二日目の考査が無事に終わると、私は早々に席を立った。
今日も午後から勉強会が開かれることになっていたが、諸事情で山積している職務のために、止む無く一旦政庁に戻らなければならなかった。
スザクが体調を崩し、アーニャは試験を欠席して総督の護衛に当たっていた。
私は彼の書類を代決し、別件で軍の上層部からの通信を受けることになっていた。
永らく騒乱の絶えなかった遠隔の同盟国から要請を受け、本国では派兵に向けた動きが活発化していた。
半年前に同様の勅命が下った時は私が援軍の指揮を執ったが、今回はナイト・オブ・ワンが統率することになり、激戦が予想された。
私は内示を受けなかったものの、作戦会議には前任指令官として招集され、今週末はまた帰国する公算が高かった。
生徒会室に立ち寄って簡単に事情を説明すると、ミレイは一時離脱を快く了承してくれた。
公務が終われば此方と合流するつもりでいたが、六時を過ぎるようなら諦めざるを得ないと判断した。
教授役の先輩と相談して、遅くなりそうな時は連絡を入れると約束した。
行ってきます。と小声で言うと、先輩はきちんと返事をして、柔らかな笑顔で送り出してくれた。
その慎ましさが、いつも私を満たした。
交通渋滞を考慮した結果とは別に、少しでも長く傍に居たくて、クラブハウスの先にある通用門を利用した。
一緒に帰る機会が増え、別れ間際が切ないと思っていると、手を振った後も私の後姿を最後まで見届けた。
セピア色の景色の中で静かに佇む先輩に、いつも後ろ髪を引かれる思いでいた。
雷が怖いくせに、雨風の強い日でさえ何時までも中に入らず、とても心配した。
この短い家路を何度でも往復したいと、願わずにはいられなかった。
本国からの通信を終えると、私はスザクが受け持つ筈だった書類を決裁した。
生まれ故郷に対する思い入れの深さは認めるが、偏見の強い事務方を警戒して、全部一人で抱え込もうとするのが困った処だ。
見た限り、職権の範囲をまるで無視した瑣末な案件も多数あり、私はそれらを全て返戻した。
権限を越えるものについては、上位決裁権者である総督に委ねた。
年若い皇女であっても、その地位に見合った責務を全うしなければ、組織は成り立たない。
そしてナイト・オブ・セブンに就いている限り、スザクはデヴァイサーとしての適性を欠かない為に細心するのが本分だ。
私はランスロット唯一の騎乗者を見舞いに、彼の私室を訪れた。
ベッドの傍らに座っていたセシル女史が立ち上がろうとしたが、それを止め、私は同僚の寝顔を見ただけで満足した。
自分の身体を顧みずに無茶をするのは、幼馴染というあの人と同じで、放って置けなかった。
執務室に戻って残りの庶務に当たりながら、私は昨日の事を思い出して深い溜息を吐いた。
絡まる指の細さや重なり合った掌の熱に、複雑な情動を掻き立てられて狼狽した。
求めれば際限なく赦してしまいそうな先輩が、一体何処で線引きをしているのか分からず、優しさを試すような真似をしてしまった。
気持ちを寄せる人に触れたいとは当然の欲求だったが、言葉にすればこの感情を多少なりとも示せると思った。
易々と了承すれば同窓の後輩に過ぎず、沈黙は拒否と見做すつもりだった。
大方予想したとおり先輩は喫驚し、私の真意を測り兼ねて紫色の瞳が揺らめいた。
願い事を楽しみにしていたが、生真面目な性格から断れないのではと憂慮して、拒否権の行使を容認した。
警戒心の強い先輩が同意した刹那、自分が内側の深い場所に置かれていると感じた。
躊躇いつつ白い繊手に触れようとしたら、怯えた風に身を竦めて、握った指先が震えていた。
冷え切った手を外套の隠しに入れると、そっと十指が絡まり、私は淡色の幸福を握り返した。
仕事を終えた時には既に陽が傾き、私は再度学園に戻るか否かを逡巡したが、最後は衝動に敵わず車に乗り込んだ。
校内は人影もまばらで、約束の時間に間に合わせようと駆けると、程なくして校舎の外から生徒会室の灯りが見えた。
ほっと安心して階段を上りきれば、廊下で電話を掛けていたらしい先輩と出くわした。
おかえり。と労わる声に、ただいま。と疲れ切った顔をして見せたら、くすりと笑った。
「すみません。電話の邪魔をしてしまったようです……」
「大丈夫だ。ロロが心配するから、連絡を入れただけだ。するんだろう、勉強?」
「え?あの…みんなは?」
「丁度区切りがついたから、帰り支度を始めた。シャーリーは寮生だから、」
話している途中で生徒会室の扉が開き、鞄を手にしたミレイ達三人が出てきた。
私の姿を認めると口々に慰労の言葉をかけ、先輩の手厳しい指導の愚痴を漏らした。
「折角ですから、私も今日は帰ります。」
「ダメよ!ジノもルルちゃんの洗礼を受けなさい!」
「洗礼とは心外だ。微に入り細を穿って説明したつもりですよ。特に、会長の数学は。」
「だからって同じ公式の例題を幾つも作らなくて良いの!」
「三十其処等で点が取れるなら易いものです。」
「…………副会長は、責め苦って言葉を御存知かしら?」
ミレイがすっと瞳を細めて静かに言うと、威圧された先輩は大人しく口を噤んだ。
シャーリー先輩は成り行きを心配し、リヴァル先輩は面白がって見ていた。
「え…と、ミレイ…お疲れ様。大変だったみたいだし、早く帰ってゆっくり休んだら?」
「そうさせて貰うわ。ジノも手取り足取り、ちゃんと教わりなさいね。」
「例題漬けにならないようにお願いしようかな。」
「そうしなさい。手加減無しだと、あっという間に夜明けになるわよ?」
「大袈裟だ……そんな話を信じるな。」
三人が帰ると廊下は元の静けさを取り戻し、やれやれ。と先輩は苦笑を浮かべ、私を暖かな部屋に誘った。
私がコートとマフラーを脱いでいると、隣室で紅茶の用意をしていた先輩が、今日の願い事を声だけで尋ねた。
昨日の動揺は私だけなのか、まだ我が儘を叶えるつもりの様子で、咄嗟の返事に窮した。
ソファに掛けて考え込んでいると、ソーサーに載ったカップを渡され、私は一口含んで気持ちを落ち着けた。
強引に出ると躱され、遠回しだと曖昧な答えしか得られず、初恋のように甘く翻弄されてきたが、そろそろ御終いにする頃合だった。
前髪を掻き上げ、溜息混じりに、先輩。と呟くと、小首を傾げて此方を窺った。
「昨日の願いの効力は、まだ続いていますか?」
「…………昨日?」
「貴方に触れたい、と……」
言葉にすると、潤んだ濃紫の瞳を伏せて僅かに頷いた。
頤を下げたままの白皙の美貌は、出会った時から絶えず私を惹きつけた。
素気無い態度の奥底に潜む至純の優しさを知り、感情が仄かに揺らいだ。
「嫌なら拒んでください。それが、今日の願いです。」
この片恋を失うと予感して、私は先輩の軀をきつく抱き締めた。
引き寄せた柳腰を腕の中に閉じ込めると、漆黒の髪から柔らかな香りがした。
シャツの身頃を透して、赫い唇から零れる吐息を感じた。
想像していた様な抵抗は何も無く、先輩はただ黙って私の我が儘を受け容れていた。
突然の事に喫驚し、放心状態なのだろうと思ったが、掛けるべき適当な言葉など何処にも見当たらなかった。
憚られ、耳元にそっと名前を囁くと、僅かに身動ぎした。
私は束縛していた腕の力を緩めたが、先輩は依然として額を押し当てたままで、離れようとしなかった。
表情を窺い知ることの出来ない先輩が、微かに息遣いする様を静かに見守っていると、暫く経って細腕の片方を私の背に廻した。
それから、ジノ。と声がして艶やかな黒髪が傾ぎ、瞠目している私に向かって、先輩は儚げな微笑を湛えた。
「…ジノ……仕事で何かあったのか?」
先輩はもう一方の手を伸ばして私の髪を撫で、落ち着いた口調で気遣った。
私は羞恥に居た堪れなくなり、先輩の優しい視線から逃れるように俯いた。
「……折角同い年になれたのに、子供みたいに甘えて……ナイト・オブ・スリーだろう?仕様がないな…」
宥めすかして言うと、解きそびれた私の腕の中でクスと笑った。
少し背伸びをして此方を窺うと、今度は躊躇いがちに、……ジノ。と切り出した。
「人の体温は涙に効くそうだが、生憎俺は平熱が低い。上手く伝われば良いが……」
そう言って先輩は私の襟首に手を廻すと、ぎゅっと抱き締めた。
また柔らかな香りがして、私は時間という概念を直ぐにでも打ち壊してしまいたかった。
優しくされる度に倖せ過ぎて、今感じているこの温もりを失うのが、本当はずっと怖かったのだと知った。
慰めてくれる先輩の耳朶に、離さないで。と願いを告げると、頷いて一層身を寄せた。
ほっそりとした軀を抱き締め返すと、床に落ちた二つの影が歪なハートの形に見え、私はそれを瞼に強く焼き付けた。