ジノが電話を掛けたいと許諾を求めてきたので、俺は席を外すという名目で自室へ逃げ込んだ。
自動点灯した照明の眩しさに苛立って、手動で灯りを絞った。
扉が閉まると、それ以上は一歩も動けずに、背を押し付けたままズルズルと床に座り込んだ。
俺は選択を誤ったのだろうか。
哀愁を湛えた淡青の瞳に、心が軋る。
ジノ……。
迎えが来るまで別々に居た方が良いのか……それとも、暇潰しに適当な話で繋ぐべきだろうか。
だが、今更どんな顔をして向き合えば良いんだ?
そんな些事に頭を悩ませていたら、轟音が響いた後、一瞬で辺りが闇と化した。
―――落雷したのだ。
アッシュフォード学園は一部を除き、全館にオートスライドドアを採用している。
勿論、クラブハウスも。
この部屋は図らずも俺が電源を手動に切り替えたが、ジノは居間に閉じ込められたままだ。
安否が気になるが、平衡感覚を失いそうな深い暗がりの中を動き回るよりも、復旧を待つ方が得策。
電話、終わったのだろうか。
離れている所為で、此処からはそれを窺い知る事は出来ない。
想定外の事故だが、結果としてジノを足止めしたに変わりなく、俺は歯噛みせずにはいられなかった。
カーテンの隙間から獰猛な雷光が見え、立てた両膝に頭を埋めて拳を強く握った。
怖い。
……ジノ。
その名前だけで、最奥に閉じ込めた何かを、温かくさせてくれた一筋の光明。
今まで誰にも向けたことの無かった感情に戸惑い、手元に置いておきながら、隔てを作ったのは俺だ。
こんな遣り口で、飼い慣らせる筈も無かったものを。
―――どれくらい時間が経っただろう。
噛み殺していた嗚咽が少しずつ遠のき、思考が冷静さを取り戻す。
ジノ。
ジノ。
「ジ、ノ……。」
「…………………………はい。」
思いがけない応答に、俺は凭れていたドアを愕然と振り返り、膝を突いたままゆっくりとそれを開いた。
そこには燭台の薄明かりを受けたジノが、ドア越しに背中合わせになる様な格好で座っていた。
「どうして………」
「怖くありませんでしたか?」
床に置かれた蝋の火影が、静かに揺れていた。
ジノは俺の腕を引いて傍に寄せると、前髪を掻き分け、まだ熱を持ったままの目の縁をなぞった。
指先が頬に残る涙の跡を辿ると、ジノは溜息を吐いて、小さく頭を左右に振った。
その仕草に、伝える事も叶わずに瓦解したのだと、悲しみが滲んだ。
ジノは俺の頬に手を添えて、親指の腹でそれを拭うとそのままコツリと額を合わせた。
「ごめんなさい……先輩。私の我儘で、こんな……」
「え……?」
きつく眉根を寄せて俯くジノの言葉に、俺は瞠目した。
「我…儘…?」
金色の睫毛が微かに震え、暗闇の所為でサファイアの様な深みを秘めた双眸が開いた。
その悲痛な眼差しに、また心が軋んだ。
「必要とされたい気持ちが先立って、出過ぎた真似を。」
ジノは丁寧に言葉を選んでそう言うと、再び俯いた。
俺はその内容を理解しようと努めたが、分かったのはジノが自分を責めている事実だけだった。
「ジノ……。」
柔らかな髪を撫でるとジノは漸く肩の力を抜いたが、それでもまだ項垂れたままだ。
耳は此方に向けられている気配がするので、俺はそのまま話を続けた。
「お前の所為じゃない。……誰かに優しくされると、それを失う怖さを考えたりする事って、ジノは無いか?……俺は、それで不安になるんだ。」
夥しい数の命を手に掛けてきた俺に、求める資格など無いのに。
「何より、その好意に報いる術を知らない事を、申し訳なく感じる。途方に暮れてしまう。すまない。」
俺は、狡獪だ。
甘えて泣いて縋ってでも手に入れたいくせに、自分の罪を言い訳に目を背けておいて、尚、ジノを手放すことを拒んでいる。
「……本当は、必要とされたいのも我儘なのも、俺の方だ。」
あの日、世界を敵に回す覚悟を決めてから、ずっと。
ジノはそっと俺から身を離すと、片腕を胸の前に構え、王に仕える騎士さながらに跪いた。
凛然と見詰める群青が、俺の心を見透かしているようだ。
「では、そのささやかな願いを私に託してくださいませんか?私は自身の誇りと地位と名誉に掛けて、貴方の心からの倖せ叶える。」
―――貴方に求められたい……ただ、それだけです。
掠れた声が耳朶に染み入った。
ジノは、優しい。
俺は、…………。
「ご迷惑でなければ、もう少し一緒に居させてください。心配で、とても平静ではいられない。」
綺麗に折られたハンカチを差し出され、俺は伝う涙の意味を信じたいと思った。
こくりと頷くと、ジノは小首を少し傾げて俺の耳元に唇を寄せ、ありがとう。と囁いた。
「じゃあ、先輩はお風呂済ませちゃってください。目が腫れると大変。」
部屋に灯りが戻ると、ジノは半ば放心状態の俺の身体をくるりと回転させ、浴室に促した。
バスタブに浸かると身体の疲れは癒されたが、頭の中は、ジノとは別の意味でとても平静とは言い難かった。
吐息が触れた場所に指を伸ばして触ると、まだ余韻が残っている気がした。
さっきのあれは、何だったんだ?
いつもの自信あり気な態度ではなく、少し切羽詰った声で。
あんな、熱に浮かされたみたいな目をされたら……。
……………………………………………………?
……………………………………………………!!
違う!
俺は全然、そんなもの!
き、期待とか、していた…わけ…じゃ、ない し…。
ぁああああ、あれは、流れというか、その、いつものじゃれ合いだ!
そうだとも!!
単にいつものスキンシップの延長で……。
ん?
スキンシップの延長?
待て。
延長していったら、………どう、なるんだ?…ろう……………か?
「先輩、あのねぇ。」
「ッ!なななな何だ?」
ドアの外から聞こえた声に、案外、心臓が口から飛び出すのは珍事ではないのかもしれないと思った。
滑舌が悪いのは、イレギュラーだからだ。
「あ、驚かせちゃったかな?ごめん、ノックしたんだけど。」
「い、いや、大丈夫だ。それより、どうしたジノ?」
「先輩の髪、俺が乾かしても良い?」
それで、だ。
ジノは大層ご機嫌で、俺の頭に熱風を浴びせ掛けている。
髪を梳く時に、長い指が襟足を掠めてくすぐったい。
「さらさらで綺麗な髪ですね。」
「そうか?髪を褒められたのは、初めてだ。」
「本当?」
「ああ。別に男の髪なんて、」
俺の言葉を遮るように、ジノは後ろ髪に顔を近づけて鼻先を埋めると、いい香り。と呟いた。
………い・つ・も・の、スキンシップだ。
断じて、延長はしていない!
「終わりましたよ。後はぐっすり眠るだけです。」
ジノは結局、荒天が静まるか、俺が雷に怯えないで済むように寝るかの、どちらかに目途がついたら帰ることになった。
外は相変わらずの荒れ模様で、俺が眠りについた方が早そうだ。
鍵はオートロックだから、ジノが帰る時に俺の意識が無くても大丈夫。
今日は色々な事があり過ぎて、心身共に疲労困憊だ。
ベッドが恋しい。
「おやすみ。」
非常事態に遭遇すると、人は思いもよらない行動を取ったり、得難い経験したりすることが多々ある。
深手を負っても痛覚が働かなかったり、火災時にか弱い女性が重い家具を抱えたり、スザクが弾丸を避けて走った挙句に足で銃器を破壊したり。
潜在能力が目覚めたり、神からの啓示を受けたりする。
だから俺が、今は囚われの身となっているナナリーと間違えて、ジノにキスしたとしても、今は非常時なんだ。
―――俺は就寝の挨拶をしてから、背を向けて五、六歩進んだところで自分の失態に気付いた。
恐る恐る振り返ると、そこには片頬を押さえ、茫然自失したジノが立ち尽くしていた。
「あの……先輩…。」
「す、すまない!!習慣で……お、弟と間違って、その……他意は無かったんだ。不運な事故だ!だから、つまり………」
「あ…ぁ。いえ大丈夫です。余りにも自然に懐に入ってきたから、多分そうだろうと思いました。隙が無くて驚いただけです。」
参りました。と両手を軽く挙げて笑うジノを見て、俺はほっと胸を撫で下ろした。
ベッドに入って間接照明を落とすと、ジノは戸口に立って、おやすみなさい。と言った。
それに答えた辺りで、瞼が閉じられた。
翌朝、俺は自分の薬指に器用に巻かれたメモを解き、ベッドの上でひとり読んだ。
流麗な文字で昨晩の食事の礼が書かれたそれは、手帳の頁を破いたものらしく、ジノ残り香が仄かにした。
その日の昼下がりに、玄関先に忘れられた傘を見つけた俺は、次に会う口実が一つ増えたことを素直に喜んだ。