02. Je te veuxU

ジノが電話を掛けたいと許諾を求めてきたので、俺は席を外すという名目で自室へ逃げ込んだ。
自動点灯した照明の眩しさに苛立って、手動で灯りを絞った。
扉が閉まると、それ以上は一歩も動けずに、背を押し付けたままズルズルと床に座り込んだ。
俺は選択を誤ったのだろうか。
哀愁を湛えた淡青の瞳に、心が軋る。
ジノ……。
迎えが来るまで別々に居た方が良いのか……それとも、暇潰しに適当な話で繋ぐべきだろうか。
だが、今更どんな顔をして向き合えば良いんだ?
そんな些事に頭を悩ませていたら、轟音が響いた後、一瞬で辺りが闇と化した。

―――落雷したのだ。



アッシュフォード学園は一部を除き、全館にオートスライドドアを採用している。
勿論、クラブハウスも。
この部屋は図らずも俺が電源を手動に切り替えたが、ジノは居間に閉じ込められたままだ。
安否が気になるが、平衡感覚を失いそうな深い暗がりの中を動き回るよりも、復旧を待つ方が得策。
電話、終わったのだろうか。
離れている所為で、此処からはそれを窺い知る事は出来ない。
想定外の事故だが、結果としてジノを足止めしたに変わりなく、俺は歯噛みせずにはいられなかった。



カーテンの隙間から獰猛な雷光が見え、立てた両膝に頭を埋めて拳を強く握った。
怖い。
……ジノ。
その名前だけで、最奥に閉じ込めた何かを、温かくさせてくれた一筋の光明。
今まで誰にも向けたことの無かった感情に戸惑い、手元に置いておきながら、隔てを作ったのは俺だ。
こんな遣り口で、飼い慣らせる筈も無かったものを。



―――どれくらい時間が経っただろう。
噛み殺していた嗚咽が少しずつ遠のき、思考が冷静さを取り戻す。
ジノ。

ジノ。

「ジ、ノ……。」
「…………………………はい。」

思いがけない応答に、俺は凭れていたドアを愕然と振り返り、膝を突いたままゆっくりとそれを開いた。
そこには燭台の薄明かりを受けたジノが、ドア越しに背中合わせになる様な格好で座っていた。

「どうして………」
「怖くありませんでしたか?」

床に置かれた蝋の火影が、静かに揺れていた。





ジノは俺の腕を引いて傍に寄せると、前髪を掻き分け、まだ熱を持ったままの目の縁をなぞった。
指先が頬に残る涙の跡を辿ると、ジノは溜息を吐いて、小さく頭を左右に振った。
その仕草に、伝える事も叶わずに瓦解したのだと、悲しみが滲んだ。
ジノは俺の頬に手を添えて、親指の腹でそれを拭うとそのままコツリと額を合わせた。

「ごめんなさい……先輩。私の我儘で、こんな……」
「え……?」

きつく眉根を寄せて俯くジノの言葉に、俺は瞠目した。

「我…儘…?」

金色の睫毛が微かに震え、暗闇の所為でサファイアの様な深みを秘めた双眸が開いた。
その悲痛な眼差しに、また心が軋んだ。

「必要とされたい気持ちが先立って、出過ぎた真似を。」

ジノは丁寧に言葉を選んでそう言うと、再び俯いた。
俺はその内容を理解しようと努めたが、分かったのはジノが自分を責めている事実だけだった。

「ジノ……。」

柔らかな髪を撫でるとジノは漸く肩の力を抜いたが、それでもまだ項垂れたままだ。
耳は此方に向けられている気配がするので、俺はそのまま話を続けた。

「お前の所為じゃない。……誰かに優しくされると、それを失う怖さを考えたりする事って、ジノは無いか?……俺は、それで不安になるんだ。」

夥しい数の命を手に掛けてきた俺に、求める資格など無いのに。

「何より、その好意に報いる術を知らない事を、申し訳なく感じる。途方に暮れてしまう。すまない。」

俺は、狡獪だ。
甘えて泣いて縋ってでも手に入れたいくせに、自分の罪を言い訳に目を背けておいて、尚、ジノを手放すことを拒んでいる。

「……本当は、必要とされたいのも我儘なのも、俺の方だ。」

あの日、世界を敵に回す覚悟を決めてから、ずっと。



ジノはそっと俺から身を離すと、片腕を胸の前に構え、王に仕える騎士さながらに跪いた。
凛然と見詰める群青が、俺の心を見透かしているようだ。

「では、そのささやかな願いを私に託してくださいませんか?私は自身の誇りと地位と名誉に掛けて、貴方の心からの倖せ叶える。」

―――貴方に求められたい……ただ、それだけです。

掠れた声が耳朶に染み入った。
ジノは、優しい。
俺は、…………。

「ご迷惑でなければ、もう少し一緒に居させてください。心配で、とても平静ではいられない。」

綺麗に折られたハンカチを差し出され、俺は伝う涙の意味を信じたいと思った。
こくりと頷くと、ジノは小首を少し傾げて俺の耳元に唇を寄せ、ありがとう。と囁いた。





「じゃあ、先輩はお風呂済ませちゃってください。目が腫れると大変。」

部屋に灯りが戻ると、ジノは半ば放心状態の俺の身体をくるりと回転させ、浴室に促した。



バスタブに浸かると身体の疲れは癒されたが、頭の中は、ジノとは別の意味でとても平静とは言い難かった。
吐息が触れた場所に指を伸ばして触ると、まだ余韻が残っている気がした。
さっきのあれは、何だったんだ?
いつもの自信あり気な態度ではなく、少し切羽詰った声で。
あんな、熱に浮かされたみたいな目をされたら……。

…………………………
…………………………

……………………………………………………!!

違う!
俺は全然、そんなもの!
き、期待とか、していた…わけ…じゃ、ない し…。
ぁああああ、あれは、流れというか、その、いつものじゃれ合いだ!
そうだとも!!
単にいつものスキンシップの延長で……。
ん?
スキンシップの延長?
待て。
延長していったら、………どう、なるんだ?…ろう……………か?

「先輩、あのねぇ。」
「ッ!なななな何だ?」

ドアの外から聞こえた声に、案外、心臓が口から飛び出すのは珍事ではないのかもしれないと思った。
滑舌が悪いのは、イレギュラーだからだ。

「あ、驚かせちゃったかな?ごめん、ノックしたんだけど。」
「い、いや、大丈夫だ。それより、どうしたジノ?」
「先輩の髪、俺が乾かしても良い?」



それで、だ。
ジノは大層ご機嫌で、俺の頭に熱風を浴びせ掛けている。
髪を梳く時に、長い指が襟足を掠めてくすぐったい。

「さらさらで綺麗な髪ですね。」
「そうか?髪を褒められたのは、初めてだ。」
「本当?」
「ああ。別に男の髪なんて、」

俺の言葉を遮るように、ジノは後ろ髪に顔を近づけて鼻先を埋めると、いい香り。と呟いた。
………い・つ・も・の、スキンシップだ。
断じて、延長はしていない!

「終わりましたよ。後はぐっすり眠るだけです。」

ジノは結局、荒天が静まるか、俺が雷に怯えないで済むように寝るかの、どちらかに目途がついたら帰ることになった。
外は相変わらずの荒れ模様で、俺が眠りについた方が早そうだ。
鍵はオートロックだから、ジノが帰る時に俺の意識が無くても大丈夫。
今日は色々な事があり過ぎて、心身共に疲労困憊だ。
ベッドが恋しい。

「おやすみ。」



非常事態に遭遇すると、人は思いもよらない行動を取ったり、得難い経験したりすることが多々ある。
深手を負っても痛覚が働かなかったり、火災時にか弱い女性が重い家具を抱えたり、スザクが弾丸を避けて走った挙句に足で銃器を破壊したり。
潜在能力が目覚めたり、神からの啓示を受けたりする。
だから俺が、今は囚われの身となっているナナリーと間違えて、ジノにキスしたとしても、今は非常時なんだ。
―――俺は就寝の挨拶をしてから、背を向けて五、六歩進んだところで自分の失態に気付いた。
恐る恐る振り返ると、そこには片頬を押さえ、茫然自失したジノが立ち尽くしていた。

「あの……先輩…。」
「す、すまない!!習慣で……お、弟と間違って、その……他意は無かったんだ。不運な事故だ!だから、つまり………」
「あ…ぁ。いえ大丈夫です。余りにも自然に懐に入ってきたから、多分そうだろうと思いました。隙が無くて驚いただけです。」

参りました。と両手を軽く挙げて笑うジノを見て、俺はほっと胸を撫で下ろした。



ベッドに入って間接照明を落とすと、ジノは戸口に立って、おやすみなさい。と言った。
それに答えた辺りで、瞼が閉じられた。





翌朝、俺は自分の薬指に器用に巻かれたメモを解き、ベッドの上でひとり読んだ。
流麗な文字で昨晩の食事の礼が書かれたそれは、手帳の頁を破いたものらしく、ジノ残り香が仄かにした。



その日の昼下がりに、玄関先に忘れられた傘を見つけた俺は、次に会う口実が一つ増えたことを素直に喜んだ。