05. 寛容

歳の離れた二人が交誼を結ぶに当たり、最優先させたものは、他ならぬ学業であった。
模範となるべき立場の彼から、一等初めに、成績が僅かでも落ちれば即刻打ち切ると約定を迫られるも、少年は万事心得た様子で首肯した。
与えられた課題や稽古事を終えた上での訪問が前提となり、最難関の学府に籍を置く彼が昇級試験に及第して以降、面会は週末に限られた。
勉学抜きにも多忙な身と予め承知していた小公子は、吟味された譲歩案を素直に受け入れ、逢えない日には手紙を綴った。
技術革新目覚ましい昨今に於いて、二人は数ある連絡手段の中から敢えて古風な術を選り、永らく細やかな文通を続けた。
絶え間無い往復書簡は、認められた所見や謂い回しも然る事乍ら、薄文様の美しい便箋に並ぶ繊細な筆致が、相手を一層身近に感じさせた。



週末の華やかな社交場に、ブラッドリー家の歳若く秀麗な主が登場する機会は格段に減り、彼見たさに赴いた貴婦人達を幾度も落胆させた。
平日の夜に限り招待を受ける事で、儀礼を損なう大事には至らず、後見人夫妻も学籍に在る彼の代役を務め、名門としての体面は依然保たれ続けた。
実年齢には不相応な女性遍歴が、疎遠の訳を新たな恋愛(ロマンス)と噂させ、幸いにも、真相である大貴族の子息の存在は、ひととき露見を免れた。
真実、彼は逢瀬の相手に不自由しなかったものの、渇望する迄の情熱には終ぞ至らず、重ねて契った記憶は皆無に等しかった。
例の紳士倶楽部への足も遠退き、焼き鏝で腫瘤(ケロイド)を拵えた次第も猶執心していた主催者の侯爵は、血眼になって来訪に与る手立てを練った。
背徳意識の欠落した華麗な才頴に、大罪を享楽する魔宴は興趣乏しく、蒐集された神学論や対極の発禁本を読了すると、躊躇無く脱会した。
何れ丈懇願した処で翻意は叶わず、侯爵は悲嘆に暮れたが、以後は会員の貴顕紳士達と同じく、公の場で二、三の言葉を交わすに止まった。
絶望した老紳士は消耗し、倒錯的な快楽に猶更深く溺れ、無慈悲な暴虐で死者を続出させて、官憲が動く事態を招いた後に、収監された。





護衛の観点から当然に家従が送迎したが、歳上の彼は、週の終わりの逢魔が時、幼い子供独りの外出で無し、自身が赴く方が良識と説いた。
道理を弁えた従順な気質の筈も、ジノは小首を左右するばかりで、聊か困惑を覚えていた処、学友たる名家の次兄がそっと助け舟を出した。

「家族中が君の親切に感謝したが、父は好意に縋るのを厳しく戒め、あの子もまた、交際を申し込んだ此方から伺うのが礼儀と、一途に信じているんだ。」

いじらしい思慕に報いる格好で、折節ヴァインベルグ家を訪問すれば、何時でも手厚い歓迎を受け、彼は其の都度、卿に書簡を認めた。
当初は金曜の夕方から夜に一度訪問し、翌朝に出直すと謂う二度手間を踏んでいたが、如何せん子供の就寝時間が早い為に、帰り際は意識が朦朧とした。
後見人夫妻は微睡みと戦う幼子の姿を気の毒がり、大人の範疇として先方に申し出て、ジノは漸う外泊を認められる処となった。
初めて過ごす晩、未だ十にも満たぬ少年は広い客間に怯えて寝付けず、柔らかな枕を抱え、安堵を求めて薄暗い廊下を直歩いた。
勤勉な橙髪の学士は、静寂に響く足音を聞きつけて筆を擱き、そろり私室の扉を開けば、湿った鼻をぐずらせる小さな客人を認めた。
細腕を廻して獅噛み付いてきた軀は震え、抱き止めた彼は唯々黄金色の項髪を梳いて宥め賺し、落ち着いた頃合いに天蓋付の寝台へ導いた。
蒼穹の瞳は心許無げに揺らめいたが、極上の毛布(ケット)で幼弱な胸許を覆い、白皙の額にくちづけると、少年は弱々しくも身動ぎして背を丸めた。
微睡み掛けた朧な世界で、薄紙を滑る硬質な筆の音に耳を澄まし、書物の頁を繰る実直な後姿に時折話し掛けるも、やがて寝息に変わった。
一時が過ぎて無垢な寝顔を瞥見した歳上の彼は、無意識に気配を顰めて隣接する書斎へ移り、家長の責務を終えた深更、漸く床に就いた。
左下に丸く俯せた少年の寝姿は胎児を想わせ、撥条(スプリング)の微かな軋りにも細心しつつ、彼は稚い盆の窪を隠す艶髪に鼻先を埋め、瞼を閉じた。
東雲の幽けき光指す朝未だき、背後に寄り添う熟睡の気配で目を醒ましたジノは、自身の軀に優しく廻された腕の温もりに、謂い様の無い切なさを覚え、華奢な 彼の指端をそっと握り締めた。



親交が深まるに連れ、二人は互いに様々な発見をしては感懐を抱き、主観に基づく尺度で相手との距離を理解した。
過ごす時間が増す程、八つの年齢差から、自然と歳下は歳上の行動を或る一つの規範と見做すも、模倣に終始しない聡明さで、対象者の懸念を杞憂に変えた。
橙髪の貴公子は、過信する事無く自身の影響力を見極め、負の作用を誘発する場面では必ず及ぼす害悪を諭して、ジノに選択権を委ねた。
二人の仲睦まじい交際を知る数少ない人々が望んだとおり、少年の純真な心を成る丈損なわぬ様、ルキアーノは折々挙措に配慮した。
意識的とも無意識的とも区別の付かぬ自戒は、他ならぬ名家の末子の胸に小さな火種をを為したが、節度と謂う名の下に暫時仕舞われた。



嘗て、ルキアーノが手巻き煙草を拵える場面に出会わした事があった。
シガレット・ペーパーにブレンドした葉を丁寧に詰める様は、薬剤の調合を想像させ、ジノは興味深げに彼の華奢な手許を窺った。
巻き終えると彼は赫い舌先で鞘紙の端を舐めて封し、文机の上で軽く慣らすと、白い吸い口をくるり此方に差し出した。
戸惑った末に緩く首を左右すれば、歳上の紳士は其れ以上を求めず、真新しい煙草を咥え、やわらかな金髪を聊か乱暴に撫でただけだった。
如何なる結果を齎すかを了解済みであれ、彼は少年が何某かの体験を経る自由を一度として束縛なかった。



著名な演奏家が音楽会を開けば正装し、名画が供覧されれば行列を厭わず美術館へと足を運び、品行慎ましい交際は大人達を感心させた。
夜会から遠退いた社交界の寵児との邂逅を期待して、上流階級の人々もまた挙って芸術鑑賞に押し寄せ、可憐な連れ添いに溜息を吐いた。
勿論、如何な極上品ばかりを並べた処で、血気盛んな年頃の冒険心は満たされず、二人は度々御行儀良い貴公子の假面を剥ぎ、窮屈な箱庭から抜け出した。
小綺麗な身形で出掛け、往来の人気を独占する道化師に拍手を送り、或る時は街外れに佇む隠れ家的な大衆食堂(ビストロ)を発掘し、週末の逢瀬を楽しんだ。
何時ぞやの弦楽器(ヴァイオリン)弾きが発起した市民の為の屋外演奏会にでは、飛び入りで感興の赴く儘玄人跣の腕を披露し、翌朝の紙面を華々しく飾った。
当代の芸術家達が贔屓にする会員制劇場(キャバレー)で、熱弁を振るう不粋な連中を他所に、一流の女優達を順に口説いて廻り、羨望の的となった。
頽廃的な雰囲気を纏う端整な顔立ちのルキアーノは、知識と教養と作法、洗練された着熟しと所作で、踊り子達を次々に惹きつけた。
彼は女性特有の小動物を想わせる愛らしい作りや、柔らかな肢体は謂うに及ばず、賑やかな歓談を頬杖突いて眺め、時折肩を揺らした。
場所柄、子供の出入りは極めて稀で、優艶な出演者達は気後れする稚い同伴に忽ち心奪われ、躍起になり麗しい金髪の小公子の気を引いた。
彼女達は名店の流儀として、当然に橙髪の紳士が許可する迄は少年に近寄らず、奉仕者たる徹底した意識が結果的に幼心の警戒を解かせ、口を利く要件となり得 た。
二人は行く先々で、市井の活気ある気風を存分に堪能した。
時に紳士淑女が眉を顰める場所へも出入りし、名門の歳若い当代を後見する親族と、子息の交際を後押ししたヴァインベルグ卿の許には、少なからず目撃情報が 届けられた。
尤も、両家は子供達に犯罪の危険性が及ばぬ限りは放免の心積もりで、やがて彼等が刺激的な遊戯に飽いた様子を窺い、微苦笑を湛えたのだった。





十の誕生日が近付くと、ヴァインベルグ卿は父親として正式な披露を見据え、陽の明るい時間帯に催される社交の場に、度々ジノを伴った。
未だ邪気無いばかりの四男とは謂え、名家に取り入ろうと目論む貴顕は後を絶たず、見覚えぬ大人達の言葉巧みな誘惑に末子は困惑した。
煩わしい人付き合いにも真摯な父の後姿を追い、判断し兼ねる事案は家族に指示を仰ぎつつ、浅い経験乍ら自分なりの道筋を探し求めた。
不慣れな環境での懸命な処世の試みに、やや疲弊の感が窺えても、此の閉鎖的な社会で生きる覚悟の下、少年は仕立て服に袖を通し続けた。
訪問先で、由緒正しい家柄の主たる貌をした親友を見掛けては、彼の見事な立ち居振る舞いを手本に学び、幾度も追従の波から抜け出した。



父とは初めて赴いた夜の社交界で、小さな碧眼は逸早くルキアーノ=ブラッドリーの姿を捉え、週末以外の時間の共有を素直に喜んだ。
適当な処で目前の相手との歓談に区切りを付け、漸く対面した歳の離れた友人達は、小さな溜息で緊張を解き、そっと目許を綻ばせた。
最早匂い馴染んだ仄かな沈丁花の馨を、少年は黄金色した睫毛を俯けて深く沁ませ、心慰めた。
歳の近しい上流階級の子息令嬢達から交際を求められる度、人見知りから間誤付いて自己嫌悪に陥り、消耗を繰り返していた。
橙髪の紳士が喫煙の仕草で大窓を一瞥すれば、ジノは暗黙の裡に了解して彼の背に続き、二人は密やかに屋外(テラス)への雲隠れを図った。
歳上の彼は、後ろ手に硝子扉を閉じた少年を振り返ると、三つ揃えの隠しから天鵞絨(ベルベット)の小箱を取り出し、ぞんざいに投げて寄越した。
ヴァインベルグ家の令息は咄嗟に揃えた両手で受け止め、篝火の焚かれた庭園の椅子に腰を下ろして、掌の結い紐(リボン)掛けを、矯めつ眇めつ穴の開くほど 眺めた。

「…求婚(プロポーズ)?」

無邪気に細首を傾げれば、紫煙を燻らせていた相手は少しく噎せ、可憐な金髪の小公子は見当違いを了解するも、猶怪訝な表情を浮かべた。
紫紺の生地に映える白い組み紐を解き、そろり蓋を開いた。

「ルキアーノ、駄目だ。此れは、亡き御母上から君への大切な贈り物。僕には受け取れない……」

嘆息して頭を振るジノの手許で、洗練された意匠のみで存在感を示す見事な銀無垢の懐中時計が、繊細な秒針を震わせていた。
華美な装飾を悉く駆逐した逸品は、早逝した貴婦人が、生涯身籠った唯一人の愛児の誕生を祝い特註した、数少ない形見と聞き及んでいた。
完結した美を誇る銀時計は、遺児となった橙髪の紳士が就寝する際、何時も枕下に忍ばせ、眠りの浅瀬を揺蕩う彼を優しく深淵へと誘った。
ブラッドリー邸で過ごす週末を絶えず待ち侘びる少年も、天蓋付の褥に臥して、静寂に響く細針の音に耳を傾け乍ら眠りに就いた。
事情を承知しては当然に固辞する構えに、火の灯る煙草を咥えたルキアーノは肩を竦めた。

「第一線から引退した嘗ての時計職人(マイスター)の許へ再々足を運び、無理を引き受けて貰ったのだが。」
「……え?」
「傑作の揃いを誂える事が出来るのは、翁だけだからな。」

ルキアーノは翻した幼い楓に載る小さな宝石箱から時計を取り上げると、竜頭に配われた眩い輝石を見せ、Happy birthday.と囁いた。
蒼穹の瞳と同じ透明度の誕生石に驚いた少年は、内蓋に彫られた祝福の言葉に気付き、漸う彼から贈られた十歳の誕生祝い(バースデー・プレゼント)と納得し た。

「一時の癒しに益する処が在れば、幸いだ。」

紳士が華奢で大きな手に握った時計をジノの形良い耳翼に寄せれば、黄金色の睫毛を伏せて微かな音にそばだてた。
小さな貴公子は、鼓膜に残る誠実な響きに胸の最奥を寛がせ、穏やかに上目遣いして微笑み、薄桃色の唇の動きで、ありがとう。と伝えた。



其れから後、未だ稚い年頃に在る名家の末子が社交へ赴く折には、眩い銀無垢の懐中時計を隠しに潜め、凛と刻む針音に平静を持ち堪えた。
ひとつ歳を重ねたジノ=ヴァインベルグは、煌びやかな世界で慎重に段階を踏んで処世術を見出し、やがて本来の快活な姿で人気を博した。