白皙の頬を淡い桜色に染めた先輩は、紅茶を淹れ直すと言い置いて席を離れた。
覚束無い足取りで奥に消えると、程なく不穏な物音と狼狽する声が聞こえ、憚りながらも我々はクスと笑みを零した。
心配になったが、みんなで押し掛けては余計に動転し兼ねず、代表してシャーリー先輩が様子を窺いに行った。
どんな会話が交わされたのか、支度する手際良い気配に、落ち着きを取り戻したと了解した。
「ジノは大人ね……」
「そんな事無いさ。」
差し向かいに腰掛けたミレイは、組んだ両手の上に顎を載せ、感嘆の声を漏らした。
私の打ち消しの言葉に、リヴァル先輩と顔を見合わせたが、二人して目許に仄かな微笑を浮かべた。
おめでとう。と素直に喜んで、それでお終いに出来ていたなら、或いは自身を誇れたかもしれない。
絶望感から心が激しく軋み、大人の作法など到底及びもしなかった。
説明を促されるまで続いた長い沈黙は、揺るぎない意思の表れのようで、横顔を瞥見する事さえ躊躇われた。
最早手遅れなのかと、私は密かに唇を噛んだ。
事の次第が明かされるに連れ、思慮深さに基づく行為だったと解釈したが、先輩は矛盾する感情に翻弄されていた。
相手の気持ちを総て知りたがるような、尊大で幼稚な真似をするつもりは毛頭無い。
互いに傷ついた……、その事実だけで充分だった。
先輩は潔癖な良心の呵責にひと月以上も苦しみ、私は過日の軽率な振る舞いを悔いた。
優しい気遣いから生じた小さな齟齬と、終止符を打っても咎められない筈だった。
短い言葉を伝えるだけなのに、華奢な軀を震わせ、私の心を一層掻き立てた。
―――ジノだけを……、想っていた。
熱い吐息が左の鼓膜を悪戯にくすぐり、片恋に焦がれる相手は世界中で唯一人と、蜜の囁きを返した。
奥の部屋から焼き菓子の香ばしい匂いがして、私達三人は至福のティー・タイムを予感した。
優雅に紅茶を楽しもうとした先輩だったが、耳打ちの内容を尋ねられると、激しく噎せた。
ミレイの無邪気で容赦ない追求にすっかり平静を失い、懸命に取り繕おうとする様子が尚更感興をそそった。
湛えた薄紅色が可憐で、甘い意趣返しの秘密を永遠に願った。
「……あ。」
「どうしたんだ?」
思い掛けず零れた声は、微かにしか聞こえなかった筈だが、先輩は心配そうに小首を傾げた。
少し過敏になっているのか、大事無いと頭を振って見せても、瞳の奥が揺らめいていた。
「先輩と自分の誕生日の事を考えていたら、同い年の期間が一週間あったのに気付いて。……惜しい事をしたな、と。」
「……それは、すまなかった……」
先輩がしゅんと肩を落とすと、テーブルは忽ち重苦しい雰囲気に包まれ、私は狼狽えた。
誤解だと宥めたが、辿々しい言葉が空回りするだけで、余計に心苦しかった。
私は俯いたままの艶やかな漆黒の髪を指先で撫でると、若干の戸惑いを溜息で払い、申し開きをした。
「……先輩のことを、一度名前で呼んでみたかった。」
「……え……?」
「一歳の年の差を、もどかしいと感じる時があるんです。お願いしていたら、叶えてくださいましたか?」
じっと耳を傾けていた先輩は、上目遣いに僅かに含羞み、こくりと小さく頷いた。
今の二人の関係を勿論大切に思っているが、赦されるなら、密やかな感情をここまで譲歩したくなかった。
「そう言えば、リヴァルやシャーリーの事はちゃんと名前を付けるのに、ルルーシュ先輩って呼ばないわね。」
「ちょっと発音し難くて。」
「悪かったな。」
先輩は不機嫌な顔で外方を向き、私は慌てて口許を覆い、ごめん。と失言を謝罪した。
ちらと此方を振り返るのが拗ねた子供みたいで、微笑を禁じ得なかった。
「会長の事は呼び捨てなのに、そこは気兼ねするんだな。」
「あら、ジノは予め私の承諾を得てから呼んでいるのよ。」
「…………何か、俺…ジノの気持ちが理解できたかも……」
ミレイと先輩は揃って不思議そうな顔をし、悩めるリヴァル先輩に曖昧な相槌を打った。
まるで駄目だとばかりに彼は項垂れたが、ふと何かに思い当たり、なぁ。と先輩に目を向けた。
「アーニャは最初、『ルルーシュ君』って呼んでいただろう?いつから『君』が無くなったんだ?」
「……さぁ、いつだったかな?気付いたら呼び捨てになっていた。」
視線を彷徨わせて記憶を辿っていた先輩は、妹のような存在を思い、表情をやわらげた。
リヴァル先輩は私に同じ方法を採るよう勧めたが、とても無理だと首を左右に振った。
それは、ミレイが『ルルちゃん』と呼び、シャーリー先輩が『ルル』と話し掛けるのを見ても明らかだった。
「先輩が女性に優しくて年下思いだから、出来た事かなぁ…と。」
「年下ってだけじゃ許して貰えないか……」
「上下関係には大変厳しそうで、とても。」
成程。とリヴァル先輩が納得すると、先輩はさも心外そうに柳眉を顰めた。
面白がるミレイの隣で、遠慮がちにシャーリー先輩が口を開いた。
「ジノ君がルルの誕生日を知らないままだったら、まだ同い年が続いていたのかな……?」
「…………或いは…」
「ねぇ。だったら……、ジノ君が誕生日おめでとうって言うまで、17歳でいてあげたら?」
親切な提案を聞いた先輩は、ミレイに責付かれて幾らか困惑の色を浮かべた。
咄嗟に祝辞を送ろうとしたが、それより先に白い繊手で素早く唇を塞がれ、私は了承されたのだと知った。
どうせなら祝って貰えと口を揃える三人に、先輩は面喰って言葉を失くした。
先に誕生日を迎えていた私は、その時の心温まるひと時を回想し、是非にと申し出た。
頑なに固辞する先輩との遣り取りが何度か続き、見兼ねたリヴァル先輩が助言を挿んだ。
「お前さ、ジノの気持ちも汲んでやれよ。」
「……ジノ……の?」
「自分の時は誕生会を開いて貰ったんだし、何もしない訳にはいかないだろう?後輩の立場なら、尚更。」
「……だが、………」
「ジノの為、って事にしろよ。それも。」
先輩はその一言に大きく心を動かされ、答えを探す様にじっと此方を見詰めると、忠告に従い首肯した。
素直に嬉しいと伝えたら、ふわり、優しく微笑んだ。
「ジノの都合次第だけど、ちょうど一ヶ月遅れになる明日に合わせたら?」
「あ、それは良いかも。冬休みが終わると、また擦れ違いになっちゃうんでしょう?」
仕事を気遣われたが、幸い今週末まで休暇だと告げると、周囲に押される形で決定した。
誕生日に手作りのケーキと素敵なプレゼントを戴いていた私は、先輩に希望を尋ねたが、予想したとおり贈与は遠慮された。
金銭に潔癖で、どんなに些細な物でも、簡単には受け取って貰えなかった。
流石に参って嘆息すると、先輩は申し訳なさそうな顔をした。
「気持ちは嬉しいし、ナイト・オブ・ラウンズに召される事は騎士として最高の栄誉だと思っている。だが……」
言葉を途切ると、ほっそりとした指を祈る様に握り合わせた。
「お前の命の代価のような気がして、……憚られるんだ。」
そっと見詰める暁色の瞳には、至上の幸福に微笑む私の姿が映っていた。
大切なものを自分の手で護る為に、私は軍籍に身を投じた。
「私の命の一片を、貴方に捧げたい。」
囁きに、伏せた睫毛が震えていた。
私達は互いを尊重して、形よりも記憶に残る誕生日にしようと、終日を共にする約束をした。
身体の不自由な妹との二人暮らしが気に掛かり、立ち入るようだが、聞かない訳にはいかなかった。
今朝から検査入院だ。と話す顔はどこか寂しそうで、此処に来る前の静かな足取りを思い出した。
帰りも一緒に。と小さな声で強請ると、仕様が無いな。と先輩は微かに笑った。
私は訪問する時間を少しだけ早めに設定し、今から明日を待ち侘びた。