感した。
愛息が如何様に取り繕おうと、搏たれた頬の朱、切れた口端は隠し果せぬ。
尤も、幼い肢体に散る忌まわしい傷痕が露見する率は格段高く、近い将来に峻烈な非難を浴び、両家の交際は最早断絶するものと心得た。
遥か冬空より祝福の薄日が射し込み、端整な面差しにほんのりと柔らかな温もりを齎した。
ルキアーノ=ブラッドリーはまた悠然と頬杖を突き、冷め掛けた珈琲をこくり喫して、煌めく神秘的な瞳をひととき幕閉じた。
華々しい凱旋に満悦至極の皇帝は、長い帰国の途から一夜明けて早々、群臣に謁見を賜った。
週が替われば外遊の為に再び帝都を発つ身、側近達が過労を憂慮するも、正装した人集りが拝顔の栄を浴す為に、午前の総てが費やされた。
最終の拝謁が辞する頃には、帝王の面にも幾分疲労の翳が窺えたが、職責を果たせば、威風堂々、寵臣達を引き連れて玉座から退いた。
遠ざかる後姿を見届けると、国都内外から参集した諸侯達は、朝未だきからの緊張も漸う綻びた風情で、絢爛豪華な応接の広間を後にした。
回廊に出れば其処此処で御喋りが花開き、雑踏は緩やかに流れた。
帰路を急ぐ旧家の筆頭は、聊かもどかし気に高級な折り襟を次々追い越したが、ふと耳馴染の呼び掛け声に気付いて踵を止めた。
「卿…!ヴァインベルグ卿!!」
ちらり肩越しに深海色の瞳を凝らせば、颯爽と人混みを掻き分け乍ら、急ぎ足に後追いして来る紳士の姿。
由緒ある家柄の、二十歳に満たぬ長を補佐する彼とは、幼い子息を通じて懇意となり、駆引き常套の階層で、指折る程稀少な一人となった。
自然、親愛の笑みを湛えたが、家族を襲った謎深い事件の真相如何に依っては、得難くも別離を選択肢の最有力に挙げねばならず、杞憂に終着する事を密かに
願った。
優雅に軀を翻し、葛藤の片鱗すら垣間見せぬ温かさで迎えたなら、傍寄った名家の後見人は慇懃な挨拶の後に、自愛を仄めかす言葉を掛けた。
遠征最中を承知で、皇帝宛に一時の暇を願えば、職責に対する真摯な姿勢から格別の配慮を賜るも、事訳を伏せたが為、忽ち健康不安説が流布した。
穏健派の領袖は小首を傾げる仕草で巷説を否み、毎年、雪降る季節には別荘で狩猟を嗜むのだと、少年の様な心待ち顔で密々打ち明けた。
気懸かりを抱えた儘御前に臨んだ名門の家長代理は、意想外の返事を聞いて小さく噴出し、上品な茶目っ気有る同遊の誘いに、莞爾として頷いた。
「…極々、家事の都合で。」
輝かしい武勲を誇る旧家の補佐役が、壮健の事実に安堵の胸を撫で下ろせば、卿は、紳士が凍える夜の悪夢を一切関知して居らぬ心証を強めた。
屈託の無い表情で肩を並べて歩く彼に、苦悶を与えであろう事は想像に易く、躊躇いから然り気無さを装いつつ、歳若な家長の動静を窺った。
熱に侵されて猶逢瀬を望んだ幼子の為、自ら旧将軍家に赴いた父ならば、其れは至極当然な会話の流れで、後見人は勘繰る素振りも見せず、素直に近況を告白し
た。
「大変御恥かしい話ですが、彼是一週間も不在でして…。」
繊細な年頃では愈々増すばかりの外泊りを、試験明けを理由に赦免している次第と、溜息混じりに肩を竦めた。
親代わりとしての気概滲む其の横顔を一瞥しては、今漸く青年期の終盤に差し掛かった彼の、謳歌すべき華やかな季節の総てを捧げ、世間の矢面から、赤子同然
の遺児を護り抜いて来た時間の長さを想った。
「処で、然る晩の対面について、卿は何か御聞き及びですか?生憎、当夜は妻(さい)と出掛けて居り、彼とは左様な事情で数日来会えぬ儘。久方振りに心寛ぐ
時間を持てただろうかと……」
さらと核心に触れられたなら、虚を突かれ動揺するよりも、寧ろ先読みして居たかの様な心持ちで革靴の響きを休め、少しく相手を見詰めた。
横並びの歩調が乱れては、名門の補佐役もまた立ち止まり、面差しに怪訝な色を湛え、敬愛する大貴族の長と対峙した。
「如何かなさいましたか?」
「……卿は今宵、御在宅であろうか?家族と過ごす穏やかな一時を、僅かでも割いて頂ければ幸い。」
両家の未成熟な貴公子達が交誼を結ばなければ、互いに会釈以上の進展を期待する事は無かった筈の二人だった。
幾らか歳下の後見人がこくり頷くと、ヴァインベルグ家の当主は、静かな語り口で略式の不行儀を謝した上、月夜時刻の往訪を伝えた。
何時に無い申し出を受け、代理人は不倖せの気配を敏感に察したが、優しい瞳の紳士の、人差し指で唇を封じる仕草に、此処では其れ以上を慎んだ。
言葉を失くして佇む傍、一群が緩やかに通り過ぎれば、思考の揺蕩いから覚醒し、では後程。と、二人は其の場を境に帰り路を別にした。