05. touch

学期末考査の初日を無事に終えると、生徒会室には多少の充実感が漂った。
昨日、見事に勉強会を抜け出した会長達は、三時に予定していた喫茶の時間を大幅に過ぎて帰ってきた。
流石に詰問すると、交通渋滞や体調不良、緊急招集と各自が尤もらしく言い訳するので、すっかり呆れ返ってしまった。
女性を責め立てるのは気が引けたが、むしろ彼方が一枚上手だと苦笑した。
その後直ぐに机に向かったものの当然復習不足で、四人は俄仕込みのままテストを受ける羽目になった。
自業自得だが、それでも悪い感触ではなかった様子で、講師役を仰せつかっていた俺は胸を撫で下ろした。
アーニャが、お詫びのしるし。と差し出した菓子箱は残念ながら持ち越され、今日はみんな真面目に勉強すると約束した。



昼食を終えると、それぞれ明日行われる教科を復習し始めた。
全員が私語を慎み、室内は鉛筆や消しゴム、紙を捲る音だけになり、心地良い緊張感に包まれた。
分からない箇所を尋ねる時だけ、小声で会話した。
誰かが落第する心配は無かったが、より良い結果の為に勉励するみんなの一助になれればと思った。
続け様に質問を受けていると、ジノは不意に思い出した様に、調べ物があるからと言って立ち上がった。

「暫くして、戻ってきます。」
「…………ああ、分かった。」

直ぐに。ではなく、暫く。と言われて、何かがつかえたみたいに胸の奥が軋んだ。
机の上を整頓して出て行こうとするジノに、会長が三時までには戻るよう釘を刺した。
昨日買ってきたタルトを午後の紅茶の時間に頂くつもりだと告げると、了解。と、笑顔を向けて部屋を後にした。
扉が閉まるとまた静かになり、俺は次々に問われる内容に意識を集中させ、綺麗に片付けられた右隣を成る丈視界から外した。





二時半を過ぎた頃、丁度みんなの勉強がひと段落して、少し早く休憩を挟むことになった。
会長は図書館に居るジノを迎えに行くよう俺に言いつけると、シャーリー達と喫茶の準備に取り掛かった。
四人はそう広くないキッチンに詰め掛け、淹れる茶葉やタルトの切り分け方などを楽しそうに話していた。
俺はマフラーを手に取り、別棟の図書館への最短ルートを頭の中で検索すると、聞こえる賑やかな声を惜しみつつ廊下に出た。



校舎の外に出ると曇り空の所為で風が冷たかったが、まだ少しだけ陽射しが残っていた。
道すがら何人かの生徒と擦れ違った。
御遣いを引き受けたものの、ジノの調べ物が何かを聞いていなかったので、どうやって探し出そうかと悩んだ。
学園の図書館は市民にも開放される程の規模で、多くの利用者が居る場所で携帯電話を鳴らすのも憚られ、三時のお茶に間に合うかは微妙だった。
暫くして戻ると言ったジノを思い出し、没頭しているようなら、見つけても声は掛けないでおこうと考えた。



広い校内を急いでいると、図らずも先から見慣れた人影が近付いて来るのが分かった。
俯き加減にゆっくりとした足取りで、地面に落ちた葉をカサカサと踏みながら、時折その音に聞き入っていた。
此方には気付いていない様子のジノを、俺は木陰に佇んだまま暫く眺め、その姿を大切に記憶した。

「……ルルーシュ…?」

いつものように、柔らかな微笑を浮かべた。
同じくらい優しい顔が出来ただろうかと見詰めていると、ジノの唇が何かを伝えようとしたが、残念ながら言葉は耳に届かなかった。
聞き返す素振りを見せたが、思い直したのか、首を振って教えて貰えなかった。

「何かあったんですか?」
「少し早いが、ティータイムだ。」

歩調を速めて傍まで寄ると怪訝な表情で尋ねたが、俺が迎えに来たと知ると礼を言った。



二人連れ立って帰ろうとして、俺は大事なことを忘れているのに気付いた。

「仕舞った。ジノ、今日の願い事をまだ聞いてなかったぞ?!」
「そう言えば、そうでしたね。テストのことばかりで、すっかり忘れていました。」
「時間があまり無い!今ここで決めろ!!」

責っ付く俺に、はいはい。と困惑した風に笑って答えると、腕組みをして考え出した。
願いを聞けと言った割には、叶えて貰いたい要求を持ち合わせていなかったし、特別困難な事も言ってこなかった。
半分は俺の所為で決まった急拵えのプレゼントだったが、本当に喜ばれているのか疑問だった。
暫くすると、じゃあ……。とジノは躊躇うように此方をじっと窺った。

「触れてもいいですか?」
「…………え?」

聞き返すとジノは伏し目がちに溜息を一つ吐いて、同じ言葉を繰り返した。
俺は当然、何を今更……と思った。
此れ迄そんな事を聞きもせずに、顔や身体を散々触っていた事実をどう説明するつもりだ?
嫌がったりはしていないが、大体スキンシップが過剰で―――。
そう言いかけて、最後にジノが俺に触れたのが何時だったのか、急には思い出せなかった。
今日は期末試験の後、直ぐに図書館へ行ってしまった。
昨日は弁当とおやつを作ったが、別に何もされなかった。
一昨日はマフラーを巻かれたが別に触れていないし、交差点で鼻先を小突かれたが、触れるというのとは少し違う気がする……。
その前は電話で話をしただけだ。
誕生日は……そうだ。
朝、校舎前で待っていた俺の身体が冷えているのではと心配して、強がったら確かめる為に、頬に触れた。
振り返ってみると、何時からかジノは、コミュニケーションの手段にスキンシップを用いなくなっていた。
気遣いを見せる時にだけ触れたが、あまりに自然で、今までずっと気付かなかった。
改めて許可を求められると、違う意味を期待してしまう。

「悪戯のつもりはありませんが、嫌なら断ってください。」

掛けられたジノの声が優しくて、俺はその願いを了承した。



長い指先が伸びてくると、思わずびくりと身体が跳ね、ジノは咄嗟に手を引っ込めた。

「あ……すまない。何と言うか、その……」
「怖い?」
「…………何をされるか分からないと、多少は不安が…」
「尤もな話です。では、右手を出していただけますか?」

意味は解せなかったが、俺は素直に指示に従い、片手をジノの前に差し出した。
温かく大きな手で俺の右手をそっと掴むと、その掌に自分の頬を擦り寄せて、とても冷たい。と呟き、瞳を閉じた。
高鳴る胸に五指が震えたが、寒さの所為だと自分を誤魔化した。
ジノはそっと頬を離すと、握った俺の手を引き寄せて、そのままコートの左ポケットに入れた。
二人の距離は腕一本分にも満たない程に近づき、狼狽して青い瞳を覗き込むと、微笑みを返された。



俺達は冬の午後を、ただただ静かに手をつないで歩いた。
ポケットの中の二人の手が離れたのを機に、指を絡めて握り直した。
ジノは驚いた風だったが、俺を一瞥しただけで、何も言わすに握り返した。
午後の紅茶に間に合わせる筈だったが、帰る途中で、ジノが遠回りになる道を選んでいる事に気付いた。
俺はこの優しい散歩をもうしばらく楽しむために、ささやかな沈黙を守ることにした。
絡み合う指の一本一本から感じる人肌の温もりを、今だけは独り占めしたいと願った。