02. Je te veuxT

青白い稲妻は俺の恐怖心を十二分に煽り、先輩、着きましたよ。とジノから言われた時は死出の旅から生還したような心地だった。
抱えられていた腕から静かに降ろされ、俺はジノに深謝した。
雨足は先程と同じようだが、強くなってきた風が夜空に浮かぶ雷雲を此方に運んでくる。
その不穏な様子を見て、辞去しようとしたジノを引き止めてしまった。

「時間が許すなら、お茶でも飲んでいかないか?」

言った後で、手首に巻いた時計の針が八時半を回っているのに気付き、お茶ではなく夕食の時間だと訂正した。
ジノは驚いて暫く躊躇っていたが、では、お言葉に甘えて。と最後には了解してくれた。





家の中に入ってしまえば、それまで耳に付いていた雨音は小さくなったが、残念ながら雷は殆ど変わらなかった。
俺はジノを居間に通し、温かい紅茶を淹れた。
仄かな湯気の合間から見えた青い瞳が微笑んで、とても美味しいです。と言った。
ジノの美点は、きちんと言葉を選って素直に所思を述べるところだ。
俺には得難いその愛すべき慇懃さが、いつも数多の人々を惹き付ける。
ジノと居ると俺にも少しだけそれが作用して、だから、それは何よりだ。と微笑み返した。



ジノには寛いでもらって、俺は食事の準備に取り掛かった。
いつも簡単な下拵えを済ませて登校するのだが、今朝は冷製スープを何にするかロロが悩んだので、それだけは後回しになっていた。
如何したものかと考えながら、戸棚を開いてフードプロセッサーを取り出そうとした時、近くに雷が落ちた。
瞬間、身体が撥ねて、置いてあったボウルを床に落とした。

「先輩?!」

派手な音を聞きつけたジノが、慌てて駆け寄ってきた。

「吃驚させて、すまない。大丈夫だ。ちょっと雷が、」

と話していると、立て続けに天を裂くような雷鳴がして、けたたましさに耳を塞いで縮こまってしまった。
全身に籠めた力をゆっくりと抜きながらジノを見ると、脱いだ上着を椅子に掛けて、シャツの袖を肘まで丁寧に捲くり終えたところ。
徐にボウルを拾うと、手伝いますよ。とくすりと笑った。
そんな大人な態度に自分の体温が上昇していくのが分かり、俺はジノを居間に追い返そうと背を押した。

「あ、また雷。」

ジノが言うと、間を置かずに体幹に響くような音がして、俺は思わずぎゅっと目を瞑った。
ゆるゆると瞼を開けると、ほらね。とでも言いた気な顔のジノ。
赤面の至りだ。

「…………可愛い。」

ぽそりと呟いたのは、聞こえなかったことにしておいてやる。
くそ。



こんな調子では食事の仕度も儘ならないし、助力を求めたいのは山々なのだが……。

「断っておくが皮肉ではないぞ…その、お前、料理なんてした事あるのか?」

相手は名門貴族の御子息。
執事やメイドを始め、大勢の使用人から傅かれる立場の人間だ。

「まぁ、多少は。こう見えても、病人の世話をすることだってあるんですよ?」
「へぇ、健気だな。相手は恋人か?」
「あはは。だったら良かったけど、残念。同僚の男性ですよ。昔からの友達で。」

談笑しながら、ジノは慣れた手つきで渡されたジャガイモの皮を剥いていく。
黒いシャツの折られた袖から伸びる筋張った腕や、ペティナイフの刃を器用に滑らせる指先。
照明を受けて浮かび上がった顔の輪郭が精悍で、つい見惚れてしまう。

「なかなか上手いじゃないか。」
「でしょ?ナイフの使い方はその人に教わったんです。これ、どう切ります?」
「薄切りに。ついでに玉葱も頼む。薄切りと微塵切りの半々にしてくれ。」
「はい。」

小気味良いまな板の音を聞きながら、俺は熱したフライパンにオリーブオイルを馴染ませ、下味を付けておいた肉を焼く。
視界の隅で動いていた腕が止まり、ジノが俺の手元を覗き込んだ。

「メイン?」
「ああ。ラムの香草焼きだ。口に合うと良いが……。」
「それは楽しみです。」

きつね色になったところで香草とパン粉を混ぜ合わせたバットに移して、衣を付ければ後はオーブン任せだ。
さて次は、と手順を思い返していたらジノの声がした。

「先輩、終わりました。」

振り返ると、どうやら玉葱が沁みたらしく目頭を押さえて俯いていた。
気の毒なのだが、帝国屈指の騎士が野菜の化合物のせいで涙を浮かべている様が可笑しくて、堪え切れなかった。

「そんなに笑わないでください。酷いです、本当に痛いのに……。」
「悪かった。天下のナイト・オブ・スリーが落涙する姿なんて、ちょっと見物だと思って……すまん、大丈夫か?」

拗ねたような口ぶりに謝って、流水で冷やしたハンカチで涙を拭ってやると、少しは刺激が和らぐ様だった。
指先で繊細な睫毛に触れると、ジノが瞬きをし、僅かに掠めるそのくすぐったさに思わず手を引っ込めた。
厨房の隅に置いてあった椅子にジノを座らせ、俺はその涙の賜物である玉葱とジャガイモに謝意を表して鍋に投入した。
このヴィシソワーズでメニューは完璧。



「他に何か手伝える事はありませんか?」
「もう痛みは治まったのか?見せてみろ。」

傍に寄ると、ジノはまるで子どもが母親に言われてするみたいに、素直に顎を向けた。
涙は止まっていて、もう大丈夫です。とジノが言うので、俺は折角の申し出を受けることにした。

「最近ずっと忙しかったんだろう?疲れているだろうから、嫌いでなければ飲み物はこれにしないか?」

俺は取り出した二つのオレンジを半分に切り、ジノの前に置いた。
甘酸っぱい香りが広がる。

「ブラッドオレンジはビタミンCもアントシアニンも豊富で、その効能も」
「先輩。」

片手で頬杖を付いたまま俺を見上げていたジノが、ありがとう。と瞳を細めて言った。

「気に掛けてもらえて、とても嬉しいです。」

姿勢を正して真っ直ぐに見詰められると、胸の奥が焦らされる様な感覚に陥る。
こういう場面に出くわす度に、それがジノの性質だと解していながら、期待してしまう。
いつもなら『嬉しい!先輩、ありがとう!大好き!!』で終わるのに、不意に手法を違えるので、安易に受け流せなくなる。

「俺の方こそ。今日は本当に助けられた。だから、これくらいの事で礼には及ばない。」

俺は何とか切り返しに掛かったのだが。

「先輩のそういう優しいところに、いつも惹かれてしまいます。」

ジノの真摯な態度に調子が狂い、俺は硝子製の絞り器を手渡して背を向けた。

「大袈裟だな。」





こんな風に、ジノと二人だけで食事をするのは初めてだった。
俺は生徒会の話をしたり、アーニャの様子を尋ねたりしたものの、先程の遣り取りもあって、直ぐには緊張が解けなかった。
ジノの完璧な作法や洗練された会話は流石で、食事が進むうちに、俺は自然に流れをリードしてくれていることに感謝した。



だが、本当の意味で時間が経つのを忘れてしまい、あっという間に時計が十時を指そうとしていた。
雨も風も雷も、今が絶頂とでも言わんばかりの勢いで、長居させてしまった事を詫びた。
こんなに激しい雷雨の中を帰すのは忍びないが、何時までもこのままと言う訳にもいかない。

「クラブハウスの前まで迎えを呼ぶか?」

窓の外から風の唸るような音が聞こえ、ギラリと走った閃光が目に飛び込んできて足が竦んだ。
ジノは時計と外と俺を順に見て、駄目だ。と嘆息した。

「そんな仔鹿みたいに震えている先輩を置いて帰るなんて、無理です!」
「誰が仔鹿だ!!」
「恐怖に目を潤ませている先輩の事です。………ルルバンビ。」
「おい。最後の方、聞き捨てならない造語がなかったか?」
「幻聴かと。」

平然と答えるジノに、先刻までの紳士然とした態度は何処へ行ったと詰め寄りたい気分だ。
意外に大人だと思っていたら、急に悪戯好きな子どもの顔が出てくる。

「遅くなると仕事に差し支えるだろう?」
「幸い、明日は休暇です。」
「家ではお前の帰りを待っているんじゃないのか?」
「連絡済です。」
「門限は?」
「……そこまで箱入りではありません。」

肩を落としたジノが、二つ折りのIDを開いて提示した。
失念していたが、夜道で不埒な輩と遭遇しても絶対安心な御身分だったな。

「しかし、お前に迷惑を掛けるのは心苦しい。」
「迷惑だなんて思っていませんよ。ロロ君もいないし、一人にさせて怪我でもしないかと心配なんです。」
「気持ちは嬉しいが、自分の事も顧みてくれ。身体が資本だろう?」
「……………………」
「俺の事なら大丈夫だ。お前に貴重な時間を割かせなくても、後は何とかする。これ以上は甘えられない。」

俺の言葉の一つ一つを反芻するかの様に、ジノは黙って耳を傾けていた。
少し前から気付いていた。
ジノが時折大人びた態度を取るのは大抵俺が窮している時で、それでいて他の誰かと一緒に居る前では決して見せない。
気位の高い人間を扱うのは難儀だろうに、それを見越して手を差し伸べる。
ジノが半ば無意識的にそうしていると知った時、だからこそ、その善意に寄り掛かってはならぬと俺の矜持が命じたのだった。
嘘を吐くのは簡単な事だが、俺はそうするよりも敢えて逃げ続けた。
ジノは、優しい。
だが、俺たちは相容れることの出来ない敵同士。

「だから、もうそんなに優しくするな。」

組んでいたジノの指に力が籠められ、幾段も低い声が、分かりました。と告げた。
呆れているのか憤慨しているのか判断が付かないが、何れにせよ歓迎し難い雰囲気が漂う。

「……ジノ…?気を悪くしたのなら、すまない。その、……」

声を掛けてみたが、冷たさと切なさが混ざった様な視線を向けられて、言葉が続かなかった。

「いえ。其方の御意向も汲まずに勝手を言って、申し訳なかった。」
「ジノ。言葉が足りずに、誤解を与えてしまったようだ。俺は、」
「立場を弁えずに、失礼しました。」

俺の言葉を待たずに、ジノは上着を手に立ち上がった。