会長達が喫茶の用意を整えて席に着くと、部屋は直ぐに賑やかな談笑に包まれた。
他愛の無い話に相槌を打つ素振りで、静まらない動悸を誤魔化そうとしたが、視界の右端で捉えた影に容易く掻き乱された。
―――いつでも、よろこんで。
手を、繋いでくれるなら……、その温もりだけを頼りに、冷たい雪の中を何時間でも佇んでいたいと思った。
小指を絡める仕草が、固い約束を意味すると気付くその日まで、ささやかな冬のひと時を、どうか記憶していて欲しい。
セピア色の思い出となっても、髪を透かして耳翼を掠めた唇とその吐息の甘さに、切なく心を焦がすだろう。
「宿題、どれくらい進んだ?」
「俺に聞かないでくださいよ、ミレイ会長……」
「大丈夫だよ!難しい問題は、ルルも一緒に考えてくれるって言ったでしょ?」
「シャーリー、冬休みはあとどれ位残っているかしら?」
「えっと……」
「なぁ、そもそも今日って何日だっけ?」
三人はまだまだ正月気分が抜け切れない様子で、盛大に溜息を吐いて項垂れると、隣でくすりとジノが笑った。
真新しいカレンダーを見て慌てる会長とリヴァルを見て、俺は予定していた帰宅時間を即座に修正した。
「4日?!嘘だろう?」
「始業式には十分間に合うって!私も手伝うから、頑張ろうよ!」
「早いわねぇ。ルルちゃんの誕生日、ついこの前じゃなかった?」
「明日でちょうど、ひと月……本当にあっという間だね、ルル。」
「18歳には、もう慣れた?」
腕組みをしてにっこりと振り返った会長は、肩を竦める俺の右横に目を向けると、不意に戸惑いの色を滲ませた。
視線の先を辿れば、この場の状況を把握しようと、下顎に手を添えて小首を傾げるジノに行き着いた。
「……ジノ。もしかして、知らなかったの?」
掻き上げた前髪がはらりと落ちると、卓の上に両肘を突いて、組んだ指のまま口許を覆った。
愁いを帯びた空色の瞳を静かに閉じ、溜息混じりにこくりと頷いた。
俺は口を噤んで、深く傷つけたその事実だけを唯々受け止めた。
「知らなかったって、何を?」
「ルルちゃんの誕生日よ。」
「えぇ?!ちょっと待てよ!!あの時、ジノは居なかったよな?」
「確か、ジノ君は本国に戻っていたんだよね?」
「了承済みだと思っていたわ。ジノ……先月、みんなでルルーシュの誕生祝いをしたのよ。」
覚醒するように長い金色の睫毛が震え、伏せ気味に何処か遠い場所を見詰めてはゆっくりと瞬いた。
重心を右に傾けて頬杖を突くと、眉間の下の鼻梁の端を人差し指で軽く打った。
それはジノが黙想する時の癖で、誠実に熟慮を重ねる横顔には、憂愁の翳が色濃く窺えた。
隣り合って掛けていながら、身動ぎして出来たほんの僅かな空隙が、途方も無い隔たりに感じられた。
「何て言うかさ、……仲間外れ…みたいな感じがするの、俺だけ?」
「結果的に、そうなってしまったわね。」
「悪い事しちゃったなぁ。私達の話を聞いて、ジノ君、嫌な思いをしただろうね……」
「お前達よく一緒にいるのに、何でそういう肝心な事は話さないわけ?」
生徒会の円満な関係を思えば非難は至極尤もで、リヴァルの言葉は寧ろ手緩いくらいだと思った。
会長は、自身を抱き締めるように組んでいた腕を解くと、静かに俺を見据えた。
「どうしてなのか、聞かせて頂戴。」
椅子の軋む音が微かに聞こえた。
居住まいを元に戻すと、ジノは絡めた十指の上に顎を載せ、目線を落として耳を澄ませた。
敬虔な祈りにも似たその姿に応えようと、俺は誕生日の数日前まで記憶を遡った。
ジノはナイト・オブ・ラウンズの第三席を預かる帝国屈指の騎士で、特別に許されて学生の身分を得たと聞いていた。
多忙な公務の合間を縫って学園に通い、明るい笑顔と人懐こい性格で直ぐに周囲と打ち解けた。
二重生活とは言いながら、召集を受けて本国とを往復する事もしばしばで、他よりも遅刻や欠席が目立った。
ジノの誕生日を一緒に祝えたのは、そうした意味でも僥倖と言え、その日も夜遅くに慌しく帰国の途に就いた。
普段はしない仕事の話を、別れ際になって口にした。
翌月に御前試合を控え、期末試験に臨めるかは微妙だと、嘆息しつつも実力派と名高い軍人としての気骨を覗かせた。
密やかな闘志を湛えた面差しは、一つ年を重ねて、より精悍になった。
少なからず動揺を与えるとは予想されたが、考査後の週末が自分の誕生日とは知らせずに、送り出した。
心が痛まなかったと言えば、嘘になる。
小さくなっていく背中を見届けながら、それでも、選択を後悔しなかった。
「失笑を買うだろうが、知れば、試合を放棄し兼ねないと思った。」
ジノは頤を下ろすと、きつく握り合わせた指に額を押し当て、苦しげな溜息を吐いた。
垣間見える蒼穹のような瞳が瞬く度に、悲しみがぽたりと落ちる気がした。
「人伝に……、試合が最初の日曜だと聞いては、尚更。」
「誕生日の明くる日だったのね……」
会長の言葉に、リヴァルとシャーリーは表情を曇らせた。
あの時以来ずっと絶交を言い渡される覚悟で、こうして弁明する機会に恵まれるとは、毫も思っていなかった。
「普段から、交際には人一倍気を遣っていると感じていた。欠場しないまでも、何らかの形で時間を割いただろう。」
「……ジノなら、黙って見過ごす筈も無いわ。」
「気勢を削ぐ様な真似はしたくなかった。そんな些事に拘って、万が一にも格下相手に敗戦すれば、円卓の騎士の沽券に係わる。」
最高の地位であればこそ、如何なる脅威にも屈してはならない。
厳しい現実を誰よりも承知しているのは、真摯に耳を傾けるジノ本人に他ならなかった。
「ジノを思っての事だったの?」
「どちらとも……、言えない。」
偽らざる本音だった。
肯定するには余りに押し付けがましく、否定するには些か自己欺瞞の度合いが過ぎた。
あの日溜りの笑顔を永遠に失うとしても、胸の奥に秘めた感情はずっと燻り続けると確信していた。
膝の上で両手を重ねる素振りで、俺は右の小指を包み込んだ。
「無理をして欲しくなかったのは、本当だ。面子を失う事よりも、怪我の心配の方が大きかった。」
本国から無事な姿で帰ってきた時、自分が一日千秋の思いでいたのだと初めて気付いた。
喜ばしい報告を受けながら、実力を買ってやらねばと内心苦笑したものだった。
「だが、蔑ろにしたのも事実だ。程度はどうあれ、不快な気持ちを抱かせるとは当然に予想していた。」
選び得る最良の策を採ったかと問われれば、そうとは言い切れない。
もしも教えていれば、こんなにも愁嘆させずに済んだかもしれなかった。
「傷つけた事に対しては、申し訳なく思う。すまなかった。」
ジノは組んだ長い指を顎の下に添えると、もう一度、深く溜息を吐いた。
沈黙が、暫く続いた。
「…………ごめん。ちょっと、そういうの……、駄目なんだ…」
小さな声は忽ち虚空に消え、ジノは頬杖を突こうとした右の掌で半面を覆った。
涙に濡れるその仕草に、狼狽を隠せず咄嗟に手を伸ばした。
見ないで。と力なく制するのさえ無視して、強引に腕を解かせると、降参とばかりに儚げな微笑を浮かべた。
露こそ含んでいなかったが、ジノの瞳はとても悲しい色をしていた。
覚悟していた筈なのに、鋭利な刃で一思いに胸を貫かれた様な、強い衝撃と痛みが走った。
「……戻って来たら、折を見て話すつもりで居た。」
払拭し難い恐怖から、それが責務と知りながらも避け続け、とうとう今頃になって露見した。
狡猾で無様で、羞恥に身が焼かれる思いだった。
「先輩。……誕生日は、楽しかった?」
ジノは先程よりも心持ち声量を上げ、穏やかな口調で語り掛けた。
まるで総てを見透かすような真っ直ぐな視線に、一層恥じ入った。
誕生日は、クラブハウスで温かな祝福を受け、みんなと賑やかなひと時を過ごした。
だが、歓談の最中も、その場に居合わせない姿を探す癖が自然に出て、自己嫌悪に陥った。
「…少し……気が咎めた。」
「その頃、私は遠い空の彼方で、演習に明け暮れていた。貴方が望んだ通りとは言え、何も知らずに……」
糾弾すらして貰えずに、黙殺されて決別を迎えると思っていた。
ゆっくりと此方に向き直る気配を感じて、どんなに辛辣な言葉でも残さず受け止めようと、低頭した。
「…………本当に、ごめんなさい。」
「…………え……?」
項垂れて深く謝罪する様子に瞠目し、俺は何か重大な行き違いでもあったのかと、思わずみんなの方を振り向いた。
三人とも矢張り同じに喫驚した体で、会長は徐に首を傾げて促した。
戸惑いつつも名前を呼び掛けたが、ジノは頑なに俯いたままで、手立てに窮した。
「謝らなくてはならないのは、俺の方……なのだが…?」
覗き込みながら言うと、子供が嫌々をするみたいに何度も頭を振った。
全力否定されて余計に齟齬を感じた俺は、もう一度最初から話して聞かせるべきか本気で悩んだ。
「折角の誕生日に水を差してしまいました。御前試合の話など……私が口を慎んでいれば…」
ごめんなさい。と弱々しい声で言い、睫毛を伏せた。
その綺麗な心を傷つけた筈なのに、圧倒的な美しさで断罪された。
「……違う。ジノ、俺はお前を疎外した。」
「それは、単なる結果に過ぎません。」
「侮辱と感じたからこそ、『そういうのは駄目だ』と言ったんじゃないのか?」
泣いているのかと思う程、悲しそうな様子だった。
今は穏やかな光を宿した青空色の瞳を、ずっと見詰めていたいと心から願った。
ジノは暫く静思していたが、視線に気付くと少し含羞んだように、ふわりと微笑んだ。
躊躇いがちに、……先輩。と切り出され、俺は居住まいを正して吟味された言葉を待った。
「私は先輩の事がとても好きです。」
耳朶に沁み入る低音は、揺るぎない強さを秘め、一瞬で心を奪われた。
夢の中でも夢の夢だった。
「家族や友達を大切にする処も、本当は優しいけれど言葉数が足りない処も、容姿端麗で頭脳明晰…なのに品行方正とは言い切れない処も。」
最後の方はやや承服し兼ねたが、律儀に指折りしながら話すのを、大人しく聞いていた。
ちらと上目遣いに覗けば、何やら悪戯気な眼差しとぶつかった。
大きく深呼吸したかと思うと、ジノは続きを一息に捲くし立てた。
「ミレイに頭が上がらない処も、シャーリー先輩の控えめな忠告に慌てふためく処も、ちょっと抜けてる処も、ありがとうって言うだけで真っ赤になる処も、全
部。」
呆気に取られている俺を他所に、会長達三人は堪らず噴出した。
流石に憤りを覚えて睨み付けると、小さく肩を竦めたが、口調に元に戻して猶も続けた。
「お祝い出来なかったのは残念ですが、今回の事も含めた上で、好きなんです。」
「……だが、俺はお前を、」
「駄目だと言ったのは……、御気遣いが嬉し過ぎて、これ以上は。という意味です。感情表現が拙かったのか、誤解を与えてしまいました。」
それは優しい嘘だった。
あの深い悲しみに満ちた瞳が偽りだったなど、信じられる筈も無かった。
「内密にしたのには、綺麗事では片付けられない理由が確かにあったからで、結局は自己満足だ。」
「先輩はミレイの質問に、どちらとも言えない。と…。」
「そのとおりだ。」
「今だって、心痛に堪えない顔をしているのに?」
お前の事だけを思ってと言えたなら、或いは、傷つけずに済んだかもしれない。
何度押さえ付けても溢れ出す醜い嫉妬や独占欲が、それを赦さなかった。
だから……、ジノ。
どうかもう、これ以上は優しくするな。
「先輩は、いつも自分の事を後回しにしてしまう。」
やわらかな口調で窘めると、心配そうに溜息を吐いた。
澄んだ蒼穹の眼差しに返す言葉を失い、密かに焦燥を感じていると、ジノは手を添えた左耳を傾けた。
「私の為と言って。」
寛恕を秘めた無邪気な仕草は、余計に胸を切なくさせた。
親切な申し出に甘えるのは憚られたが、収拾しようとする相手の気持ちを考慮するなら、黙して受けるべきだった。
強請るように一瞥され、俺は躊躇いつつも、そばだてる耳元にぎこちなく唇を寄せた。
漏れ聞かれては。と声を覆った指先が、大きな左手に少しだけ触れた。
期待された言葉を囁くと、ジノはくすぐったそうに肩を揺すった。
二人の影が名残惜しげに離れたのも束の間、真冬の太陽のように微笑んで、そっと耳打ちを返された。