01. 心拍数U

「じゃあ、はい。どうぞ、先輩。」

ジノはそう言って、俺の目の前に細く丁寧に巻かれた黒い傘を出した。

「ミレイから聞いたんですけど、傘持って来なかったんでしょう?これ、使ってください。」
「会長から聞いた?」
「ええ。ちょうど此処に来た時、リヴァル先輩と一緒に帰ろうとしていたみたいで。二人とも、そう言っていましたけど?」

俺はジノの持つ傘を見て、出しかけた言葉を呑み込んだ。
―――傘は、濡れていなかった。
会長とリヴァルが帰った時刻を思い返すと、ジノは一時間近く待っていたことになる。
降りしきる雨の中、ずっと此処に居たのだろうか。
黙ってしまった俺を、ジノが不思議そうな顔で窺っている。

「何故、生徒会室へ来なかった?」

思いとは裏腹に、語気が鋭くなったが仕方がなかった。
まともに学園に通えないくらい多忙なのだから、早く用件を済ませて十分な休養を取って欲しいと思ったのだ。

「制服じゃないからっていうのもありますけど、先輩が一人残って頑張っているのを邪魔したくなかったんです。」

ロロ君の事も勿論ミレイから聞きました。と付け加えて、にっこりと返された。
ジノは、優しい。
直截な表現はいつも俺を面映くさせるが、今回はきちんと礼を言うべきだと思い、素直に伝えた。

「だが、傘は受け取れない。俺に貸したらお前はどうするんだ?」

好意は有難いが、現実問題として目の前には傘が一本しかないのだ。
ジノは、何だ、そんな事か。とでも言いた気な顔をした。

「どうせ迎えの車が校門前に着けるから、気にしないでください。走ればすぐですから。」
「馬鹿!此処から校門までどれだけあると思っているんだ?!」
「え?だってすぐ其処じゃないですか。大した距離無いと思うけど……」

俺、足速いし。と得意満面なジノに、『すぐ其処』だと?と頭を抱えてしまった。
それに。

「速いって、お前……」

言いかけて、以前、スザクが連射する銃器の弾を避けて走っていたのを思い出した。
ブリタニアの軍人は、みんなあれ位走れるのか?
ナイト・オブ・スリーのジノなら、もっと速く……いやいやいや、雨に濡れずに走るなんて人間業じゃないだろう。

「駄目だ。いくら足が速くても、濡れる事には変わりない。断る。」
「そんなの絶対ダメです!先輩が雨に打たれながら帰るのを、黙って見過ごすなんて出来ません。体調を崩したら、どうするんですか?」
「それはお前にしたって同じ事だ。」
「もう!俺と先輩とでは基礎体力が違います!!」
「おい、失敬な事を言うな!俺の体力は人並みだ!!」
「……先輩、あの…それは過信かと。前にイベントで、シャーリー先輩やドレス姿のミレイについて行けなかったでしょう?」

くそ。
スザクの復学歓迎会の件か。
大体あの時だって、元を辿ればお前が騒動を巻き起こしたからで、俺だってその気になれば……!



頭の中でぐるぐる考えている間、ジノはお預けを喰った犬みたいに傘と俺を交互に見ていた。

「あの、こうしませんか?俺が先輩を家まで送ってから、帰る。それなら良いでしょう?」

ジノは、仕様がないな。といった風に軽く溜息を吐いて、少し困ったように眉を寄せた。
俺の方が一つ年上なのに、宥める様に言われて逆に気恥ずかしくなった。
ジノが時々さり気無く見せる大人っぽい仕草は、正直、格好良い。
これ以上押し問答を続けても決着がつきそうにないし、俺はその提案に賛成した。

「さて、と。」

玄関先から外の様子を確認したジノが、ゆっくりと此方を振り返った。
一歩踏み出して目の前まで来ると、俺の手から鞄を受け取って足元に屈みこんだ。
そして、失礼。と一言だけ断ると、いきなり片腕で俺の両膝を抱き上げた。

「え?ぅわあぁぁぁ!!」

転ぶ!!!!!
俺はバランスを崩しそうになり、咄嗟にジノの頭にしがみついた。
何事かと目を白黒させている俺を他所に、ジノは自分の腕に腰を下ろすようにと言った。
その指示に従って何とか上手く体勢を整えると、胸の下辺りに納まったジノが此方を見上げて、大丈夫ですか?と声を掛けた。

「お前、これは一体何の真似だ?」

俺は怒りと羞恥で自分の顔が引き攣るのを感じた。

「えっと……縦抱っこ?ですよ。」

のほほんと答えられ、俺の頭の中の回線が幾本かブチと切断された。
抱っこ、だと?

「ほぅ。その度胸は買ってやろう、ジノ=ヴァインベルグ。では、お前の了見を聞かせて貰おうか?」

全く空気が読めていないジノは事もあろうに、あ、またそんな顔して。と、もう片方の手で俺の頬をむにと摘んだ。

「先輩、怖い顔しないでください。申し訳ないけど、この傘に男二人は無理なんです。帰り着くまで、ちょっと我慢してください。」

ね?と子どもに諭すように言われた。
横に並ぶより、縦。という理屈は分かるが、方法が間違っている。

「だからって、」
「先輩、できるだけ体重を預けてじっとしていてくださいね。」

今、わざと言葉を遮られたような気がするのだが。
言われた通りにすると、ジノは留め具を指先だけで器用に外して傘を広げた。

「あ。」

普通の黒い紳士用傘だと思っていたら、内側には真っ青な空とふわりとした白い雲が描かれていた。

「スカイアンブレラだったのか……」
「よくご存知ですね。」
「お前にぴったりの傘だ。」

まるで本物の空が目の前に広がっているようだと指で触れてみたら、ジノが軽く咳払いをした。

「本日はヴァインベルグ航空をご利用頂きありがとうございます。当機は間もなく離陸いたします。相合傘での快適な抱っこの旅をご堪能ください。」
「馬鹿が。」
「酷いなぁ。操縦には自信があるのに。」

がっくりと項垂れたジノを覗き込むと、やんちゃな瞳が潜んでいて、俺たちは一緒になって笑った。





コツコツと踵を響かせながら、ジノは悠々と歩く。

「なぁジノ、重くないのか?」

気になって尋ねてみると、丸い額をちらと此方へ向けて、全然。と微笑んだ。

「華奢だなぁ、とは思っていたけど、ちゃんとご飯食べていますか?同じ男とは思えないくらい軽い。」
「お前と比較するな!食が細いだけで、三食欠かさず食べている。」
「へぇ、本当かな?だったら、今度みんなで食事に行きましょうよ。会話が弾んで、食も進みそうです。」
「そうか。では、牛を一頭用意しろ。」
「了解。」
「おい、今のは冗談だ!!」

真顔で答えたので慌てて言い聞かせると、ジノは笑みを零した。
こんな風に他愛のない話をしていると、敵同士であることを忘れてしまいそうになる。
俺の正体を知ったら、ジノもスザクのように裏切られたと憎むだろうか。
細やかな心配りも快活な笑い声も、今、此処にある優しい温もりも全て失うことになる。
それを思うと、これ以上は踏み込めない。



「先輩……」
「何だ?」

ジノが前を向いたまま話し掛けてきたので、俺は意識を切り替えた。

「雷、怖いでしょ?」

言われて耳を澄ますと、遠くから雷鳴が聞こえてきて咄嗟にジノの肩口を掴んだ。
物思いに耽っていたせいで気付かなかったが、次第に近づいてきているようだ。

「震えていますよ、身体。」
「は、は、は。何を言っているんだジノ?雷なんて自然現象であって、ただの放電」

と言いかけた途端、夜空に稲光が走り喉の奥で息を詰めた。

「怖いんですね。」
「違…」

耳をつんざく様な轟音に言葉が掻き消された。
反射的に抱え込んだジノの頭が、必死に笑いを堪えているのが分かった。

「違うッ!間違っているぞ、ジノ!怖いわけではなく、苦手なだけだ!!おい、笑うな!」
「先輩にも怖いものがあったとは!」

だから怖いわけじゃなくて。と反論しようとするのを、はいはい。と流されてしまった。
会長にでも知られたら大変だと、面白がるジノに、くれぐれも口外しないよう強く念を押した。

「ねぇ。でも、先輩の好きな人には教えてあげた方が良いと思いますよ?」
「何故だ?」
「意外性を垣間見ると興味が湧くものです。その人との距離が縮まるかもしれません。」

ジノは尤もらしい顔をしてアドバイスしてくれたが、その相手とはクリアできない条件が多すぎる。

「今のままで十分だ。叶う見込みが無いのは分かっている。」
「弱気ですね。先輩、あれだけ女の子達に人気があるのに。」
「お前を基準にされると、さぞ奥手に見えるだろうな。だが、相手を困らせるような真似はしたくない。」
「杞憂かもしれないのに。」
「俺を失恋させたいのか?」

とんでもない。とジノは肩を竦めた。

「でも万が一そうなったら、俺が盛大に失恋パーティーを開いてあげますよ。」
「お前が振られた時は、俺の特製ティラミスを用意して、生徒会主催で開いてやる。」

ふざけて言うと、ジノはその輝石のような目を瞬かせた。

「本当?じゃあ、すぐにでも告白しちゃおうかな。」
「おい、それでは告白の趣旨が違うぞ!」
「構いませんよ。」

小さな傘の中で、俺たちはまた笑い合った。
ジノは俺の背が濡れないように、回した腕をそっと内に寄せた。
クラブハウスに着くまでのほんの一時だけ、夢をみても赦される気がした。