窓から射し込む穏やかな光に、新たな季節の訪れを感じ、私は握り続けた羽根ペンを静かに擱いた。
右の目頭を押さえると、酷使した証に微かな熱が篭り、人知れず溜息を吐いて、硝子越しの美しい蒼穹を眺めた。
廊下に響く足音に気付き、そっと耳を澄ませば、思い掛けず此の部屋の前で立ち止まった。
等間隔で鳴らされた扉の向こうに応答すると、何時もは悪戯げに輝くナイト・オブ・スリーの瞳が、遠慮がちに室内を窺った。
「ルキアーノなら、此処には居ないぞ。」
無邪気に追い掛け回す姿も日常風景となり、てっきり年上の遊び相手を探しに来たのだろうと踏んだが、どうやら読み違えたらしい。
ジノは忽ち頬を染め、結わえた金髪が跳ねるほど強く否定して、ひとり?と上目遣いに小声で尋ねた。
頷くと些かほっとした面持ちになったものの、部屋に招き入れるようとすると、辿々しい口調で、叶えて貰いたい願いがあるのだと打ち明けた。
職務上の相談ではなさそうだが、まるで叱られた子が隠れる様に、ずっと戸口に佇んでいるのが気掛かりで、耳を貸そう。と微笑んだ。
素直に喜色を露にしたジノは、後ろ手にドアを閉じ、静かな足取りで席まで歩み寄ると、優雅な所作で深緑のマントの身頃を翻した。
果たして、純白のテーブル・ナプキンを被せた白磁の皿が現れ、訝る私に華奢なナイフをそっと手渡した。
眉を顰めると、未だ幼さの残る顔の右横で五指を広げ、反対側に細い人差し指を立てて、六等分して。と小首を傾げてせがんだ。
可愛らしい仕草に促され、覆いの端をそろり摘み上げた私は、果実の詰まった渦巻状のケーキに、クスと笑みを零した。
ノネットに射撃の指導を仰いだ処、謝礼として手作りを要求されたのだと事訳を明かし、教授役の不在に心許無い素振り。
時折、仲睦まじい姉弟のようにドロテアの隣で手伝う姿を見掛けたが、生憎彼女は遠征中で、さぞ苦心惨憺したことだろう。
「フルーツを意識すると、力を入れ過ぎてスポンジを潰してしまいそうだし……何より、等間隔に切り分けるのが難しくて。」
「責任重大だな。」
「今日はヴァルトシュタイン卿とエニアグラム卿、ブラッドリー卿とヴァルキリエ隊の二人に、私を合わせた六人…均等割りにしないと、諍いが……」
「成程。」
甘味を取り囲んでの大乱闘を想像した私は、軽い眩暈を覚えて眉間を押さえ、海の底より深い溜息を落とした。
ナイフは専門違いだと密かに苦笑したが、心苦しそうに睫毛を伏せられては、聞き入れない訳にはいかなかった。
五度目の刃を抜くと、ジノは安堵の胸を撫で下ろして、慇懃に謝意を表したが、もうひとつお願い。とにっこり顔の前で両手を合わせた。
その微笑みは最早不可抗力で、肩を竦めて了解すると、嬉しそうに奥の部屋へと向かい、直ぐに喫茶の準備を始めた。
私は綺麗に畳まれたマントを眺めながら、ジノがラウンズに名を連ねるに至った二年前の経緯を、静かに回想した。
士官学校を首席で卒業後、御前試合では高水準のKMF操作技術で他を圧倒し、皇帝陛下の御意に適った。
人選を任されていた私は、歳若い名家の子息に躊躇し、ギルフォード卿のように、何方かの専任騎士に推すべきかとも考えた。
自ら模擬戦を申し込み、十二分な実力と見定めて猶逡巡したが、間近に相対した瞬間、忠誠心を遥かに凌ぐ、確固たる信念を秘めた瞳に射貫かれた。
洞察した揺るぎない意志を信じてみようと、奏上し、齢十五にして騎士の最高位に就くこととなった。
騎乗している時の冷徹さと、元来の深い思い遣りに満ちた性格で、先輩格の騎士達から大いに歓迎され、皆が集うと賑やかな笑い声が絶えなかった。
親子程も歳の離れた初々しい命を、一刻でも永らえさせる為、私は指導に心血を注ぎ、ジノもまた真摯に報いた。
何時しか父親の心境というものを朧に解し、この胸の奥に、やわらかな日溜りを感じるようになった。
幾分早い午後の紅茶を用意したジノは、採点を。と含羞んで、先程の一切れが載った小皿を恭しく差し出した。
若干の戸惑いを覚えたが、両手の指を重ね合わせて一途に窺う可憐さに降参し、デザート・フォークを口に運んだ。
ふわりとした生地に包まれたクリームは控え目な甘さで、刻まれた果物の大きさに、女性達への親切な配慮を感じた。
瞬きもせずに見詰められ、穴が開く。と顔を綻ばせると、我に返って狼狽の色を浮かべ、居住まいを正した。
「とても美味しい。」
「本当?!良かった!!エルンスト卿から、甘過ぎるのは御好みではないと伺っていたので、心配だったんです!」
「ドロテアが?」
「……あ…、えっと…………ヴァルトシュタイン卿が午後のお茶会に御参加の折には、いつも優しい気遣いを……」
不思議に思って首を傾げると、仕舞ったとばかりに口許を両手で隠しつつも、秘密をちらりと漏らした。
内緒。と唇の前で人差し指を立ててウィンクしたが、明日にも帰国予定の彼女から、報告を受ける立場の私は―――。
長嘆して頬杖を突きかけた処に、新たな訪問客が執務室の扉を叩いた。
返事をすると、ヴァルキリエ隊のリーライナとマリーカがドア越しに顔を覗かせ、ソファで寛ぐジノを急かした。
「エニアグラム卿が御待ち兼ねです。どうぞお戻りください。」
「あの…待ち草臥れたルキアーノ様が、御仕置きなさると大変な剣幕です……」
後者に喫驚したジノは、もう一度丁寧に感謝の言葉を述べ、最初に持って来たケーキ皿を手にすると、慌しく退室した。
再び静けさを取り戻した部屋で、私は今度こそ頬杖を突き、忘れられた深緑のマントを見遣りながら、くすりと幸福を味わった。