03. date

休日の朝は穏やかな光に包まれ、ゆったりとした時間が流れていた。
俺は昨夜の会話を思い出しては溜息を吐き、食事の用意をする手が何度となく止まった。
耳元に残る言葉を反芻すると、淡く切ない片恋に胸が締め付けられた。
警戒して距離を置いていた頃も、今と同じ優しい笑顔と素直な態度で俺を温かく包み込んだ。
その快活さで多くの友人達から慕われているのに、俺を見つけると遠くからでも必ず声を掛けた。
何の躊躇いも無くさらりと好意を表され、解釈に困ってその都度、小さな波紋が広がった。
受話器越しでもそれは同じで、姿が見えないと余計にどう躱せば良いか分からず、沈黙した。

『先輩のそういう優しいところ、大好きです。』

逢いたいと言われた時は何とか平気な振りで遣り過ごしたが、乱打する心拍を必死に堪えていた。
一夜を過ぎても落ち着かない高鳴りに、誤魔化しきれない感情の正体を認めざるを得なかった。
ずっと先になって伝える事が出来たなら、ジノ…どうか、いつものように優しく微笑んで欲しい。





食事を終えて家の用事を片付けると、後はロロと咲世子に任せ、俺は身支度を整えて迎えを待った。
家で試験勉強をすると話していたロロは、心配そうな顔をしたが、大丈夫だと伝えると深くは追求しなかった。
約束の時間丁度に、携帯電話が鳴った。
一旦家に上がるものと思っていたが、ジノも同じく勉強するつもりらしく、租界の中心部にある図書館へ誘われた。
玄関を出ると私服姿のジノが立っていて、こんにちは。と澄んだ目元を緩めた。





いつも使っている通用門を抜けると、待たせてあった車に乗り込んだ。
図書館へは平日なら電車やバスを使って三十分程度で着くが、週末は道が混雑して小一時間かかった。
黒い本皮のシートに腰を下ろすと、少し失礼します。と言って、ジノは腕組みをしたまま瞳を閉じた。
驚いたものの、よくよく考えれば恐らく数時間前までは本国に居た筈で、疲労は当然だった。
滑らかに走り出すと振動が心地良いのか、微かな寝息が聞こえ、俺はただ静かにジノの横顔を見守っていた。
午後の柔らかな日差しを浴びた金色の髪は眩く、浮かび上がった輪郭や伏せた長い睫毛の影は絵画的だった。
マフラーに下顎を埋めたジノはいつもより大人の印象で、俺は微妙な距離感を覚えた。
相手の総てを知りたがるのは傲慢だと思ったが、細波立つ感情を赦してくれるなら、別な一面に僅かでも触れてみたいと願った。
到着する間際にジノは目醒め、体調を心配して口を開こうとした俺に向けて、ふわりと笑みを浮かべた。





十階の窓際の席に掛けると、ジノは教科書を開いて試験範囲を復習し始めた。
解けない問題があれば教えて欲しいと言っていたが、特に悩んでいる素振りはなかった。
ジノはノートの隅に走り書きをして、手持ち無沙汰になった俺に寄越した。

退屈でしょうから、何か読まれては如何ですか?

俺はその提案に従い席を離れ、立ち並ぶ書架を巡って適当な本を探した。
振り返ると机に向かう姿が見え、その様子から多分手助けは不要だと思った。
そして、ジノが学園の空き教室ではなく、わざわざ此処を選んだ理由が何となく分かってしまった。
昔の文豪の短編を手に取ると、俺はまた向かいの席に戻った。



読みながら時折ジノの進み具合を窺っていると、次第に其方から目が離せなくなった。
仕事上はタイプを使うはずだが、丁寧な筆致は文字を書き慣れている風で、私信を多く交わしたのだろうかと想像した。
考え事をする時は頬杖を突いて、鼻筋の始点の辺りを人差し指で軽く叩くのが癖だった。
行き詰まると前髪を掻き上げて溜息を漏らし、腕組みに切り替えて、またトントンと指先で眉間の下を打った。
俯き加減の顔はやはり少し大人っぽくて、気付いていないようだが、先程からずっと周囲の視線を集めていた。
やがてジノはさらさらと鉛筆を滑らせ、質問する振りでまたノートを見せた。

 頁を繰る音が止まったようですが……?

見惚れていた俺の体温は瞬時に急上昇した。
慌てて本を取替えに立ち、書架に身を隠して息を漏らしたが、動悸で胸の奥が苦しかった。
棚の背表紙を眺めてみたものの、動転した所為で一向に食指が動かず、結局読書を諦めることにした。
本棚の隙間から覗き見ると、ジノは視線を落として熱心に問題を解いていた。
逢いたいと言った割には何事も無く、肩透かしを食わされたと苦笑しかけて、自分が期待していたのに気付いた。
俺は役回りを思い出し、今度は隣に座って質問されるのを大人しく待った。
じっと手元を覗くと、ジノは緊張して一文字も書けなくなり、先輩、そんなに見ないで。と頬を薄く染めて年相応の顔に戻った。





俺達は図書館を後にして、街中に出た。
通りのショーウィンドウは何処も赤と緑のクリスマス・カラーで彩られ、人々の表情も明るく華やいで見えた。
穏やかな陽が射していても流石に風は冷たく、吐く息が白かった。
並んで歩く時はいつも歩幅を調整してくれるジノが、不意にペースを乱した。
怪訝に思って見上げると、立ち止まって自分のマフラーを解き、何も言わず俺に巻いた。
柔らかな肌触りは上質なカシミアで、微かに香水の匂いがした。

「手馴れているな。」

その優しい仕草を知る他の誰かに、嫉妬した。
熱情に流されるつもりはなかったが、素知らぬ振りが出来るほど大人でもなかった。
我が儘だと知りつつ口にした言葉だった。
皮肉を浴びせたジノは表情一つ変えず、ええ。と肯定した。
促すように歩き出した後姿を視界の端に認めながら、余計な事を言ったと後悔したが、手遅れだった。
先を行くジノはもう待ってはくれず、俺は親に叱られて縋る子供のように、縮まらない距離を歩いた。



暫くすると交差点に突き当たり、赤信号のおかげで追いついた。
一、二歩下がって止まると、ジノは振り返って此方を覗き込み、まだ寒い?と俺の冷えた鼻先をそっと小突いて微笑んだ。

「貸してあげるって言っても、絶対受け取ってくれないでしょう?ちょっと強引でも、風邪を引くと困るから…ごめんね。怒った?」
「…………いや。」

首を左右に振ると、心底安心したような顔をして、胸が痛んだ。

「ジノ……さっきの言葉だが、撤回させてくれないか。」
「え?」
「あんな言い方をして、悪かった。」
「何で先輩が謝るの?」
「何で?俺は、お前の親切を…その、手馴れていると…………」
「それはそうです。先輩の思考パターンを読むのは御手の物。よく観察できているでしょう?」

その木漏れ日のような笑顔が、いつも心を掴んで、離さない。



シグナルが青に変わると、俺の言葉を掻き消すように人波が押し寄せた。
二人の距離は縮まり、ジノの歩幅も小さくなったが、矢張り横並びとはいかなかった。
先程よりも随分速度を落としているジノを不思議に思いながら歩いていると、暫くして合点した。

「風避けのつもりか?」
「あ、うん。寒いと思って……。邪魔?」
「そんなことは……ん?じゃあ、ずっと風上に向かって歩いていたのか?」
「そう。でも後ろが見えないから、距離感が分からなくて。さっきみたいに離れすぎると困るから、少しだけ我慢してください。」

宥める様に言うのが可笑しくて、嘘みたいな本当の思い違いに噴出す俺を、ジノはきょとんとした顔で見ていた。
訳を話すと、後ろにも目があれば良いのに。と真面目に言うので、また笑った。





通り向かいのカフェに入る前に、俺は勘定を受け持つと予め宣言しておいた。
ジノは何とか懐柔を試みたが、プレゼント期間中だと言うと、嬉しそうに含羞んで了承した。
キャラメル・マキアートとチャイを注文し、互いに相手の方が甘党だとふざけた議論をした。
沁み込むような紅茶の温かさに、自分が今、幸福だと思った。



「明日の願い事は決めたか?」

この遣り取りが少し楽しみになって尋ねると、今日は直ぐに首肯して、ジノは翌日のランチを所望した。
遂に形あるものが登場したと喜んで、早速好き嫌いや普段の食事量などを聞こうとしたら、驚いた顔をされた。

「先輩が作ってくれるの?」
「そういう意味じゃないのか?」
「一緒に食事に出掛けようと思ったんですけど……だったら、是非お弁当にしてください!」

ジノは期待に目を輝かせ、いかにも明日が待ちきれない様子だった。
俺の作る卵焼が甘いと知ったら、きっと大変な騒ぎになると思い、そのお楽しみは内緒にしておいた。