09. 思惑

破壊の爪跡を色濃く残す部屋に、壮年の執事は束の間動転したが、直ぐ様寝台へ駆け寄ると、稚い客人の肩に自身の上衣を着せ掛けた。
掻き乱された褥に横座る少年は、華奢な肢体の其処此処に狼藉の痕跡をとどめながらも、ただひとりの為だけに深く愁嘆した。
舞い散った純白の羽根毛が、穢れない心を象徴するかの様に敷布を埋め尽くし、家従は其の神聖な光景に、強い畏敬の念を抱いた。
羽織った上着から覗く幼弱な膝上に、痛ましい引掻き傷を認めた彼は、即座に手当てと家長の後見人への連絡を思い立った。
取り急ぎ薬箱を理由に退室しようとすると、ジノは静かな声で制止し、代わりに湯浴みと着替えの支度を命じた。
望む故は尤もであったが、主人の苛烈さを知る執事は、憚りつつも、小さな紳士に諌言を呈した。

「どうぞ御無礼をお許しください。お怪我をなさった箇所は、此処だけでは御座いませんね…?」
「……君の想像どおりだ。」

未だ十に達して幾月をしか経なかったが、纏う品格の高雅さで、絶対的な立場の相違を知らしめた。
過ぎ去った密室の嵐について、最早如何なる干渉も一蹴に付する構えと了解した執事は、温湯が身体に障らない事を願い、静かに頭を垂れた。

「畏まりました。直ちに御用意致しましょう。処置は浴後に。」
「ありがとう。」
「然し乍ら、ジノ様……今般の騒動につきましては、少なからず御報告申し上げねばなりません。」
「君が仕えるべきは、ルキアーノ=ブラッドリーを措いて他に居ない筈だ。全うして貰いたい。小さな諍い如きで、優しい御心を乱すのは、慎んでくれない か……」
「偽らざる暴挙を、黙認せよと?」
「…………総て、自分が望んだ事だ…」

ふっくり白い頬に猶悲しみの轍と摶たれた証拠を残し、床に投げ捨てられた衣服の閉じ具は、強引に引き千切った形跡が確と認められた。
執事は俯けた眉間に深く皺寄せて、そっと片手で口許を覆い、貴方という御方は…。と悲痛な声を漏らした。





入浴の準備が整うと、執事は細心して痩躯を抱き上げ、散乱する硝子片を避けて、幼い客人をバスルームまで鄭重に運んだ。
恭しい一礼の後に扉が閉まり、漸う虚勢の殻を脱いだジノは、覚束無い足取りで姿見の前まで近寄った。
親切な家従の上着をゆっくり開けると、冷たい指先と唇が残した軌跡が露になり、痛めた口端から小さな溜息が零れた。
袖を抜こうとした際に、爪立てられた肩の噛み跡とこそがれた二の腕に裏地が触れ、堪らず顔を顰めた。
鏡に映し出された少年の裸身には、夥しい鬱血痕が、握り潰した花弁の様に刻み込まれていた。
ジノは蛙の足を模した黄金色の蛇口を捻り、降り注ぐ温かな滴りが、伝い落ちる悲しみを攫っていくのを、じっと瞼の内で感じた。



ルキアーノが柩と皮肉った大理石の浴槽は、湛えた乳白色のやわらかさで、傷ついた軀を優しく包み込んだ。
爪先から沁み入る温もりが、揺れ動く幼い心をしっとり静かに慰めた。
稚い子ひとりには広過ぎたものの、洗練された造りの至る所に幸福の面影を残し、愁いを帯びた蒼穹の瞳が、其のひとつひとつを丁寧に辿った。
何れもが過日の懐かしい時間を想起させ、繊細な睫毛が瞬くたび、煙る水面に儚い波紋を描いた。
小さな肺の奥にまで達した沈丁花の残り香を、永遠に記憶させるかの様に、ジノはそっと細腕を抱き締めた。



今宵の初め迄、時計の針を巻き戻した。
激情の発端を振り返り、彼の思想の本質を朧に掴み掛けたが、頑なな拒絶の真意は忖度し難かった。
遺棄された命―――。
意味する処は謎めいて、深く悲しい響きだけで、少年の胸を鋭く抉った。
事訳を明かされない双親の不在が、愛の一切を背信とする所以であるなら、死の誘惑さえも興醒めな彼の心を、幼い思慕で永らく冒涜し続けた。
煩悶の末に、稀少な逢瀬が途絶えても、褪せない敬意を予感して、望まれた交際のかたちを受け容れたが、最早誠実さは足枷と同義と見做した。
差し控えるに留まらず、生き急ぐ孤高の精神の至願を叶えて訣別を選れば、思慮は忽ち驕りに変貌し、彼の矜持を著しく傷つけるに違いなかった。
翻って、同じく書簡を受けた父から、親交の保留を彼自身が認める瑕疵による申し出と諭され、歳下は身の処し方に一層懊悩し、憔悴した。

「…ルキアーノ……」

過干渉と承知し乍らも、向こう見ずを諌言せずには居られなかった。
病後の細った軀に散らされた灼熱の痕を、そろり幼い指でなぞると、責め苦の名残が微かに甦り、伏せた金色の睫毛を震わせた。
最初は其れと解らず、暴戻な接吻に決死の抵抗を試みたが、頬を摶った刹那の一驚した瞳の奥に、苦渋の極みを洞察した。
堪能な手際で貞操を飼い馴らしつつ、邂逅の夜に感受した密やかな慈しみを端々に滲ませ、偽りの羞辱に秘められた思惑の存在を匂わせた。
切れた口端を慰撫し、薄皮の剥がれた掌に眉を顰め、傷を掠める乱れ髪を払おうと、些かも躊躇わず伸ばされた指先が、今も残像となって焼き付いていた。
ジノは繊手で唇を覆い、何度も蹂躙された記憶の中から、たった一度の至福のくちづけを思い出して、またひとつ、水面に雫を落とした。

Time to say“Good-bye”.

嘆息の欠片でも漏らせば、忽ち虚構が瓦解するかの様に、ルキアーノは玩弄の最中に長く沈黙を貫いた。
交誼を結んだ月下、永訣の瞬間まで封印すると約束した短い別れの言葉だけが、其の強迫観念を打ち破った。
子供染みた無邪気な誓いを、二人は真摯に守り抜き、去り際には、何時もやわらかな微笑を湛えて別れを惜しんだ。
虚偽の凌辱を演じる心底を汲み兼ね、官能の嵐に苛まれつつも、自虐的な謀計を、もうやめて。と幾度も懇願した。
絶縁の為に及んだ暴行を峻拒できず、階下の使用人達に知れて彼の沽券が損なわれぬよう、喉の奥で悲鳴を掻き消すだけで精一杯だった。
理性を駆逐する甘美な衝動は、初雪を穢す背徳感にも似て、絶頂へと誘惑する長い五指の羽搏きに慄いた。
強いられた精通は、彼が宥める仕草で細腰にくちづけなければ、少年の自尊心を貶めるに十二分な辱めの記憶となる筈であった。

私を憎め。

囁いた艶のある低音だけが、彼の本懐と直観した。
最早噛み痕も掻き傷も、夥しい姦淫の証左でさえも、少年に何等の痛痒を感じさせなかった。
彼の受難に寄り添い、獰猛な一夜で彼が遠ざけようとした運命から、彼自身を庇い果せるならば、純潔をも厭わない決意であった。



やがて静謐なひとときが、自らを顧みない優しい暴君の、貴い命の尊厳を重んじる唯一つの手立てを、ジノにそっと耳打ちした。





浴後の微かな火照りは、幼い体躯に残る暴虐の痕をより鮮明に映し出したが、執事は生真面目に黙々と手当てを施した。
用意された清潔な衣服を纏い、家従の後に続いて遅い帰宅の途に就こうしたとジノは、ふと足を止め、綺麗に片付けられた室内を振り返った。
此の思い出深い部屋で、今一度の添い臥しが叶えられる日を切に願い、少年は手ずから扉を閉めた。



親切な申し出に小さく頭を振り、ジノはヴァインベルグ邸の門扉の前で車を降りた。
御気をつけて。と丁寧な御辞儀で見送ろうとした執事は、不意にいたいけな客人に手を取られて瞠目し、そっと膝を折った。

「ジノ様…?」
「ひとつだけ…、我が儘なお願いを聞いて貰えないか?」
「謹んで承ります。何なりと御申し付けください。」
「……ルキアーノが戻ったら…どうか、何時もの様に、おかえりなさい。と優しく迎え入れて欲しい。」

漆黒の闇の中に在って、一層清廉な輝きを放つ青い瞳は、虐げられて猶揺るぎない至情を物語っていた。
家従は感に堪えず、高潔な小公子の手の甲に、慇懃なくちづけを捧げた。

「……御意に適いたく存じます。」
「ありがとう。」

安堵の胸を撫で下ろすと、ジノは彼に別れを告げ、ゆっくりとした足取りで、広大な敷地の奥に建つ白亜の邸宅を目指した。
執事は壮麗なアーチの外に佇み、次第に夜に紛れていく幼い背中を、静やかに見詰め続けた。





屋敷の窓から漏れる仄かな灯りに頬を緩めたが、素直に帰宅を告げきれず、ジノはエントランスを行き過ぎ、庭先の白いベンチに腰を下ろした。
外套の襟を引き寄せて真冬の寒さを凌ぎつつ、夜更けの帰りを訝しがるに違いない家人達への、適当な言い訳を考えた。
相手方が学術試験を終えた直後で、長居を遠慮したと話せば、安易に了承を得られる筈であった。
白い吐息で指先を温めながらも、未だ軀に残る翻弄の痕を秘する為には、此の凍える季節を幸いに思った。
今夜の事件が露見すればルキアーノは非難を免れず、穏やかに二人の交際を見守り続けてきた彼の後見人夫妻が、深く胸を痛める姿を想像した。
ヴァインベルグ家にも少なからず動揺を与え、父の判断如何では、両家の交流自体が断絶されると危惧し、是が非でも真相を隠し抜く覚悟を決めた。
家族を謀る罪に良心の呵責を感じたが、然るべき時節に不実を贖う誓いを立て、橙髪の彼を庇護する意志は最後迄覆さなかった。
酷薄な假面の下に秘められた貴い真実を看過すれば、両親との朧な記憶は永遠に失われ、愛を虚妄と嘲笑し、二度と容認しないであろうと予見していた。
ジノは隠しから銀無垢の懐中時計を取り出すと、微かな秒針の音を心拍に擬え、祈りをこめて一心に耳をそばだてた。





夜半を過ぎて社交倶楽部から戻ったヴァインベルグ卿は、車寄せ(ポーチ)から離れ掛けた御抱え運転手(ショーファー)が、血相を変えて寄越した知らせ に耳を疑った。
出迎えた執事を伴い、案内に任せて暗闇に包まれた庭園に駆け付けると、衰弱し切って長椅子に凭れる稚い我が子を認めた。
やわらかな橙の蘭灯に映し出された童顔は、桜桃の唇までもが蒼白となり、小雪に濡れた髪が容赦なく体温を奪った。
卿は冷え切った軀を外套で包んで抱き上げると、直ぐ様執事に命じて幼子の寝室を暖めさせ、典医に迎えを出した。
用命に従って使用人達が足早に立ち去り、父は自らを奮い立たせて、華奢な愛息を支える逞しい腕に一層の力を込めた。

「ジノ……しっかりしなさい…ジノ……!」

そっと揺り動かすと、細かな痙攣の後に薄い瞼を開き、弱々しい視線が虚空を彷徨った。
直に沈痛な面持ちの父を捉え、春の木漏れ日を想わせる微笑を向けて、懸命に擦れ声を絞り出した。

「……お…父……さ…ま…」

続けて何かを言い掛けたものの、見る間に意識が遠のき、父の厚い胸板に其の身を委ねた。
一刻を争う事態に心急き、再び愛児を強く抱き寄せると、図らずも小さな頭がぐらり傾いだ。
結い髪に覆われていた細い首筋が露になり、白皙の肌に残された接吻の痕跡を目の当たりにして、ヴァインベルグ卿は息を呑んだ。
父は静かに長椅子に腰掛け、夜風に揺らめく心許無い灯火を近付けると、寛げた襟許から、ほっそりとした体躯を窺った。
至る所に散らされた鬱血の花弁に、紳士は濃い苦渋の色を浮かべてギリリと歯噛みしたが、沸き起こった激情を理性と慈愛とで圧倒した。



暖炉の炎は荒々しく燃え盛り、くべられた薪が時折音を立てて爆ぜた。
急激な寒暖の差に震える小さな軀を、純白の敷布にそっと横たえると、卿は主治医と次子以外の面会を謝絶し、世話役を執事一人に限った。
入室を許可された三人は、互いに怪訝な面持ちで顔を見合わせたが、他言無用を厳命の上で明かされた事実に、我が目を疑い、言葉を失くした。
医師は驚愕し乍らも素早く診断を下し、執事は固い表情の儘、蒸したタオルで幼弱な四肢を清め、真新しい寝衣に着替えさせた。
兄弟の中でも殊に可愛がっていた次男は、友人宅への訪問に喜色満面だった末弟を憐れみ、激しい憤りを以って胸を過ぎる疑念に言及した。

「…ジノを……素直で優しいあの子を、此れ程手酷く辱めたのは…恐らく……」

ヴァインベルグ卿は唇の前でそっと人差し指を立て、窘める様に続きを遮った。
ジノの看護を医師らに任せると、父は猶も筆舌に尽くし難い怒気を湛えた子を促し、部屋を後にした。





呼び寄せられた他二人の兄弟が揃うと、書斎の扉が固く閉ざされ、夜更けに集った家族の間には、徒ならぬ緊張が走った。
卿は不安に慄く妻の肩を静かに抱き寄せ、愛してやまない三人の子供たちの顔を、慈しみを込めて順々に眺めた。
やがて家長は丁寧に言葉を選びながら、努めてゆっくりとした口調で、此の場に居合わせない可愛い末子の事情を打ち明けた。
少年を溺愛していた妻子は強い衝撃を受け、聞かされた内容を反芻しては、重々しい溜息を吐いた。
奥方は気の毒なほど青褪めて、涙乍らに対面の許諾を求めたが、卿は彼女の為にも、決して首を縦には振らなかった。
冷酷な加虐者の正体を、誰もが名家の歳若い紳士と推察した。
果たして其れを浅慮と戒めたのは、逸早く此の事実を知り得たヴァインベルグ卿本人であった。



舞踏会での一件を受けて、自ら交際を慎んだ潔い誠意に深い感慨を覚えた卿は、みだりな嫌疑を躊躇った。
学籍を同じくする次男が、考査の為に遅い帰宅を続けているのを慮りながら、多忙な身で末子の訪問を了解した彼に、猶更胸打たれた。
其れ故に、社交界の嫉妬と羨望とが、久方振りの往訪に乗じて、幼い我が子を再び拐(かどわか)したとの憶測も放棄できなかった。
特権階級の暗部が引き起こした騒動以来、不穏な影から遠ざける為にも、分家での養育を幾度と無く検討してきたが、決断の時と心得た。
異口同音に彼を非難した三人の子供達は、小さな軀に施された丁寧な処置を指摘されると、銘々が短絡的な見解を恥じた。
手当てを彼の親切と期待する一方で、仮に彼の所業とすれば、日頃の傾倒振りからも容易に強姦とは断罪し難かった。

「繊細な問題だが、夜更けに人知れず思い悩まねばならぬ程、私の家族は疎遠ではない。何故、直ぐに訴えて来なかった?或いは、合意の上での事か…」
「御言葉を返す様ですが、摶たれた頬は赤く腫れて、唇も切れ、両の手首をきつく縛られた上、肩には残忍な噛み跡…鋭利な何かで引き掻いた傷も。」

次男の言葉で次々に明かされた病状に、二人の兄弟は眉間に深く皺を刻み、母は堪え兼ねて美しい顔を両手で覆った。
暴行を疑う余地は無いと糾弾するには、事に及んだ謂れを謎解かねばならず、ヴァインベルグ卿は実子の重大な過失を推察した。
当然乍ら、妻子は如何に依らず不相応な罰と反駁し、略取を容認するかの如き態度に苦言を呈した。

「何故、其処まで頑なにブラッドリー卿の潔白を信じるのですか?ジノが不憫でなりません……」

弟思いの実直な次男は、父を畏敬しつつも底意を測り兼ね、子に対する情愛を勘繰る空気が密室に流れた。
沈黙の中に深い溜息を落とし、やがて卿は穏やかな語り口で、家族に所懐を披瀝した。



「八つも歳の離れた子供と、半年余りにも亙って交際を続けてきた卿を、私は篤実な人と敬する。果たして、二人の時間が何かを損なわせたか?逆であろう。文 武に励み、交友を広め、当家の名に恥じぬ完璧な所作を会得し、今や誰もがあの子の将来を有望視する迄に至った。確かにジノは慎ましい性質だが、遊楽に流さ れ易い時期だ。私は、卿の打った布石が見事奏功したと考える。薫陶の賜物だ。ジノは卿を仰望し、卿もまた真摯に応えた。互いを引き寄せる強い力の本体を、 私は深い思い遣りの心と信じてきた。侯爵家での夜会に於いて、卿はジノの為に躊躇わず銃口を宛がった唯一の人物…。命の危険も顧みずに、私達の家族を守っ てくれた。其の彼が、真実、暴行に及んだのだろうか?俄かには考え難い。傷を負った軀で、ジノは何を想っていたのだ?瑕疵の有無は謎だが、私はあの子が甘 受した可能性を捨て切れない。真相を隠したとしても、不自然な怪我は孰れ質されるだろう。嘘の吐けない素直な子だ。さぞや悩んだに違いない。私は一切を受 け容れるよう諭したが、卿の振る舞いならば、人を愛する本当の意味を、ジノは知ることになる。或いは、初めて拒絶を経験するかもしれない。だが、私はあの 子の純粋な優しさこそが、揺るぎない心の本源と信じている。ジノは聡く、そして強い。如何なる事実であろうと、最後まで見届けるのが、私の務めだ。あの子 が自分から口を開くまでは、誰であろうと決して詮索を認めない。恢復後は、普段どおりに。ブラッドリー卿についても同様とする。卿は嫌疑不十分。礼儀を弁 えなさい。……長くなって仕舞ったが、私の話は此れで御終いだ。遅い時間まで、ありがとう。さあ、皆もう部屋に戻って休みなさい。」

ヴァインベルグ卿は慈愛に満ちた眼差しで、静かに子供達を促した。





卿は夫人を部屋へ送り届け、彼女が寝入る迄枕許に腰掛けて、ほっそりとした白い指を握り続けた。

「実は私、鳥渡丈ブラッドリー卿に嫉妬して居ましたのよ。だって…あの子、とても嬉しそうに卿の事を話すのですもの……」

先程まで露を含んでいた瞳が、何時の間にやら闊達な少女の如く輝いている様を、やれやれ。と嘆息しつつも、卿は大層愛おしく感じた。
眩い黄金色の髪の末子は、週末の外泊から帰ると、親友との楽しい思い出話に淡く頬染め、幸福の余韻を何時迄も惜しんだ。

「拗ねた素振りをすると、大慌てで上着から苺と桃の飴(キャンディ)を取り出すの。“何方(どちら)とも素敵で、ひとつ丈なんて選べない。”と、途方に暮 れた様子で含羞んで…」
「可愛らしいね。」
「勿論知っていたわ。本当は桃が大好きなのよ。其れなのに、“はい…お母様、どうぞ。”と小さな掌の薄紅色を私に勧めて、自分は深紅を…。いじらしくて抱 き締めると、とても吃驚していたわ……」
「優しい子だ。」

夫妻は可憐な愛し子の姿を思い浮かべ、束の間複雑な胸中を慰めた。
訪問を受ける回数は往訪の比ではなかったが、二人の睦まじい遣り取りを見掛けるたびに、一家は橙髪の高貴な客人に心を寄せた。
卿は奥方の指をそっと撫で、密やかな胸の内を明かした。

「私はね、憚りながらブラッドリー卿の事を、もう一人の子のように感じていたんだ。」
「貴方や子供達から御話しを伺ううち、私も卿に好感を抱く様になりましたわ。実際に御目に掛かると、昔馴染みの親友にも似た懐かしささえ…」
「歳若くして大人社会に出た彼の、翼を休められる場所のひとつに、なってあげたいと思う。」

永く信頼を寄せてきた伴侶の言葉に、彼女は穏やかな微笑を湛えてI love you.と囁き、やがて静かに瞼を閉じた。