10. 原罪

やわらかな睫毛が繊細に瞬き、微睡醒め遣らぬ高雅な淡紫の瞳が、夢現にゆらり薄暗闇を窺った。
枕辺のか弱い蘭燈に映し出された横長の眺めを、朧な意識がひととき彷徨い続けた後、漸う別邸の私室と解した。
風光明媚な小高い丘の上に建つ離宮は、曽祖父に当たる先々代の皇帝が、生来虚弱な愛孫を憂えて贈り、夭逝した後は遺児が引き継いだ。
広大な敷地と秀麗な佇まいを維持する観点から、王侯貴族を対象に別棟の客房を最上級の歓待で差配させ、帝都の楽園と称賛された。
十五を待たず社交界に足を踏み入れて以降、気紛れに甘い誘惑を嗜んだ朝未だき、名門の主は亡き貴婦人所縁の古城で夜会服を寛げた。
生前の母が愛した部屋で、洗練された装いと、地位と富、名声迄も諸共足許に脱ぎ捨て、素顔の儘の、ほんの僅かな羽根休めに瞼を閉じた。
度重なる朝帰りに眉を顰めていた後見人も、後に丘陵の別荘で過ごす一夜を聞き及んでは、歳若い家長の聖域をただ静かに見守った。



極上の毛織物(ブランケット)に包まれた軀を気怠げに傾げ、在る筈の無い温もりを求めた華奢で大きな手が、虚しく左隣の敷布を掴んだ。
あの小さな背中を最早二度と抱けなくなると、重々心得て置き乍ら猶本能的に希い、喉奥で躊躇った可憐な響きを、そっと声にした。





断崖絶壁を後退るかの様な焦燥に、鋭利な兇器で抗い、薄着の儘家を飛び出した。
責付く動悸を宥める術さえ持たず、せめて独りに還れる場所をと思案した積りも、本邸から此処へ至る迄の経緯は極めて不明瞭であった。
覚束無い記憶の断片を掻き集め、不夜城の喧騒を足早に通り過ぎた処で、然る名士に声を掛けられ、屋敷への招待を受けた事実が甦った。
―――案内された密室の扉を潜れば、漆黒の闇に灯された蝋燭が揺らめき、噎せ返る麝香に包まれた魔宴の上座に、悠然と腰掛けた。
背徳に溺れる人々から感嘆が漏れ、妖艶な美女達は競って足許の左右に侍り、肘掛けから枝垂れる指先にくちづけ、端麗な面差しを窺った。
淡紫の一瞥に、客遇いも老練な高級娼婦達が頬染め、初戀の純情さで指名を切望した。
家名を継いで華々しく登場した日から、絶えず注がれた憧憬を気紛れに弄び、衝動の趣く儘、醒めた官能を昇華させた。
殆どが一糸纏わぬ姿で享楽に耽る中、如何にか今宵の貞操を護っていた稀少な半裸体のひとりに、高貴な瞳を眇めた。
幼顔の娼妓は賜った栄冠に感極まって言葉を失い、秀麗な名家の長に頬杖を突く仕草で促されて、震える薄桃の爪先を静やかに傍寄せた。
微かな優越と戸惑いの滲む彼女の細腕を引き、よろめいた柳腰を抱くと、濃厚な接吻で固唾を呑む周囲を挑発した。
其処此処の密々声から名高い私窩子と判明したが、本分たる駆け引きすら挑めず客人の技巧に翻弄され、最後に甘い嬌声を放って潰えた。
艶めかしい抜け殻が膝から滑り落ちれば、最早相手の素性など些事と捉え、野獣の激しさで嫋やかな肢体を一層求めた。
片端から劣情を演じてみても、熱を帯びた軀とは裏腹に核心は凍え、絶頂を極めた柔肌が、猫脚のぐるりに次々横臥するばかりであった。
出自の混在する濡れた肉體の群に、嘔吐感とも似た猛烈な嫌悪を催し、其の晩、淫靡な焔は吐精に及ばぬ儘ひっそりと萎えた。
享楽に飽いた風情で着衣の乱れを正すと、ふしだらな遊戯の残骸を避けて部屋を離れ、正面口に横付けされた黒塗りで、別邸へ足を向けた。





何時の間にやら睡魔の誘いに乗じていたらしく、か弱く羽搏いた睫毛の下、寝覚めの薄紫が煌めいた。
凡そ時間と謂う概念の麻痺した重怠い軀は、ふわり優しい毛布(ケット)の肌触りを恋しみ、傷を抱えた獣の習性宛らしなやかな背を縮こめた。
億劫そうな身動ぎで、霞む世界を今一度閉じる積りが、帳の隙間から射すやわらかな光の中に、憶えのある幼子の後姿を認め、息を呑んだ。
眩い黄金色の髪を結わえる細紐は、少女と見間違われた苦い経験を打ち明けられ、折々に然り気無さを装い贈ったうちの一つだった。
逡巡した挙句の擦れ声で、甘い愛称を呼び掛けると、豊かな両襞の継ぎ目から一途に外を眺めていた細い項が、途端に力無く俯いた。

如何して、こんな酷い事をするの?

肩越しに振り返った蒼穹の瞳は深い嘆きを湛え、赤く腫れた頬を小さな掌で庇う仕草に、忽ち彼の罪深い夜が描き出された。
急いて言葉に詰まるばかりの目前で、悲しみの結晶がほつり零れ落ち、さよなら。と儚い微笑で別れを告げた。
踵を返して遠ざかる少年を、如何にか引き留めるべく乾いた喉頭を振絞ったが、無声映画の齣送りを想わす冷淡さで扉が閉められた。



「………ジノ…ッ!!」

自身の思い掛けない声量で覚醒した。
緊張を解かれた四肢は汗に濡れ、痛みと錯覚するほど喧しい鼓動を宥めつつ、自ら決別を仕向けて置き乍ら。と夢現を鼻先で嘲った。
枕下に忍ばせた形見の銀時計を蓋開けば、暦は既に三度目の朝を指していた。
背筋を伝う不快な體液はもとより、此の謂い知れぬ抑鬱感の一刻も早い払拭を望み、食断ち後さえ顧みずに浴室へと移った。





湯煙の温度が注ぐ中、苛立ちに任せ、肌理の整った皮膚を傷め兼ねない手荒さで、執拗に石鹸(シャボン)を擦り付けた。
小さな刷毛で口腔を乱暴に掻き回し、吐き捨てた歯磨剤に微量乍ら鮮やかな朱を認めては、きりり清涼な水を含んで濯いだ。
几帳面に撹拌した純白の泡で痩けた頬を覆い、緻密な刃捌きで無精髭を削ぎ落せば、一層の野性味を帯びた端整な顔立ちが仕上がった。
溜息混じりに半渇きの髪を掻き上げ、ふと鏡に映る分身の輪郭を指で撫ぜた。
若くして逝った美貌の母親譲りの面差しと、英雄と讃えられた父親の気品を受け継いだ名門の歳若い長を、諸人は挙って持て囃した。
淡い憧憬はやがて狂おしい思慕となり、様々凝らした趣向で馴致を目論んだが、巧妙に仕組まれた甘い罠を早熟さで華麗に摺り抜けた。
征服欲を煽られて更な深みに嵌り乍ら、人々は明晰な貴公子が誰にも特別の感情を抱かぬと諦観し、終焉無く燻り続ける片恋の焔を慰めた。

「褒め称された貌も、薄皮一枚捲れば醜悪の極み。」

菫色の醒めた瞳が、大理石の卓上に置いた剃刀刃の輝きをちらり眺めた。
由緒正しい家柄と社会的認知を得るも、軍人と謂う都合の好い代名詞で、連綿たる人殺しの血統を誤魔化したに過ぎず、武勲華々しい父から最愛の妻を奪い、終 には錯乱に追い遣って謗りを蒙った我こそが、不穏な眷属の筆頭に御誂え向きと解釈した。
絶家を免れる代償に、分別も儘ならぬ嫡流の独り子の、先々に於ける兵籍入りを帝王に望まれては、聡明な後見人も代諾を余儀なくされた。
事訳を了解出来る年頃に至り、嘗て将軍職に在った祖父から手解きを受け、密かに種々の試験を繰り返し、学んだ技法を完璧に体得した。
熱心に傾聴した兵術の講義中、宥和策は不要と切り捨てられ、驕りにも似た強者の気構えだけを厳しく教え込まれた。
拷問の匙加減を知る為に、夥しい悲鳴が鼓膜を通過しても、生まれついての殺人者たる矜持が、何の痛痒も感じさせなかった。
何れ丈命の燈火を消し去るかが遺児の存在意義であり、幼少の砌、慈愛に満ちた双親から引き離した神への、報復としての其れであった。
じわり忍び寄った病魔が母の優しい歌声を攫い、最早二度とは還らぬ平穏な春を嘆いた父は、忘れ形見を置き去りに、別な伴侶を選んだ。
掬い上げた小さな掌から、幸福は無情にも零れ落ち、高雅な瞳が眩い光を仰望する度、瞼に刻まれた原罪の痕跡で以て、永らく苛み続けた。
清純であった時分、至上の愛を謳う神に最も大切なものを奪われ、爾来、其の本質を狡猾な裏切りと認識し、購いに恐怖の絶頂を課した。



遠い昔、儚く身罷った母も寛いだであろう白い楕円の揺蕩いに、爪先から浸りて波紋を広げ、全くの無意識で抱えた両の膝頭に頤を載せた。
まるで揺り籠の穏やかさで寄り添う細波からは、微かな芳香が立ち籠め、やわらかな温もりで、赤く擦れた素肌と最奥の悴みを癒した。
蒸気に睫毛を俯ければ、陰鬱な背徳の宴に於ける目眩く放蕩の最中、幾度と瞼を掠めた涙の残像が水面に描かれ、深い溜息が零れ落ちた。



夜空を彩る星々に喩えられる程、際限無く恋慕われたが、叶わぬ想いにやがて萎んでゆく情熱の焔は、偶像の瞳に興醒めで、終始放擲した。
其の他大勢の歳若い崇拝者達同様、親の金権に縋って求愛を仄めかせば、煙る金髪の可憐な小公子とて、老獪な作法で躱せた筈であった。
月夜の晩に出逢った幼子は、名立たる家柄の末子で在り乍ら、終ぞ爵位を嵩に掛けず、穢れない一途さに、図らずも強く掻き立てられた。
気付けば、最早秘められた高潔な情操の虜となり、相等しい反作用のひとつも心得ぬ儘、真摯に願われて交際を結んだ。
漆黒の闇に君臨する宿運を弁えつつも、自尊心から本体を隠蔽する愚劣な策には及ばず、偽らざる素顔で、深まりゆく季節を静かに紡いだ。
蒼穹の慧眼が遠からず悪の化身と見透かせば、やがて喪われる一過性の熱病と承知していた。
ひたむきな思慕は、幻想的な邂逅の夜から色褪せなかったが、気高い感情の終焉を銘じた経験則は看過し難く、厳重な警戒を怠らなかった。
琥珀色の髪が華奢な五指を摺り抜けてそよ風に靡き、ほんの些細な自然の悪戯さえ、背信の前兆と勘繰っては、ひとり動揺を遣り過ごした。
残忍な報復を避ける手立てに、稚い木漏れ日の微笑が唯其処に在ると謂う真実だけを貴び、真っ新な心の傾倒を淡白に遇えれば幸いだった。
関心を逸らす方便と知らず、奨励された近しい年頃との親睦にも素直に勤しみ、翻り遠退いた逢瀬に一層募る恋しさは、封蝋し託けられた。
丁寧に認められた幼文字迄も等閑に付すのは憚られ、白皙の仄かな含羞みを思い描き、美しい透かし模様の書簡箋に硬質な筆先を滑らせた。
理性と謂う名の有刺鉄線で囚えた兇暴な衝動は、自己同一性の崩壊を予感して、最早歯止めを喰い千切る権幕で抗い、親交を厳に慎んだ。
歳下の心酔いを醒ます名目で節度を貫き、一握りの幸福と、引き換えに得た不確かな平穏とを天秤に掛ければ、胸中は矢張り空虚であった。



名門を預かる大人達の濃やかな気遣いにより、言葉も尽くさず、半ば無理矢理遠ざけた小公子の訪問を了承した。
久方振りの対面に幾許か迷った挙句、遅い時間に家路に就くも、静かに開扉した書斎の奥、病み上がりの細った背中に堪らず溜息を吐いた。
無造作に書き散らした学術論文を、行儀良く膝折って拾い集め、禁断の美酒(アブサン)に小首を傾げる幼い後姿もまたいじらしく、ひととき見惚れた。
深呼吸で平静を纏い、努めて普段通りに声を掛ければ、驚いた様子で少しく窶れた面差しを振り向け、ふわり淡雪にも似た微笑を浮かべた。
一方的に距離を置かれ、猶等身大の儘を受け容れる心積もりを明かしたが、澄んだ瞳に自殺の真似事は冒涜と映り、敢えて諫言を呈した。
過日の晩に無機質な銃口が米噛みを撃ち抜いたとして、狡猾な魔手から稚い親友を護り遂せるならば、何らの後悔も無く逝けると信じた。
斯うして落ち着いた時間の中で思い返せば、平素から草花や小動物に慈しみを傾けていた少年の、確かに其れは最も望まぬ行為と理解出来た。

「左様な大事を、今頃になって気付くとは……」

苛立ちを含んだ低音の響きが、煙る小さな湖面にか弱い波紋を広げた。
最早永遠に喪われた事実を知ろう筈も無く、双親から授けられた五体満足な総身と一般論に当て嵌められ、潜んでいた獣の本性が激高した。
闇の血統を次代へと繋ぐだけが遺児の本分であり、畢竟何時如何なる場合も勝者で在らねばならず、生命の意義を顧みる暇など絶無だった。
相手を葬り去るか、或いは自らが斃れるかの究極的な選択の歴史に、己を挺して命の尊厳を知らしめた人物は、記憶する限り儚く身罷った母一人であった。
薄桃色の幼い唇から“愛”と謂う言葉が零れた刹那、総てが瓦解した。



組み敷いた腕の下、翻弄する官能の嵐に、御願い…もうやめて。と重ねて愁訴する悲痛な擦れ声が、耳殻の最奥で絶えず響いた。
処女雪の柔肌を、醜い慾で執拗に苛んだ。
戒められて一層激しく堕落を拒絶するも、未踏の境地に純然と慄いて、潤んだ蒼穹の瞳をきつく閉じた。

厭だ…ッ…怖い……

か細く幼弱な肢体に秘めた純潔を不本意な形で喪い、斟酌無い大人の力で搏たれた頬に、嘆きの雫が伝った。
ささやかな幸福のひとときにも、稚い年頃には猶自律し難い情動を、素直に面差しに湛え、折々繊細な睫毛を濡らした。
木陰で擦過傷の痛みを堪え忍んでいた邂逅の夜、括目に値する才能を披露した本邸での音楽会、歌劇場(ナイト・クラブ)では華美な衣裳の踊り子達にたじろい で―――。

「……泣き虫な仔猫(キティ)…」

然う謂って揶揄えば、白皙の頬を膨らませて外方を向いた。
飴色の項髪にくちづけて宥め賺したなら、擽ったさに細身を捩り、眩い太陽の微笑で白旗を翳した。
不穏な要素を残らず我が身に請負い、幸福唯其れ丈を与えたかった。
気付かれぬ裡に魔の誘惑を蹴散らし、終始愁いから護り続けた可憐な含羞も、片や総てを寛容されていると自惚れ、幼い戸惑いを看過した。
高潔な情操に核心を揺さ振られ、命の代償に望んだ仄かな木漏れ日を、血塗られた掌で遮り、二人が紡いだ優しい時間を終焉へと導いた。
偽りの假面で、肌理の細かい華奢な肢体を穢し乍ら、峻烈な断罪を切に願った。
爾来、やわらかな光に喩えた清楚な微笑みと、最後に焼付いた涙の光景とが、互い違いに甦り、即効性の薬剤を服して奈落の闇へ遁れた。
才頴なる彼をして、夢現に胸を掻き乱す激しくも切ない此の感情を、何と名付けるべきか躊躇い、煩悶だけが無情にも時計の針を進めた。

「…仔猫(キティ)……」

瞼に描き出された倖せの象徴は、ふわり虚空に舞い上がり、やがて儚く薄らいだ。