02.

木漏れ日の午後

午後の紅茶が始まる凡そ一時間前に訪れた専用ラウンジには、未だ人影は見当たらず、私はほっとして、併設された奥の厨房に足を踏み入れ た。
士官候補生達を前にKMFの実演を行っていた為に、些か遅くなったものの、楽しいひとときに供する茶菓子を思案した。
モニカとの立ち話で、最近巷で評判のベイクドチーズケーキを買いに行くと聞き、本当は何も予定していなかった。
ヴァインベルグ卿は本日の手作りが無いと知って大層残念がり、え…。と絶句した後、忽ちしゅんとなって、青空色の目許を指先で拭う仕草を見せた。
定例会議に集った騎士達は狼狽し、開始を先延ばしして卿を慰め、皆の総意としてナイト・オブ・ワンより御用命を承った。
私は食材のストックと時計の針とを交互に見比べ、久し振りにダックワーズに挑戦しようと、オーブンを暖めた。





いつもの時間前にお茶会の準備が万端整い、あとは同輩達を待つばかりとなった私は、窓辺に配されたソファでゆったりと寛いだ。
やさしい春の陽射しが差し込み、そよ風に揺れる枝葉を眺めていると、多忙な日々の中で置き去りにしていた心が癒された。



束の間ひとり瞼を伏せて、贅沢な時の流れを堪能していたが、蝶番の軋る微かな音に振り返った。
静かに扉を閉じたヴァインベルグ卿は、自分が一番乗りと思っていた風で、此方を認めるなり、綺麗な瞳を僅かに見開いて立ち尽くした。
小さく開いた薄桃色の唇があどけなくて、二番手にそれ程衝撃を受けるとは…。とくすくす言えば、丸みの残る頬を赤らめ、首を左右に振った。

「違います!……その…エルンスト卿が、髪を解かれた処は初めてで……」

逆光の所為か眩しそうに目を細めて言い淀み、優雅な足取りで傍に寄ると、勧めたソファの隣に素直に腰掛けて、つくづくと髪型を眺めた。
普段は一つに編み込むのだが、如何せん先程まで騎乗していた私には、結い紐で耳上の髪を纏めるだけの余裕しかなかった。
幾つも歳の離れた若い騎士に熟視されて気恥ずかしくなり、私は肩に掛かる髪をぞんざいに両手で掴み、矢張り結び直そう。と苦笑した。

「とても素敵なのに、どうして?」
「卿は、御世辞が上手いな。」

不思議そうに首を傾げると、稚い子供の面影が垣間見え、可愛らしさに敢え無く屈して十指を緩めれば、ふんわりと微笑んだ。
日頃の快活な笑顔との差に思い掛けず瞠目し、丁寧に編まれた金糸へと話の矛先を逸らせて、動揺を誤魔化した。
父親譲りの眩い髪色は兄弟の中でも唯ひとりで、最愛の母親断っての願いを叶え、整える以外では、永らく鋏を入れていないのだと肩を竦めた。
幼い頃に、男装した少女と誤解された卿は大変羞恥し、襟足だけを伸ばす折衷案を採用して、現在の髪型に落ち着いたらしい。
後ろ髪は自身で結わえると聞き、目の細かな三つ編みに感心していると、何事か閃いて手を打ち、青い瞳を輝かせた。

「エルンスト卿、私に御髪を編ませて頂けませんか?」

唐突な申し出に一驚したが、お願い。と祈る様に両手を握り締めて強請られたのでは、誰しも頷かずにはいられない筈だと口許が綻んだ。
ヴァインベルグ卿は嬉々として手袋を取ると、私の背後に座り、少し躊躇いがちにリボンの結び目を解いた。

「わぁ…さらさら。……艶やかで、すごく綺麗だ…」
「卿になら、口説かれても厭な気はしないな。」

もう。と拗ねた声に、軍の内外を問わず、女性達から絶大な支持を受けるのも納得と、密かに笑みを零した。



耳上の髪を左右に分けて編み込んでいく、長い指の動きを感じながら、初めて菓子作りを教授した日の事を思い出していた。
何やら切羽詰った様子で執務室を訪れ、喫驚しつつも宥めて訳を聞くと、辿々しい口調で、ブラッドリー卿に所望されたと明かした。
無理難題を吹き掛けられたのだろうと勘繰ったが、自分の所為で体調を崩させ、強く責任を感じていると、伏せた長い睫毛を震わせた。
卿自身も其れの半分が我が儘と承知の上で、不慣れながら熱心に指示を仰ぎ、完璧な焦げ目のクレーム・ブリュレを仕上げた。
その後、騎士達の喫茶の準備を手伝ってくれる謝礼代わりに、腕磨きの力添えをするようになり、気付けば優秀な教え子になっていた。
女性の立場が無い。とノネットから苦言を呈され、難易度の高いものには手を出さないと、大真面目な顔で誓いを立て、皆を笑わせた。



俯いた背後でまた蝶番の音がして、紅茶の時間が気に掛かったが、ヴァインベルグ卿の髪結いは静かに続いた。
編み終えた髪の毛先を中央で緩く捻って丸め、程なく囁かれた、完成。の優しい一声に、ほっとして振り返り、愕然とした。
何時から其処に居たのか、卿の後ろには気配を絶った円卓の騎士達が、如何にも釘付けといった様子で佇んでいた。
ヴァルトシュタイン卿までもが言葉を失って、折角結ってくれたが、私には似合わなかったのだろうと、気不味さに居た堪れなかった。

「舞踏会の夜なら…ラスト・ダンスの相手に、私を選んで欲しい。」
「……え?」

見惚れてしまった。と深いグレーの右目が微笑み、私は揺れ動く密やかな恋心が、褐色の肌を淡く染めていくのを感じた。
社交辞令だと言い聞かせても、高鳴る胸は激しさを増すばかりで、戸惑って視線を逸らすと、ヴァインベルグ卿がそっと受け止めた。

「じゃあ、私は最初の曲を申し込もうかな……」
「年長者優先だ。一曲目は、私がお願いする。」
「だったら、ブラッドリー卿の次は僕だよね?」
「……私、ラスト・ダンスまで一緒がいい……」
「え、ちょ…アーニャ、私の順番は?」
「無視。」

6、7、10の騎士達は一歩も譲らず、不公平だと異議を申し立てたヴァインベルグ卿の声は、当然のように黙殺された。
ノネットとモニカは、傍に寄って結い髪の出来を褒めつつ、その後は大人の時間だな。と耳打ちして、余計に動悸を煽り立てた。
編まれた髪型が知りたくなり、制服の隠しに忍ばせた小さな手鏡を一瞥した私は、賑やかな談笑の中心にいる騎士に、胸の内で深く深く感謝した。





Fin.