03. dolceU

内輪の音楽会だから平服で構わないと聞き、俺はダークスーツに袖を通した。
賭けチェスを止めてから、礼服の類は殆ど着なくなった。
その所為で、元から苦手だったネクタイを上手く結べずに苛々していると、ジノから電話が掛かった。

「お迎えにあがりました。準備は出来ましたか?」
「もう少しだ。悪いが玄関を開けるから、中で待っていてくれないか?」
「今、先輩の部屋ですか?」
「そうだが……?」
「開けるのは、その窓の鍵で結構です。」

不思議に思いながら窓を開けて階下に目を遣ると、携帯電話を耳に宛がったスーツ姿のジノが此方を見上げていた。
完璧な着こなしに、溜息が出る。

「では、お邪魔します。」
「え?おい、」

ジノは此方が話し終えるのも待たずに、数歩分の助走を付けてクラブハウス脇の巨木を一気に駆け上がり、呆気に取られている俺の部屋のバルコニーに、コツと 靴音を落とした。

「こんばんは。」

にっこりと笑って携帯を内ポケットに仕舞うジノに、俺は二の句が継げなかった。
ストレートチップには傷一つ無いなんて、信じ難い話だ。
モンタギューの息子がこんな風に颯爽と現れたら、ジュリエットだって腰を抜かすだろうと思った。
スザクが連射される弾丸を避けて走ったのにも度肝を抜かれたが、今夜のジノも負けず劣らず。
しかも平然とこんな処から出入りするなんて、ナイト・オブ・ラウンズと言うよりは……。

「……まるで吸血鬼みたいだな。インバネスを羽織れば、完璧だ。」

そう言うと、ジノは首を傾げて、吸血鬼なら知り合いに一人いるけど……。と不穏な交友関係を口にした。
そして、仕損じて首に掛かったままのネクタイに目を留めると、俺の背後から包み込むように両手を伸ばして、その端を緩く引いた。
驚いて咄嗟に振り返ると、右肩から手元を覗き込んでいた蒼穹の瞳を、間近に捉えた。
左の指先で優しく顎を前に向けさせて、ジノは器用に結び目を作り始めた。
姿見に写る二人は正しく吸血行為に及んでいるかの様で、長身を屈めている所為で首筋に触れる柔らかな金髪に、眩暈がしそうだ。
衣擦れの音が鼓膜に響く。

「如何ですか?」

耳元で囁かれて、俺は伏せていた視線をぎこちなく鏡に戻した。
胸元には、難解な手順を踏まねばならぬ代わりに、型崩れしにくいウィンザーノットが結われていて、ジノの気遣いを感じた。

「……助かった。」
「お役に立てて何よりです。」

微笑んでジノが離れると、我知らず息を吐いた。





行き先を尋ねると、ヴァインベルグ家が出資している劇場のお披露目です。と退屈そうに返事した。

「エスコートする相手を間違えているぞ。こういう場合は、女性同伴ではないのか?」

ジノの交際範囲の広さを思えば、内々の催しとはいえ、同性の友人よりも恋人や親しい間柄の女性を選択できた筈だ。
思っていた以上にフォーマルな場に連れて来られて狼狽したが、今更引き返す訳にもいかず、せめてジノの評判を落とさぬよう振舞わねばと思った。

「この場所に一緒に来たかっただけで、本当の事を言うと、パーティーはどうでも良いんです。」

恭しく車のドアが開かれると、そう言いながらジノは俺の手を取って降ろした。
瀟洒な劇場の隣には、同じ様式のホテルが対となって建っていた。
次々に流れ込む車の殆どはそちらに横付けし、着飾った人々は夜会の後に宿泊するらしかった。
案内された会場の中は、およそプレス非公開とは思えないほど盛況だった。
主役であるオーケストラが壇上に登っているおかげで、ピットの場所を譲ってはいたが、キャパシティに余裕はなさそうだ。
華やかな社交の場から遠ざかって久しい俺は、少し離れた場所でその雰囲気を楽しんだ。
ジノは主催者と親しげに挨拶を交わしていたが、あっという間に取り巻きに囲まれてしまった。
名家の出だと、気苦労が絶えないだろうと同情する。



熱気に当てられたか、俺は些か息苦しさを感じて、人集りの中にいるジノを一瞥してテラスに出た。
夜風が頬を撫で、俺は静かに音楽に耳を傾けた。
聞こえてきたピアノ曲の小品は、俺が手解きを受けた子どもの頃を思い出させた。

「一人にさせてしまって、ごめんなさい…。」

閉じていた目を開くと、漸く逃れられた様子のジノが傍に居た。

「気にするな。ちょっと人に酔っただけだ。」

飲むようにと渡されたミネラルウォーターは、沁み入る冷たさだった。
ジノは心配そうな顔で俺の前髪を払い、真っ白なハンカチで額を拭った。
それが屈折した甘えの表現なのかと首を捻りたくなる程、ジノは俺に手を掛ける。

「過保護だな。」
「どういたしまして。」

事も無げに、肩を竦めた。