試験前日に当たる今日は、授業が午前中で終わり、終業のベルが鳴ると同時に、学生達のほとんどは教室を後にした。
帰宅する者は意外に少なく、残って友人達と考査の勉強をするのが此処の慣例のようだった。
昼時の混雑する廊下を抜けて、私はようやく生徒会室に辿り着いた。
ミレイの一声で俄かに開催が決定した学習会は、役員全員の及第が前提で、その為の全権が先輩に委ねられた。
先輩は教え方が丁寧で、簡明な言葉で要点を説明し、一つの問題が解けると即座に例題を作って、完璧に覚えさせた。
理解出来ると必ず褒めて、自分も嬉しそうな顔をした。
会長命令と言ったが、みんな勉強を見てもらいたがっていたし、先輩も教える事に喜びを感じていると知った上だった。
抜群の行動力とフレキシブルな対応、強い責任感に加えて、鋭い慧眼を持った彼女は、有能な指揮官と言えた。
「ちょっと、何でジノだけ?!」
「良いなぁ、ジノ君……ルルのお弁当…」
「…………ズルい…」
先輩は約束どおり昼食を用意してくれたのだが、私に手渡そうとした途端、女性達から非難の声が上がった。
どうやら予想していた様子で大した驚きも見せず、誕生日プレゼントだと訳を明かしたが、全く以って腑に落ちないといった体。
気にするな。と言われて恐る恐る受け取り、注目を浴びながら蓋を開けると、透かさずアーニャがフラッシュを焚いた。
先輩の物より少し大きな弁当箱には、疎い私から見ても手間を掛けたと分かる惣菜が詰まっていて、覗き込んだみんなが感嘆した。
綺麗な彩りから栄養のバランスを考慮した跡が窺え、そっと感謝を囁くと、淡々とお茶を注いでいた横顔が僅かに綻んだ。
熱いから気をつけるようにと手元に置かれたのは、ほうじ茶という香ばしい飲料だった。
口に含むと、見た目に反して渋みの少ないあっさりとした味わいで、とても美味しかった。
先輩に倣って、いただきます。と手を合わせたものの、三人の羨望の眼差しに心苦しくなり、とても食べられなかった。
「どうした?」
「あ、いえ……何でも…」
「嫌いな物は入れてない筈だが…?もしかして、箸が使えないのか?!」
「大丈夫。ちゃんと使えます。」
訝しがって首を傾げる先輩に、ミレイ達の所為とも言えなかったが、このまま食べないでいるのも不義理だと思った。
私は覚悟を決めて箸を握ると、黄色と白の絶妙な断層の卵焼きを頂いた。
ふわふわでほんのり甘くて、優しい味だった。
「先輩、本当にありがとう。とても美味しいです。」
手を止めて此方を窺っていた先輩にそう言うと、何故だかほっと胸を撫で下ろした。
不思議に思って聞いてみれば、砂糖の加減を気にしていたらしく、心を砕いて作ってくれた事に改めて感謝した。
「…………ジノ、私にも頂戴…」
傍に寄り、丸い瞳を向けて強請るアーニャが可愛くて、私は先輩の許しを貰い、みんなに御裾分けをすることにした。
彼女達はとても喜んで、逸品揃いと絶賛したが、どんどん減っていく弁当を見兼ねた先輩は、自分の分を此方に差し出した。
いくら固辞しても、願い事を叶える約束だと言って全く退かなかった。
押し問答を繰り返していると、間に入ったアーニャが先輩の弁当を私に寄越して、自分のランチボックスを先輩に渡した。
今度は先輩が固辞したものの、こっちが良い。と、残り少なくなった私の昼食を持って、さっさと元の席に腰を下ろした。
先輩は言いたい事の半分も聞いて貰えず狼狽していたが、やがて諦め、アーニャのピタサンドに手をつけた。
お弁当交換は楽しかったが、先輩は私が満足な量を食べられなかったと気落ちした。
手作りの味を十分堪能できたし、その気持ちが何より嬉しいと伝えたら、少しだけ笑顔を見せた。
「ねぇ、先輩…。三時になったら、午後の紅茶にしませんか?」
「三時?」
「真面目に勉強すれば疲れが出る頃です。」
「成程。」
「疲れたときには甘いもの……」
アーニャはぽそりと呟くと、隣に居たミレイに自分の携帯電話を見せて、何やら小声で相談を始めた。
シャーリー先輩とリヴァル先輩も覗き込んで、四人でひそひそ言っていたが、やがて結論に達した。
我らが生徒会長は威勢良く立ち上がると、両手を腰に添えて、机の向かいからにっこりと微笑んだ。
条件反射で、先輩は咄嗟に身構えた。
が。
「ジノ!!」
名指しされて驚いていると、会長命令よ!と悪戯っぽくウィンクした。
こういう場合、拒否権という言葉が全く意味を持たないことを、経験則として私は了解している。
「ルルーシュを……」
まだ言い終わらないうちから、先輩は脱兎の如く逃げ出した。
ミレイはその姿を面白そうに目で追い、よろしくね。と私に言い残すと、みんなを引き連れて一目散に部屋を出た。
着席したままの私と壁際まで避難した先輩は、彼らの素早い行動に唖然として顔を見合わせた。
「まさか全員、エスケープ…?」
「してやられましたね。」
華麗なる脱走劇を演じたミレイ達一行は、アーニャが最近気に入っているパティスリーへと出掛けた。
メールでその事実を知った先輩は、不謹慎だと顔を顰めた。
「まだ続きがありますよ。えっと、『イチゴのタルトを買って帰るから、お弁当の事、ごめんなさい。』……だそうです。」
「三人とも反省しているようだな。」
「ええ、きっと。」
先輩は、仕様がないな。と、少し困った顔で零すと、席に戻って試験勉強を再開した。
束の間の二人きりの時間を、私は密かに喜んだ。
店が余程遠いのか、時計の針が三時近くを指しても彼女達は帰って来なかった。
喫茶の準備を迷っていたが、結局先に始めることに決め、先輩は早速湯を沸かした。
沸騰するまでの間、ティーカップや茶葉を選んで手際良く仕度するのを眺めていると、戸棚の奥にストックされた食材を見つけた。
その一つを手にとって、私は何気なく尋ねてみた。
「先輩、これ何ですか?」
「ん?ホットケーキミックスだな。こんなもの、一体何処にあったんだ?」
発見した場所を教えると、先輩は大量に積まれた粉袋を見て、出納帳に記載した覚えがないと青褪めた。
ミレイに確認しなければ分からないが、何らかの手違いで購入したのだろう。
先輩は大きな溜息を吐くと、食べ物に罪は無い。と自分に言い聞かせた。
「折角だから、これで何か作ってやろうか?」
「本当?!嬉しい!」
素直に喜ぶと、先輩は紅茶を後回しにしてお菓子作りに取り掛かった。
ホットケーキで構わないのに、昼食のリベンジだと笑って、チョコレートブラウニーとクッキーに挑戦すると宣言した。
弁当の二の舞にならないように、律儀に人数分の生地をオーブンに入れると、また別の何かを作り出した。
粉に卵や牛乳を加えてフライパンに流し込み、焼きあがるとバターの上からメープルシロップをかけた。
ふんわりとしたホットケーキは、倖せの象徴のようだった。
「これは、特別。」
微笑んだ先輩の髪から漂うバニラの甘い香りに、その言葉の真意を期待した。