マリーカ=ソレイシィの兄は、将来を嘱望される純血派の将校で、現在は遥か極東に赴任し、折に触れて妹宛に品々を贈った。
今し方も、小包というには幾分規格外な荷が届けられ、彼女は若干の困惑を浮かべつつ、きつく括られた紐を、銀色の鋏で切断した。
両隣を囲んで、興味津々に窺っていた同僚のリーライナとナイト・オブ・トゥエルヴは、化粧箱の蓋が開くと同時に、感嘆の声をあげた。
私は執務の筆を擱き、見事な枝振りに綻ぶ薄紅色と、添えられた手紙を熟読する年若い部下とを、自席からそっと眺めた。
数葉の便箋を大事そうに仕舞って、頬杖を突く視線に気付いた少女は、桃の花だそうです。とふんわり微笑んだ。
白魚のような指で、丁寧に枝葉を選り分けながら、女児の健やかな成長を祈願する異郷の年中行事を語った。
可憐な花の季節に因み、桃の節句と呼ばれる催しが、3月3日に定められていると聞き、私はくすりと肩を揺らした。
「ルキアーノ様?」
「3と桃から、思わず連想した……午後に帰還予定だったな。」
怪訝な面持ちで窺っていた三人は、返答から直ぐ様同じ人物を描いて、口々に半月振りの再会を待ち侘びた。
私は肘掛を離れ、甘い果実をこよなく愛す騎士に進呈しようと、マリーカから一枝を譲り受けた。
無論唯の気紛れに違いなかったが、二人の部下は淡く目許を染めて、お優しいのですね。と大袈裟な解釈を述べた。
片眉を上げて躱し、扉の小さな真鍮に手を掛けると、モニカ=クルシェフスキーは、おっとりとした調子で揶揄い半分の苦言を呈した。
「ご寵愛を賜るヴァインベルグ卿は、嫉妬を買いましょう。」
「些か飛躍し過ぎだ。」
「昔馴染みならば、仲睦まじいのも尤もですが……」
腐れ縁だ。と杞憂を鼻先で嗤い、鈍色の蝶番を軋らせた私は、愕然として佇む第三席の騎士に狼狽を禁じ得なかった。
パイロットスーツを纏った儘で、凱旋の報告に駆け付けるのが常だった。
ジノは戸を敲こうと握った手を緩め、一刹那睫毛を伏せて儚げな微笑を湛えると、託った書類をぎこちなく寄越した。
意図せず会話を立ち聞いた無作法を謝罪し、踵を返そうとする彼の腕を、私は咄嗟に掴んだ。
掛けるべき言葉を躊躇い、如何にか冷静な響きで名を囁くと、露を含んだ空色の瞳をゆっくり振り向けた。
「仔猫(キティ)……」
誤解だと訴えるより先に、華奢な人差し指を立てて制止され、私は彼を繋ぎ止めていた手をそっと離した。
微かに震える声で、暫く一人に。とだけ言い置き、歳下の幼馴染は、コツと靴底を逸らせて立ち去った。
私は遠ざかる後姿を見送りつつ、初めての峻拒という事実に気圧され、迷子さながら途方に暮れた。
背後で成り行きを窺っていた部下達は、憚りがちに後追いを進言したが、私は嘆息して自室の扉を潜った。
手渡された用箋に目を遣ると、先日起案した自らの文書と知れ、渦巻く苛立ちに任せ、思う様ソファに投げつけた。
リーライナとマリーカは、小さな悲鳴を上げて身を寄せ合い、私は同様に振り上げた切り枝を、黙して傍の卓上に置いた。
執務席に腰掛け、最前の短い遣り取りを回想してみたものの、過敏な反応に合点がいかず、猶更焦慮した。
机の木目を指先で叩きつつ思案する端で、ナイト・オブ・トゥエルヴは膝を折り、床に散らばった一枚一枚を拾い集めた。
長い金髪から垣間見える、俯けた細面には緊張が走り、言葉少なに淹れたての珈琲を差し出したマリーカは、小刻みに震えていた。
私は大人気無い態度を恥じ、組んだ十指に下顎を載せて、束の間、瞼に焼きついた悲しみの残像と対峙した。
白磁の受け皿に空の珈琲茶碗を戻して程なく、情報収集に躍起になっていた様子のリーライナが、沈痛な面持ちで舞い戻ってきた。
ともに指揮を執ったナイト・オブ・フォーに事情を打ち明けると、主席騎士に復命していた彼女は、忽ち柳眉を寄せた。
エルンスト卿は静かな語り口で、廃墟から負傷した民間人を救助したジノが、其の相手から“人殺し”と面罵された経緯を話した。
「極めて瑣末事だな。」
私は肩を竦めて、失笑を表した。
リーライナは僅かに言い淀んだが、罵倒の直後に喉を突いて自決を遂げたと、重々しい口調で報告を続けた。
同じ年頃の清楚な少女の返り血を浴びた英雄は、呼び掛けにも応じず、永らく呆然と立ち尽くしていた。
卿の迅速な判断で、事後処理を別部隊に託しての帰還だったが、動揺冷めやらぬ儘耳に挟んだ悪態は、一層自負心を傷つける結果となった。
傾聴していたナイト・オブ・ワンは、此れもまた軍人故の試練と、見守る心積もりを明かした。
ジノ=ヴァインベルグが軍籍に入った事由のひとつは、私の言葉足らずから生じた齟齬の所為だった。
図らずもKMF操作で才能を発揮し、士官学校を首席で卒業後、御意に適って騎士の最高位に就いたが、本来の性質から不向きと感じた。
騎乗中は仮想の遊戯感覚なのか、生身で当たると、申し分の無い技量を有しながら、後手に回る傾向が強かった。
秀でた身体能力が、辛くも彼の命を担保した。
配属後暫くは専用機の開発が優先されて、事務処理中心の安穏たる日々でいたものの、実地に赴くようになると、精神的な疲労を蓄積させた。
引き揚げてからも記憶した戦局が度々フラッシュバックされ、日中は平静を取り繕えても、陽が落ちると不眠に苛まれた。
有能な医師でもある彼の次兄は、深く憂えて幾許かの薬剤を処方したが、極限に達するまで服用を逡巡した。
幼い頃は、無灯火で一人寝するのを怖がり、夢見が悪いと強請って繋いだ手を、何時迄も離さなかった。
ラウンズに叙された年の瀬、宴席で足許の覚束無くなった彼に寝所を提供し、思い掛けない形で昔日の添い臥しが甦った。
爾来、帰還した当夜は、慄く軀をそっと褥に潜り込ませた。
薄灯りの中、躊躇いがちに捜し求めるしなやかな指先は、円卓の騎士とは想像し難い程か弱く、私は暗黙のうちに五指を絡めた。
―――仔猫(キティ)。
背の高い庭木から下りられなくなった猫の為に怪我を負い、ひとり涙を湛えていた子供を、密かにそう呼び馴らした。
今宵の微睡みには、最早……。
三度目の溜息を吐いて羽根ペンを執ると、部下達は喫驚して顔を見合わせた。
私が投げ散らした書類を元通りに揃えたナイト・オブ・トゥエルヴは、静々と執務机の前に歩み寄り、小声ながら先刻の言葉を詫びた。
たおやかな容貌の内に強い芯を持つ女性だったが、至近に佇む花の顔には、隔たりの素因を拵えた後悔が色濃く滲んでいた。
「不躾なお願いですが、どうかヴァインベルグ卿の御心を宥めて頂けませんか?」
「ルキアーノ様、私達からも是非お願いします!」
「とても悲しそうな御顔をなさっていました…早く誤解を解いて差し上げてください。」
私は頬杖を突いた手の先で唇を撫ぜつつ、各々の愁訴に耳を傾けた。
昔からの癖だと、日溜りのような微笑みで看破した幼馴染は、一人きりの部屋で、捨て猫のように泣き濡れているのだろうか…?
必要無い。と返して筆を走らせる私に、マリーカが果敢に重ねての嘆願をしようとしたが、リーライナに素早く制された。
モニカ=クルシェフスキーは分厚い紙束をきつく抱き締め、唇を噛んで沈黙した。
「恢復は時間の問題だ。」
「ルキアーノ様にとって、大切な御方ではないのですか?今頃きっと……」
「甘い囁きで敷布を掻き乱せとでも?生憎、慰めの作法など心得ていない。」
三人の麗しい少女達は途端に頬を染め、一様に俯いた。
如何に深い傷を受けようと、其れを糧とする聡明さを兼ね備え、彼の揺るぎない信念を裏打ちした。
曖昧な存在理由を持て余し、惰性で生きてきた私を跪かせた高潔さこそが、円卓の第三席に座する所以だった。
読了した部下からの報告書にサインをして、ふと目線を上げると、ナイト・オブ・トゥエルヴは金色の睫毛を弱々しく瞬いた。
文書を受け取ろうと掌を向けた私は、如何にも居た堪れなくなり、後程彼の許を往訪すると胸の内を明かした。
萎れ掛けていた彼女は書類を胸に抱いたまま、両の指先で口を覆い、つぶらな瞳を僅かに細めた。
リーライナとマリーカは手に手を取り合って喜び、矢張りヴァインベルグ卿にはお優しいのですね。と幾分腑に落ちない賛辞を呈した。
「慰藉の為ではないが…?」
優しさの定義を怪訝に思って首を傾げると、はしゃいでいた二人は忽ち静まり、トゥエルヴは戸惑いに眉宇を寄せた。
最早撤回は適わないが、戯れの揶揄に棘のある言葉で意趣返しをしたのは、私の咎に違いなかった。
謝罪の意向を仄めかしつつ、気掛かりから席を立った。
私は左手のグローヴを取り、同輩の白い頤を掬い上げて、狼狽するやわらかな唇を、親指の腹でそろりと掠めた。
「傷痕を残すには惜しい。」
淡紅色の移った指先にくちづけ、甘噛みを嗜めた。
幸い歯形は認められなかったが、彼が背を向けてからずっと、眦を潤ませていた。
私は彼女の華奢な肩先に手を置き、卿にまで泣かれては適わん。と密やかな本音を漏らした。
暴言を謝すると耳にした部下達は瞠目したが、憚って午後の羽根休めを辞退すると、其れ以上は口を噤んだ。
喫茶を楽しんで戻ったリーライナから、ジノもまた、空旅の疲れを理由に参加を控えたと聞き、哀しみを懸命に凌ぐ顔が思い出された。
睡眠はおろか、食事も碌に摂っていないだろうと、容易に想像がついた。
終業時間までに冷静さを取り戻さなければ、本邸で無事の帰りを待ち侘びている家族は、深く心を痛めるに違いなかった。
手持ちの仕事が片付いた時には、窓辺に朧な月光が射していた。
私は執務を見守り続けた銀無垢の懐中時計を蓋閉じ、春の一枝を奥のベッドルームへと運んだ。
身体に馴染んだ制服を脱ぎ捨て、黄金色の蛇口を捻ると、降り注ぐ温かな湯が、束の間総てを忘れさせた。
帰り支度を整えた私は、寝台の縁に掛け、脇机に置いた挿し花を眺めつつ、穏当な手立てを模索した。
此れ迄の半生で、深謝は言うに及ばず、誰かを慰撫した憶えも皆無に等しかった。
私は、最も気高い感情の本質を知らない。
其の所為で、八つも歳の離れた稚い子供を、手酷く傷つけた過去もあったが、蒼穹の瞳は終ぞ背けられなかった。
彼は何時も静かに寄り添い、微かな諍いの気配を敏感に察知しては、先んじて自ら折れ、此れの回避に努めた。
快活さの奥に潜む濃やかな気遣いで、絶えず私の矜持を貴び、一途に慕い続けた。
僅かも憚らず供される至純なやさしさを、私は恣に堪能した。
幼い心の枯渇を危惧するほど、麻薬のような激しい欲求に溺れ、彼が一個人として当然に抱える懊悩を看過し続けた。
気紛れに甘やかして、やわらかな微笑みを搾取する反面、小さな胸に秘められた渇望には、面映がって殆ど報いて来なかった。
我ながら辟易する狡猾さすら、深い慈しみで赦された。
不意に、あの木漏れ日の存在を失い掛けた記憶が巡り、謝罪とは大逸れた思い上がりだと、欺瞞を自嘲した。
私の核心を突き動かすのは、後にも先にも唯一人―――。
せめてもの慰めにと、花瓶から抜き取った枝の切り口を軽く拭い、寝室を後にした。
執務室の真鍮に手を掛けた私は、廊下に響く微かな溜息を耳にし、隔ての先に立つナイト・オブ・スリーを瞼の内に想った。
今朝方まで時間を巻き戻せるなら、掴んだ腕を容易く放したりせず、真摯に寛恕を請わねばならなかった。
蝶番がキィと鳴くと、来訪を告げるべきか迷っていた様子のジノ=ヴァインベルグは、緩く握った手をそっと引き込めた。
眼前の端正な顔立ちには煩悶の翳が窺え、私は自身の氾濫する遣る瀬無い感覚を後悔と認めて、内心舌打ちした。
彼は辿々しく立ち寄った経緯を口にしたが、もう一度吐息を落として拙い言い訳を諦め、眩い金髪をぞんざいに掻き上げた。
「…今夜も眠れそうになくて………傍に…居て欲しいんだ……」
俯けた長い睫毛を震わす騎士に、私は一刹那言葉を失った。
望めば望んだだけ、惜し気も無く慈愛を注ぎ続けた彼から、此れ程明瞭に求められた例は、長い交際の中でも稀だった。
私は平静を装い、何時もの様にクスと笑って、受け容れられるか否かと、不安に揺れている幼馴染を自室に招き入れた。
「随分と他人行儀だな。」
先に軀を翻した私は、左肩に彼がこつんと額を預けるのを、甘えの仕草だと理解した。
襟足を掠める柔らかな髪がくすぐったく、身を躱そうと試みたが、ジノは頭を小さく振って不承知を訴えた。
子供っぽい厭々を怪訝に思い、ちらり視線を振り向けると、見ないで…。とシャツの後身頃をきつく掴んだ。
脳裏に午前の拒絶が甦り、私は其れ以上何も出来ずに、唯々立ち尽くした。
「…………戦場で……非力な女性を…殺めたんだ…」
「違う。ジノ、お前が手に掛けた訳では無い。自刃だ。」
「罵声にたじろいで、咄嗟には止められなかった。」
鮮血を浴びたパイロットスーツは直ぐ様処分されたものの、彼の潔癖さが、自身を穢れた存在だと責め苛んだ。
どれだけの時間、冷たいシャワーに打たれても、生々しい赫の幻覚から解放されなかった。
「……厭われる罪深さを分かっていながら、此の部屋を訪れたけれど…会話を立ち聞いてしまった。」
「あの時の言葉は……戯れにせよ、配慮が足らなかった。」
「冗談だと納得出来たのに、受け流せなくて……君からの、慰めを求めていた傲慢に気付いたんだ…」
口籠もる彼の熱を帯びた吐息が、肩先を湿らせた。
涙の予感に振り返ると、喫驚して途端に軀を離し、踵を逸らせた。
身の丈は然程変わらない筈が、年端も行かない子供のような後姿だった。
私は慰藉の術に窮して、項垂れる白い燕尾服の背を、静かに抱き締めた。
堪え切れず、彼は嗚咽を漏らす唇を右手で覆い隠した。
遣り様を誤ったと狼狽し、ぎこちなく廻した腕を緩めると、ジノは解かれるのを惜しみ、怖ず怖ずと此方に向き直った。
悲しみの雫を湛えた青い瞳に、一瞬で心を惹きつけられた。
きつく握り締めた拳はグローヴを嵌めておらず、石鹸で幾度も洗った所為か、温もりを欠いていた。
其の折られた指のひとつひとつを丁寧に開き、彼の妄執を否定したが、切なく柳眉を寄せただけだった。
幼さの残る頬を新たな煌きが伝い、私はYou’re beautiful.と真実を囁いて、華奢な手の甲にくちづけた。
彼は瞠目して、素早く引き戻した手をもう一方で庇ったものの、同じ言葉を重ねると、漸う緊張をやわらげた。
「此処に…還る場所が在ると、赦されたかった……」
繊細な睫毛を濡らす嘆きの真珠を、指先で払い落とした。
斯うした場面で何を成すべきか要領を得ず、私は記憶を手繰り寄せ、昔日の彼に倣った。
同輩達が猫可愛がりと評するものの大抵が、経験則に依れない故の真似事を指した。
「…………御帰り。」
灼熱の羞恥を忍んで、そろりと白皙の頬を撫でた。
ジノは差し伸べた手首の内側に鼻先を摺り寄せ、密やかな香水の在り処を捉えると、胸に刻み付けるかの様に瞼を閉じた。
仔猫(キティ)…。と擦れ声で返した途端、彼の心は決壊し、袖口に縋り付いて涕泣した。
幼馴染が落ち着きを取り戻す迄の一時、私は黄金色の細い髪を、静かに静かに梳き続けた。
小半時ほど越えた辺りで、感情の昂ぶりが幾分治まると、大理石の床に落とした淡い切り枝に気付いた。
草花を慈しむ母の影響を受け、幼少の頃から造詣の深かった彼は、一目で其れを桃花と言い当てた。
未だ小鼻をぐずらせながらも、曰く、植物図鑑でしか御目に掛かれなかった可憐な色に、大層感興をそそられた体。
拾い上げて謹呈すると、僥倖を素直に喜んだが、ふと、花言葉を知っているのかと尋ねた。
疎い私は、不快な趣意を包含していまいか、胸騒ぎを覚えつつ、さて…?と小首を傾げて見せた。
「意味合いが悪ければ、冗談だ。と、断っておこう。」
「…逆の場合は、本気って事?」
「そう解釈して貰って結構だ。」
ナイト・オブ・スリーは優美な花弁を見詰めて沈黙したが、やがて耳朶まで仄かな薄紅色に染めて、ふわり含羞んだ。
片眉を上げる仕草で質すと、戸惑いがちな上目遣いで、桃の花が象徴する響きを伝えた。
―――貴方に夢中。
私は噴出し、舞台役者さながらの大仰さで左膝を折り、恭しく胸に手を当てて、煙る金髪の騎士に結婚を申し込んだ。
微かに潤みを留めた碧眼を悪戯気に瞬かせ、彼は永遠の愛を宣誓すると、自らの優美な薬指にくちづけた。
二人の距離に穏やかな空気が復し、ただいま。と囁くやわらかな木漏れ日の微笑が、私に幸福の真価をそっと啓示した。