05.

惜春

一週間掛かりで仕上げた報告書を提出した私は、ヴァルトシュタイン卿の執務室の扉を静かに閉じると、思い切り背伸びをした。
机に噛り付いていた間、すっかり凝り固まってしまった両肩を、トントンと叩いて達成感を味わいつつ、明日からの休暇に胸を躍らせた。
我ながら軽やかな足取りで、私室までを歩いていると、踵を響かせて先を行く、同じ白い制服の後姿が目に入った。
常に軀の軸を保つのは軍人としての基本だが、ナイト・オブ・スリーの所作は全般に優雅で、仮に暗闇でも、靴音だけで彼の人と知れた。
後ろから声を掛けて驚かせてやろうと、悪戯心に火が点いたものの、如何せんコンパスの長さが違い過ぎて、一向に追いつかない。
広い背中で小さく揺れている三つ編みが、何だか此方を挑発している様に見え、私はパンツ・スタイルを好い事に、俄然歩幅を広げた。
先輩騎士の誇りに懸けて…!と、威勢良く肩で風を切った直後、ヴァインベルグ卿は歩調を緩め、淑女らしからぬ足音を訝しげに振り返った。
彼は後方を認めるなり、忽ち人懐こい笑顔を浮かべ、私の子供っぽい戦意をすっかり喪失させた。



隣に並ぶと、さり気無く一歩の間隔を狭めてくれる気遣いを、何時も素直に嬉しいと思った。
行き先をラウンジと聞き、日頃、率先して喫茶の席を整えてくれる同輩のドロテアから、今し方遅れると託った私は瞠目した。
午後の休憩には未だ半時以上もあった筈と、時計を探す素振りに、支度を手伝う褒美として、大好きな白桃のムースを強請ったのだと含羞んだ。
時々並んで厨房に立つ二人は、姉弟のように睦まじく、心優しい卿ならば、事情を汲んで快諾すると容易に想像できた。
特典は勿論感謝の表れであろうが、快活な中にも慎み深さを併せ持つ騎士を、ほんの少し甘やかしたい気持ちも窺えた。
協力を申し出たものの、幼さの残る頬を左右に何度と振って遠慮され、その頑なな態度にわざと傷ついた顔をすると、慌てて首肯した。





ドロテアに見込まれるのも納得の手際良さで、ヴァインベルグ卿は瞬く間に席を拵え、碌に貢献出来なかった私を、窓際のソファに座らせた。
いそいそと奥のキッチンに駆け込んだかと思うと、銀色の小さなトレイに、彩り鮮やかな果実を添えたプリンカップを二つ載せ、戻ってきた。
慰労の言葉と共に一つを差し出されたが、自分が見合うだけの働きをしたとは言い難く、受け取りを躊躇った。
彼は柳眉を寄せ、いただきます。と握ったスプーンをそっと擱いて、医務官宜しく私の健康状態を仔細に尋ねた。
質疑応答の末に、問題無しとの所見に辿り着いたナイト・オブ・スリーは、天啓でも閃いたかの如く、ダイエット…?と小首を傾げた。
可憐な仕草に顔を綻ばせたのを、肯定と誤解されたようで、大のお気に入りを自身も諦めると萎れ、名残惜しげに硝子皿を盆に戻した。
理屈が分からず目を丸くする私に、甘味を頂戴する時は連帯責任を負うものと、若い女性騎士達の入れ知恵を打ち明けた。

「あの…エニアグラム卿……女性のやわらかなシルエットは、とても素敵だと思うのですが…?」

上目遣いに精一杯言葉を選ぶ様子が健気で、私は、同感だ。とつくづく頷き、冷たいデザートをひと匙掬って口にした。





他の騎士達が羽根休めに集うまで、我々は他愛無い話に時折くすくすと零し、麗らかな午後を楽しんだ。
二人だけで時間を過ごすのは、何時以来だろうかと思いを巡らせつつ、私は改めてヴァインベルグ卿を眺めた。
絵本に登場する王子様さながらの、すらりと均衡の取れた体躯に、煙る金髪と輝石にも似た空色の瞳が、数多の乙女心を細波立てた。

「貴卿は、ハンサムだな。」

率直に感想を述べると、彼は耳朶まで染めて口籠もり、照れ隠しにティー・カップを傾けた。
今迄にも同様の褒め言葉を呈したが、その度に恥らって謙遜する人柄をこそ、私は好ましく感じた。

「揶揄わないでください。」
「私の審美眼を疑うのか?」

じっと見詰められたまま言下に反撃された卿は、一層頬を赤らめ、か細い声で、…ありがとう。と賛辞に応えた。
いじらしくて、つい構いたくなるが、あまり困惑させるのも可哀想に思い、話題の矛先をナイト・オブ・セブンへと転じた。
ラウンズの地位を得たとは言え、今猶偏見の絶えない枢木卿は、初対面から当然のように警戒心が強かった。
古参者達も出方を窺っていた為に、打ち解ける切っ掛けを掴み損ねた観の彼を、第三席が仲立ちし、騎士団は漸う調和を取り戻したという経緯があった。
雰囲気に馴染んでくるにつれ、年齢の割に幼顔な枢木卿もまた、女性達から人気を博した。
最近耳にした噂を話すと、隅に置けない。と彼は片眉を上げたものの、青い双眸には優しい微笑を湛えた。

「鉄壁で覆われた枢木卿の心を、如何やって開かせたのか、ひと頃不思議がったものだ。」
「私は何も…。彼に元々備わっていた気質でしょう。」
「尤も、気難しいブラッドリー卿と親交が深いと聞いた時は、その比では無かったが……」
「出逢った当時、私は十になる前の子供でしたから、それはそれは口説くのに懸命で。もう、七度目の春を迎えると思うと、感慨深いです。」
「互いに、得難い存在なのだろう。」

ナイト・オブ・テンの男振りも高評価を得ていたが、冷淡さが際立つ複雑な内面に、誰もが容易には近付けず、却って憧憬を集めた。
きょとんと瞬く彼は、ブラッドリー卿なりの密かな猫可愛がりに気付いていない様子で、大人の対応に感謝している。と、長い睫毛を俯けた。



廊下で見掛けた時から、何処か精彩に欠けると感じていた。
十番目の騎士が話題に上った途端、面差しに微かな憂いを滲ませ、華奢な中指でそろりと唇を撫ぜた。
些か逡巡しながらも訳を尋ねると、昨日までは確かに在った愛用のリップバームが、今朝になって見当たらず、危うく遅刻し掛けたのだと嘆息した。
それは、彼が円卓の騎士に名を連ねて最初の誕生日に、ナイト・オブ・テンから贈られた、特別誂えの品だった。
意外性に驚いたが、幼少期は肌が弱く、屋敷に籠もりがちで大変な人見知りだったと聞き、年上の幼馴染の濃やかな気遣いを知った。
使い切る度、同じ物を貰い受けていた筈で、二人の間柄から不興を買う恐れは皆無に等しく、私は正直に打ち明けるよう進言した。
自身の不注意を心苦しく思っている風だったが、唇も胸も痛める。と諭すと、暫く考え込んだ後、こくりと頷いた。





しかしながら、ヴァインベルグ卿が本来の調子に戻る気配は見受けられず、再び端正な顔立ちを前にした私は、ふと薄紅色の口許に目を留めた。

「結局、今日は何の手入れもして来なかったのか?」
「探すのに必死だったから……」

今は乾燥に加え、紫外線からのダメージも無視出来ない季節。
私は微苦笑する彼に断り、一旦ラウンジを後にすると、自分でも驚嘆する速さで、執務室までの距離を駆けた。



少々乱暴に自室の扉を潜って、中央に置かれた机の抽斗を開けた。
先日、モニカと出掛けた際に衝動買いしたリップスティックは、未だ封切られておらず、彼の急場凌ぎにはなるだろう。
見た目の愛らしさに惹かれて購入したが、甘やかな果実の香りを幸いと、ひとり笑みを零した。



留守を任された子のように、心細げな顔で帰りを待っていたヴァインベルグ卿は、ただいま。の知らせを聞いて、ふわり頬を緩めた。
取り敢えずと差し出した掌の小物を見て、彼は、え…?と幾分面喰った。
化粧品会社の戦略で、一見しただけではルージュと区別がつかず、卿は説明に耳を傾けながら、怪訝に蓋を取った。
底を少しだけ回転させると、意を決して、淡紅色の尖端を宛がおうとしたが、クレヨンでも握るかの覚束無い手付き。
思わず噴出す私に、上手な遣り方が分からない。と気恥ずかしそうに肩を竦め、小さな容れ物を寄越した。
首を傾げると、彼は背筋を伸ばして両手を行儀良く膝に置き、頤を微かに上向けて、伏し目がちに、…お願い。と囁いた。
くちづけを強請るような仕草に激しく狼狽したが、無防備な唇の薄皮が剥がれるのも、居た堪れなかった。
腰掛けても身長差は相変わらずで、やむを得ずソファに両膝立てしようとした私は、ふかふかのクッションの上でよろめいた。
おっと。と咄嗟に手を添えて呉れたものの、二人の間隙が一気に消え、煌く碧眼に至近距離で見詰められて、胸の高鳴りを感じた。
平静を装い、続ける気配を見せたが、卿は私の腰を支えたまま、瞳を逸らさなかった。

「…………唇…、薄く開いて…」

大人しく言葉に従う彼の下顎を、そっと掬う指が震えていた。
気付いていない振りで、繊細な黄金色の睫毛を俯ける優しさに、密かな溜息が落ちた。
蠱惑的な輪郭を丁寧に辿って潤すと、完熟した水蜜桃の匂いが仄かに漂い、卿はゆっくり上目遣いに此方を窺った。
後は自分で。と蓋を嵌めて手渡したが、するりと制服の隠しに戻され、私は瞬きした。

「エニアグラム卿でないと厭だ。と言ったら…我儘ですか?」

含羞む騎士の言葉に、眩暈を覚えた。





やがて午後の紅茶が始まり、彼は隣に座るナイト・オブ・テンから、小さなアルミ製のケースを受け取った。
昨日訪れた卿の執務室で発見されたリップバームに、探していたんだ。と、安堵の胸を撫で下ろした。
彼は大事そうに愛用の品を眺めていたが、先程と同様に、贈り主の制服にそっと仕舞い、片目を眇めた。

「帰り迄、預かって呉れないか?」

ブラッドリー卿は如何にも腑に落ちない様子で、静かに紅茶茶碗を傾けると、やれやれ。とだけ漏らして、その願いを叶えた。
斜め前の席に居た私は、眩い金髪の貴公子が、ほっそりとした中指にくちづける姿を、穏やかな春陽のストロボで瞼に焼き付けた。





Fin.