長時間に及んだ模擬戦を終えてパーシヴァルから降りると、ルキアーノは執務室に戻った。
整頓された机上を一瞥して奥の部屋へと進み、更にその隣にある浴室のドアを開けた。
鏡に映る自分を見て、ふっと肩の力を抜き、白いグローヴを嵌めた手の甲で、うっすらと汗ばんだ首筋を拭った。
無休で半日以上も騎乗した所為で、身体の節々に疲労の蓄積を色濃く感じた。
感覚の鈍った指先を噛んでグローヴを剥ぎ、黄金色の蛇口を捻ると、バスタブから柔らかな湯煙が立ち込めた。
パイロット・スーツのジッパーを鳩尾辺りまで下げた処で、ルキアーノは迫り来る足音に気付き、ゆっくりと振り向いた。
ノックもせず、大胆にもバスルームの扉をガチャリと開け、ジノは屈託の無い笑顔で、おかえり。と言った。
「ねぇルキアーノ、今日が何の日だか知ってる?」
此方の都合など御構い無しなのは何時もの事で、悪戯げに瞬く瞳に嘆息した。
ジノは室内に踏む込み、さて。と首を傾げるルキアーノの為に蛇口を閉じて、淡い香りのオイルを注いだ。
誕生日は明日に違いない筈だ…と腕組みをしようとして、室内を駆けて来る騒々しい音が耳に届いた。
「ルキアーノ様、今日11月26日は『いい風呂の日』です!」
「いつもと少し趣向を変えてみましょう!私達が素敵な時間を演出してみせます!!」
ふわりと漂う花の匂いも消散する勢いでドアが開き、またしても浴室に無断で入って来た第二、第三の訪問者に、今度は僅かに眉宇を寄せた。
部下が自分を敬愛しているのは確かだが、どうにも異性という肝要な前提が抜けている気がして、ルキアーノは軽く眩暈を覚えた。
そんな事は全く意に介さず、二人は嬉々としてドライフラワーの花びらを浴槽に浮かべ、色とりどりのキャンドルを灯し、温かな珈琲と甘い焼き菓子を用意し
た。
リーライナとマリーカは出来栄えに満足すると、にっこりと愛らしい笑みを浮かべて上司を振り返った。
「ルキアーノ様には内緒で、ヴァインベルグ卿に教えていただきました!」
「御実家と全く同じとはいきませんが、どうぞお寛ぎください!」
ルキアーノは黙って紫煙を燻らせていたが、再現された旧家の湯殿を、懐かしそうに眺めていたジノの肩に、そっと手を載せた。
一時期、足繁くブラッドリー家を訪れていたジノは、三年の空白があったとは思えない程、その場面を完璧に記憶していた。
赤い花びらの種類や蝋燭の色形、愛飲している珈琲の銘柄、甘味の好み。
掛け替えの無い思い出の日々を、ジノは鮮明に覚えていた。
「あ、そうだ。」
ジノは思い出したように純白の制服のポケットに手を入れると、取り出した黄色い物体を、静かにバスタブに入れた。
ぷかぷかと浮かぶビニール製のアヒルに、リーライナとマリーカは年相応に感嘆の声を上げた。
「まぁ、可愛い!!お湯に揺れて、とても気持ち良さそうです!」
「ね?」
「ヴァインベルグ卿、これもブラッドリー邸にあったのですか?」
聞き捨てならない問いにルキアーノは青筋を立てたが、日頃から仲の良い三人は素知らぬ顔。
ジノは首を左右に振り、私の衝動買いです。と、くすくす笑って真相を告げた。
そして、更に別のポケットから現れた一回り小さなアヒルを二羽、大事そうに湯船に追加した。
「親子ですね?!」
「仲良く並んで、ますます可愛いです!」
「親鳥がルキアーノで、子供はリーライナさんとマリーカさんです。」
「マリーカ、すごいわ!小さい方は瞳の色が違って、ちゃんと見分けられるようになってるの!!」
「本当!私達、いつも一緒ですね。」
ルキアーノが、くしゅん。と微かに鼻を鳴らし、浴槽を取り囲んではしゃいでいた三人は、漸くこの部屋の主を思い出した。
「ルキアーノ様、風邪を引くと大変です!」
「急いで御身体を温めなくては!」
「お湯が冷めちゃう前に、ほら早く!」
さあさあ、どうぞ。と強く勧められたルキアーノは、苦虫を噛み潰したような顔をして、無言のうちに、乳白色の水面に浮かぶ玩具を取り除いた。
そして、これを暴挙と言わんばかりに非難した三人を、あっさり一纏めにすると、バスルームから摘み出した。
室内に台風一過を思わせる静けさが戻り、ルキアーノは、やれやれ。と溜息を吐いた。
再び蛇口を開いて熱めの湯を足し、すっかり冷えた身体を浸すと、心地良い温みと甘い花の香りに心身が癒された。
揺らめくキャンドルの焔が穏やかな眠りに誘いかけたが、三度目も、矢張りノックの無いままドアが開いた。
ルキアーノの読み止しの本を持ってきたジノは、しゅんとした顔で差し出すと、そのまま何も言わずに元へ帰って行った。
立ち代りに、リーライナが新しい珈琲を淹れに入って来て、ヴァインベルグ卿が御気の毒です。と珍しく苦言を呈した。
構わず本を読んでいると、扉の向こうから、懸命に慰めるマリーカの声が聞こえた。
御覧なさい。とでも言わんばかりの視線に観念して、ルキアーノは床に転がる三羽を拾い上げると、そろりと湯に戻した。
それを見たリーライナは嬉しそうに表情をやわらげ、礼を言い残して部屋を後にした。
程なく、遠慮がちに扉が開き、叱られた子供のように項垂れたジノが現れた。
怒ってる?と上目遣いに窺う仕草は、出会った十歳の頃を彷彿とさせ、ルキアーノは密かに狼狽した。
肩を竦めて見せると、ほっと安心して傍に寄り、優雅にたゆたうアヒルの親子を、可愛い。と喜んだ。
明日で一つ年を重ねるのに、わざわざ膝を折ってじっと玩具を眺めるジノが可笑しくて、ルキアーノは、まだまだ。仔猫(キティ)と小さく漏らした。
三羽のアヒルは、洗面台の隅を指定席に以降も居座り続け、それが時々向きを変えているのを知ったジノは、隠れてひとり、くすくすと笑った。