俺たちは歓談する人波を潜り抜け、最上階に設けられたプライベートラウンジに落ち着いた。
その部屋はルーフの一部が硝子張りになっていて、ジノは、これを見せたかった。と天上の星を指した。
ソファに寄り掛かって星空を眺めていると、ノックの音に続いて接待係が入室し、喫茶のために卓上を整えて退いた。
淹れたてのエスプレッソの横に置かれたケーキを見て、俺は思い当たった。
ジノが振られたら、俺がティラミスを用意して生徒会主催で失恋パーティーを開いてやる、と冗談で言ったのだが。
今それが目の前にあるという事は、つまり……告白は駄目、だったのか…。
昼間は初めての電話に驚いたが、仕事が跳ねて直ぐに本国から来る程、傷心していたとは見抜けなかった。
此処に来る時も普段どおりに見えたが、それと気付かせないように、虚勢を張っていたのだろうか。
いつもと違っていた事と言えば、今日は少し俺の世話を焼き過ぎると感じたくらいだが……。
ネクタイを結んだり、車から降りる時にわざわざ手を貸したり、さっきもハンカチで額を拭いたり。
そう考えると、相手に構うことで精神の充足を図っているとの見立ては、あながち間違いではなさそうだ。
恋と一緒に多少の自信も失って……今日の過剰なスキンシップは多分、それだ。
俺は年長者として、心を砕いて慰める役回りを買って出ようと決意した。
「ジノ……」
頭の中で掛けるべき言葉を選んで、俺は隣でデミタスカップを傾けているジノに向き合った。
スカイブルーの瞳が瞬いて、ふわり、木漏れ日のように微笑んだ。
「その…お前は顔立ちも整っているし、背も高くて、運動神経も抜群で、明朗快活で優しい上にさり気なく心配りも出来る。家柄や肩書きを差し引いても、十分
に魅力的だ。だから、お前の事をよく理解してくれる素敵な人が必ず現れて、その人と倖せを手に出来る筈だ。絶対に。」
ジノはきょとんとした顔で聞いていたが、俺が淀みなく言い終えたところで、……絶対?と口を開いた。
透かさず、そうだ。と頷いて見せたが、怪訝な表情。
「知らないのか?運命の赤い糸は長くて絡まり易いから、辿り着くのに多少時間は掛かるが、絶対に切れたりしない。」
為たり顔で話すと、ジノは口元を緩めて仰々しく畏まった。
「失礼ながら先輩はリアリストだと思っていたので、まさか恋愛についてご高説を承るとは……。」
少しでも早く失恋の痛手から恢復できる様、わざと浪漫主義的な体を取ると、直ぐさま軽妙な意趣返し。
ジノは、聡い。
「粗略に扱っていると、案外糸が短くて、もう傍に居るかもしれないぞ。」
「え……」
俺は立てた小指を眺めたが、そこから垂れた目に見えぬ糸の行き先は、神のみぞ知るところだ。
「運命なら、髪の先が触れただけで、胸が高鳴るような人だ。」
自分の恋を密かに例えて、俺は教授を終えた。
何やら考え込んでいたジノは頬杖を付いたまま、左手に持ったフォークの先に一口大に切ったケーキを載せると、俺に差し出した。
俺は自分の説を立証すべく、顔を近づけて素直にそれを含んだ。
美味しいですか?と尋ねられ、首肯すると、ジノはとても満足した様子で目を細めた。
間違いない。
ジノは寛容される事によって、抑鬱から脱しようとしている。
今夜の俺のミッションは、ジノの望みを従順に叶えてやるだけだ。
条件は、クリア。
「食べさせて。」
お易い御用だ。
持っていたフォークを渡され、俺がティラミスを小さく切って口に運んでやると、ジノは上品にそれを食した。
感情を素直に出すタイプだと思っていたが、案外複雑なのかもしれない。
「立ち直るには、時間が掛かりそうか?」
少しだけ心配になって問い掛けると、ジノは相変わらず頬杖を突いたまま、くすりと笑った。
「先輩、俺が振られたと思っているでしょう?」
「違うのか?!」
前提を覆された事に驚愕して訊き返すと、ジノは、生憎ですが、まだ。と答えた。
俺は首を捻った。
ティラミスは直訳すると『私を引っ張り上げて。』だ。
転じて『私を元気づけて』の意味だから、あの日の会話からすると、少なくとも今このケーキを食べる必要は無い訳だが……。
「だったら、どうして……?」
手にした小皿に目を落として言うと、ジノは溜息を吐いて身体を起こした。
「このケーキには幾つか意味があって、一つは先輩が思っている通りです。」
「落ち込んでいる相手に元気を分ける、という趣意だ。」
「そう。沈んでいる私を元気にして。嬉しい気分にさせて。幸せにして。そして……それを拡大解釈すると、」
―――『私を恋人と呼んで。』
「え?」
ジノは愕然としている俺の手からフォークを取ると、再びティラミスを此方に差し出した。
意味は分かったが、意図が掴めない。
ジノにふざけている風情はないが、取り立てて真摯な雰囲気でもなく、迷った挙句に俺はおずおずと口を開いた。
選択は正しかったらしく、ジノはやはり満足気な顔をした。
柔らかなスポンジを咀嚼しながら、俺はジノの今日一日の言動を考察してみる。
『構う=甘えの欲求』の方式に則ると、現時点で俺に手数を掛ける理由が見当たらない。
しかし、この前条件が失恋で無いなら、仕事で何か失敗したか家族間でのトラブル、知人関係……。
そもそもジノは、直接口に出して言うことは滅多に無いが、俺の世話を焼きたがる様な節がある…し、実際焼いている。
アーニャと居る時を思い起せばレディファーストが信条なのは間違いないが、深窓の令嬢でもあるまいし。
体格差は認めるが、俺だって人並みに男子としての自尊心を持ち合わせている。
ネクタイはまだしも、車の乗り降りやハンカチで額を拭いたり、ケーキを食べさせたり、あまりに大仰だ。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
暫し沈思黙考していたが、付いていますよ。と緩く曲げた人差し指で口元を清められた瞬間、俺は天啓に打たれた。
―――もしや、全部単なる子ども扱いでは…。
指先でココアパウダーを払う顔に、大人びた余裕がちらと見えた気がした。
くそ、舐めた真似を……!
俺は羞恥と憤慨の腹癒せに、目の前の長い指を噛んだ。
上等だ。
片眉を上げて挑発すると、ジノの視線が僅かに傾いだ。
口腔に広がる甘味が余計に癪で、舌先で拭い取って嚥下し、ギリリと力を加えた。
だが、伏せ気味の睫毛から見える瞳が徐々に苦悶の色を滲ませていくのを認め、甘噛みの範囲内に加減しているつもりだった俺は慌てた。
ジノの性質から俺の事が心許無く感じられたとしても、貶める様な真似を戯れにもする筈が無いと思い至り、俺は立てた歯を離して顎の力を抜いた。
指の噛み痕を見て、ジノは長嘆した。
「先輩。ティラミスは、発音の仕方や場合によっては誤解を招く恐れがありますから、気を付けてください。」
「誤解?」
「ええ。直訳はご存知ですか?」
「『私を引っ張り上げて。』ではないのか?」
「その通りです。気を付けて頂きたいのは『上げる』という言葉です。」
「……?」
「ものを『下から上へ移動させる』動作ですが、この場合の『上』とは『階上』を指すんです。」
「『階上』?」
「…………『私を上の階へ連れて行って。』……誘惑する大人の表現です。」
ジノの説明に、俺は文字通り絶句した。
人を元気づける菓子にそんな意味があるとも知らず、俺は失恋したら饗応してやると口にした。
傷ついた友人を誘惑など毫も及ぶ筈は無いと分かるだろうが、あの時、揶揄と受け取られた可能性は否めない。
悪辣だ。
俺は浅学を恥じた。
「ジノ、そんなつもりでは……」
続きを言わせまいと、ジノは噛まれた人差し指を唇の前に立てた。
「残念ながら、此処は最上階。連れて行ってあげられなくて、申し訳ない。」
先輩のエッチ。とジノは俺の鼻先を優しく小突いた。
その明るさが、いつもいつも俺の心を強く掴んで離さない。