03. dolceX

お前が本気だと思わなかった。と正直に言うと、ジノは抱えたクッションに顔を埋めて、やっぱり…。と吐息を漏らした。

「先輩、あんまりです。あれだけ直球で挑んでいたのに……好い加減、気付いてよ。」
「さあな。普通は社交辞令だと思うだろう?お前の『好き』は、美味しい菓子や気に入った音楽と同列だ。」
「酷い。」
「言葉を安売りするからだ。」

体育座りをして、だって…。とクッションの端をぎゅっと握る姿は、恋煩いしている令嬢方にはとても見せられない様だ。
俺を遣り込めたのは、奇跡だなんて言うなよ。

「女生徒達に取り囲まれて、楽しげにお喋りしているのがお前の日常の風景だ。その延長だと思った俺が悪いとでも?」
「……それって、妬きもち。」

俺は金髪の後頭部を力の限り殴った。
クッションに突っ伏したジノは、涙目になりながら、やっぱり…。と、もう一度洩らした。

「名誉のために言わせて貰うけど、先輩以外の人には言ってない。」
「……え?」
「最初は真面目に気持ちを伝えたつもりだったのに、全然通じなかった。脈が無いのかと思えば、別に嫌がる素振りも見せないし。先輩は、罪作りです。」

最初が何時だったかなんて、思い出せなかった。
ジノは俺を見つけると、いつも笑顔で駆け寄ってきて……。
挨拶代わりに言っていると思っていたから、淡い期待を過ぎた願いだと戒めて、俺は先輩としての立ち位置を死守した。
ジノの慧眼から今日まで免れることが出来たのは、不断の努力の賜物だ。

「とんだ擦れ違いだ。」

苦笑して、俺は温かいカップを手に取った。

「大体、好きでもない人を抱くわけ無いでしょう?」
「抱く?!」

飲みかけた珈琲を、危うく零すところだった。
不埒な言葉に愕然としてジノを窺うと、憶えていないの?と意味深な声音で返され、今度は俺がクッションに頭を埋めた。
憶えてないって、何の話だ?
『抱く』って、まさか……。

「あの時、貴方は……」

ジノが真剣な時は、一人称が『私』に戻り、相手を『貴方』と呼ぶ。
俺は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。

「私の腕の中で震えていた。本当は怖いのに強がって、平気な振りをして……私の肩を掴んでいたけど、堪え切れずに息を呑んで……怯えて、瞳が潤んでい た。」

嘘……だ、ろう?
そんな事……記憶に無いぞ。
まさか、あの夜?!
俺はとても疲れていて、眠りに誘われるまま直ぐにベッドに入った筈だ。
ジノはゆっくりと足を組み直して肘掛に頬杖を突くと、記憶を辿るように少しだけ目を細めた。

「反射的に身を寄せて、縋り付く様に私の首に腕を伸ばした。項に纏わり付いた黒髪が、とても艶やかだった。強く支えていないと崩れ落ちそうになって……」
「ジ、ジノ……それは、あの雨の日の…話、なのか?」

こくりと頷くのを見て、俺は死刑宣告でも受けた気分だった。
語られる内容に、羞恥を通り越して憤死しそうだ。
全く憶えていないが、ジノの話からすると多分、無理矢理とかではなく…合意の上で……そん、な…俺が?
立ち直れない……こういう事は、その、きちんと順序を踏むべきだろう、普通。
打ちひしがれた俺の耳に、ジノの声が聞こえた。

「もう、忘れたの?この間の雨の日の……」

そう、あの雨の日だ。

「帰りの、傘の中での話ですけど。」

顔を上げると、為てやったりと舌を出したジノが居て、当然ながら俺は持っていたクッションを投げつけた。
くそっ、ふざけるにも程がある!

「あれは『抱っこ』だ!適切な言葉を選べ!!」
「同じじゃん……」
「何が“じゃん”だ、馬鹿者!大違いだ!!お前の話だけ聞くと、俺の貞操観念どころか貞操そのものが疑われる!!!」
「何で?」
「何でって……お前が、だ、抱……く、とか言うから…」

堪え切れずにジノが噴き出して、俺は自分が真っ赤な顔をしているのが分かった。
くそ。
今度また雷が鳴ったら、避雷針としてクラブハウスの前に立たせて、電気療法を受けさせてやる。
ジノは肩を揺すって笑いながら、本当に罪な人。と呟いた。

「特別な意図はなかったけど、あれも先輩限定。他の男を、えっと…抱っこ?なんてしません。重病人とかなら兎も角。」
「本当に考え無しにあんな事をしたのか?」
「勿論。困っている先輩を見て、抱きたいなんて下心、男が廃るって話です。」
「抱くって言うな、抱っこだ。」

頼むから、そこは学習してくれ。
はいはい。と面倒臭そうな返事に、俺は一縷の望みを託した。

「だけどお前……スザクには、するじゃないか。」

仲の良い同僚だからか、スザクと居る時はいつも肩に手を回したり、頭を撫でたり……。
スザクはそれを気にしている風でもなくて、だから、俺は二人がもっと深い間柄だと、ずっと思っていた。
入り込める隙も無いくらい親密で、まるで……。

「……ねぇ。それって、妬きもち?」

はっと我に返ると、ジノが喜色満面で此方を見ていた。

「どうぞお構いなく。むしろ、どんどんやれ。」

俺の仕返しに、むぅと頬を膨らませるのが、ちょっと可愛い。

「先輩にするのとは、ちょっと意味が違うんだけどなぁ。スザクは同じラウンズだし、大事な友達なんだ。だから、見咎めないで。」

お願い。と手を合わせられては、首を横に振れるわけも無くて苦笑した。

「違いがさっぱり分からん。」
「先輩のは、そうだなぁ……有り体に言うと…」
「ん?」
「生理的欲求。」

エスプレッソが喉の奥で逆流して、俺は盛大に咽た。





日付が変わる前に。と、ジノは俺を送り届けてくれた。
門前で車から降りる時にまた手を取られ、やはり度が過ぎていると思った。
これも『生理的欲求』か?
それとなく諭そうとしたら、癖。という単純な一言を返された。
子ども扱いは御免だ。と睨むと、何やら合点した様子で、ああ、それで。と手を打った。

「だから、怒って指を噛んだんですね?」
「ケーキを食べさせられた挙句に、口まで拭われては、年上として面子が立たん。」
「でも、先輩も食べさせてくれたでしょう?ファーストバイトみたいで、感慨無量でした。」
「あれは、あのケーキが慰めて欲しいというメッセージだと思って……」
「へぇ。慰める、ね。」
「いやらしい言い方をするな!」
「先輩こそ!」
「俺がふしだらだとでも言うのか?!」

やれやれと洩らしたジノの顔に、そ・う・で・す・よ。と書いてある。
どういう事だと考えあぐねていると、眉を顰めたジノが、他の人には絶対しないでくださいね。と念を押した。

「あんな扇情的な仕草……。」

口元を覆ったまま、理性が吹き飛ぶかと思った。と呟くジノを見て、俺は納得がいかないながらも頷いた。

「大体、お前がティラミスを用意したりするからだ。」
「先輩……実は、違うんです。あれはバトラーが勝手にサーブしたもので、俺が頼んだわけじゃないんです。」
「何?!」
「その…支配人にお気に入りのパティスリーを紹介したら、いつも御相伴に預かるようになって……」

俺は自分がとんでもない読み違いをしていた事を知って、驚愕した。
目の前が真っ白になった俺に、でも、嬉しかったけど。とジノが笑った。

「おかげで先輩が、えっと……、何て言ったっけ?
顔が良くて、足が長くて、ジェントルで、リッチで、超お買い得なナイト・オブ・スリーの俺の事を気に入ってくれているのが分かったし。」
「端折り過ぎて大意が掴めないぞ。」

長い台詞が言えて得意気な顔をするジノに、俺は笑みを零した。



クラブハウスに着くと、ジノは、あ。と何かを思い出して、少し改まった。
怪訝に見上げた俺の左頬に、唇が軽く触れ、おやすみなさい。と微笑むと、そのまま踵を返した。
俺は小さくなっていく後姿を、大切にずっと見届けた。
夜道に落ちた影が何処までも伸びて、ただそれだけで幸福だった。