07. kiss

夜明け前の静かな部屋でゆっくり瞬きすると、睫毛が冷たく濡れていて、悲しい夢をみたのかと記憶を探った。
日付を越えても微睡みを繰り返し、漸く眠りについたと思ったが、浅瀬を漂っただけらしい。
優しい温もりの残るベッドを出ると、身支度を整えるには随分早い時間だったが、着替えに手を伸ばした。
掛けてあった詰襟を取ると、まだ微かに移り香を留めていて、俺は羽織るのを躊躇った。



いつもの木漏れ日のような笑顔とは対照的で、焦燥に駆られて前髪を掻き上げる仕草に、少し驚いた。
嫌なら拒んでください。と言った時の憂えた眼差しを思い出し、しじまに溜息を吐いた。
初めて耳にした切ない声は本心からのもので、想いを寄せていながら、幾らも理解出来ていなかったのだと自嘲した。
拒絶する対象は行為を指していたが、まるで絶縁を望んでいるように聞こえた。
昼間とは一変した様子に、出掛けた先で何かあったのかと勘繰ったが、不安の正体を明かすことは最後まで無かった。
―――そっと瞳を閉じると、あの時の感覚が鮮やかに甦り、心拍が上擦った。
不意に抱き寄せた両腕の強さに息が詰まったが、白いシャツ越しの体温をずっと感じていたくて、促されても動転している振りをした。
他ならぬ自分が慰め役になれた事を正直に喜び、夢なら、醒めて欲しくないと思った。
偽善と非難されたとしても、我が儘な感情を抑止出来なかった。
沈黙に困惑しているのが分かり、背に腕を廻すと却って驚かせてしまった。
柔らかな金髪に触れたら、何も言わず俯いて、必要なのは言葉ではない別の何かと直感した。
自分から抱き締めるのは憚られ、それが拒絶の可能性を孕んでいる為と解すと、同じ不安を覚えただろうと思った。
離さないで。と囁く声はとても悲しげで、他のどんな言葉よりも切実に聞こえた。
頷くと大きな腕に抱き竦められて、この想いに気付いて欲しいと心から願った。





試験最終日の朝は、学生達の表情も幾分和らいで、始業前の校舎では賑やかな声さえ聞かれた。
変則的な時間割も今日までで、もう勉強会を口実に会うことは出来なかった。
中等部の学舎へ向かうロロを見送ると、登校してくる会長に会った。
そう言えば。と思い出して、生徒会室に隠された大量のホットケーキミックスの件を切り出すと、明らさまに仕舞ったという顔をした。
予想通りイベント時の発注ミスによるもので、俺は顔を顰めた。

「何故黙っていたんですか?決算すれば分かってしまう事でしょう?」
「だって………怒るじゃない…ルルーシュ…」
「当然です!一体あれだけの量をどうするつもりですか?卒業まで毎日ホットケーキを食べても、とても使い切れませんよ?」
「だったら、みんなで食べればいいじゃない!」
「は?」
「決めた!テストが終わったら、あれを使って慰労会をするわよ!みんな頑張ったんだもの、御褒美よ!!」
「え、ちょ…」
「ルルちゃんの手作りが頂けるなんて、今からとっても楽しみ!」





卵とバターと牛乳と、それから……。
考査を終えて集まったみんなは、作る側の都合などお構い無しにバラバラの注文を寄越して、俺はキッチンを右往左往していた。
前に別のケーキを作る約束をしていたアーニャが手伝ってくれ、ようやく生地をオーブンに詰め込むと、ほっと溜息が漏れた。
此処に来て直ぐにジノが政庁へ戻ったと聞き、続いていた緊張が解けて安堵したが、やがて喪失感にも似た寂しさが残った。
昨日の事が気掛かりで、一緒に焼き上がりを待っていたアーニャに、今朝の様子を尋ねた。

「普段と同じ。……スザクの分もあるから、少しは疲れているのかも……でも、大丈夫そうだった。」
「スザク?」
「……今週に入ってから風邪。すぐ無茶するからって、ジノが仕事を全部取り上げた。」
「成程、それで忙しいのか…」

得心した俺に、アーニャは小さく頭を振った。

「他にも仕事がたくさん……今夜から本国に帰って、会議。たぶん……近々、従軍することになる…」
「え……」
「これ以上は、機密事項……」

内緒。と言って、アーニャは唇の前で人差し指を立てた。
失念していたが二人とも軍の要人で、職務については格段の守秘義務を負う立場にあり、聞いた内容全てが初耳でも、当然の事だった。
一週間まともに学校に来られた事など数える程しかなく、幾つもの知らない顔を垣間見る度に、埋まらない距離感を覚えた。
それでいて、欠席が頻回なのを都合が悪いだけと片付け、戦場に立つジノの身を憂慮したことは一度もなかった。
次第によっては、あの屈託の無い笑みが永遠に失われるのだと、今更ながら思い至って戦慄した。
願い事を一日に一つと限ったのが延命策のようで、俺は残り二つを叶えて約束が果たされるのを、初めて惜しんだ。



「疲れたときには甘いもの……」

アーニャは、出来たての焼き菓子を持ち帰りたいと言った。
俺は欲しがっただけ全てを小分けにすると、ペーパーバッグに入れて彼女に手渡した。
受け取ると今度は袖口を引かれ、怪訝に窺う俺に、政庁へ一緒に行くよう求めた。
勿論固辞したが、いつかの昼食の時みたいに、アーニャは全く退かなかった。

「……ジノに会うの、嫌?」
「そういう問題じゃない。一般人の学生が用も無しに入れる場所じゃないだろう?」
「差し入れは立派なお仕事……」
「ダメだ。守衛に止められるのは、目に見えている。」
「……私が居ても?」

同じラウンズだったと思い出して口を噤むと、アーニャは僅かに顔を綻ばせた。
尚も断ろうとする俺に、私が聞いても意味が無い。と言って嘆息した。

「お菓子…美味しいって、本人に言いたいと思う。それから、……ありがとう。も…」

紅茶を飲む時は先ず浅く傾けて、仄かな蒸気越しに、伏せた金色の睫毛を震わせた。
喉元がゆっくりと上下し、風味を堪能し終えると空色の瞳を向け、ふわりと微笑を浮かべた。



会長に話すと尤もだと言い、後は請け負うから今日は戻ってくるなと、まるで厄介払いするように追い立てた。

「これも届けてあげて。忘れ物みたいなの。」

部屋を出る間際に渡されたマフラーは、あの日と同じ柔らかな手触りで、俺は大事にそれを仕舞った。





アーニャに連れられて政庁に足を踏み入れると、緊張して執務室に着くまで何も話せなかった。
誰かと擦れ違うたび、彼女は会釈を受けた。
豪華な装飾の扉を白い小さな手がノックすると、許諾の声が返ってきた。
怯まず戸を開けたアーニャは、有無を言わせぬ強引さで俺を押し込み、満足そうな顔をして立ち去った。
取り残された俺はしばらく呆然としていたが、気を取り直して恐る恐る後ろを振り向いた。
机に向かっていたジノは、羽根ペンを持ったまま喫驚し、輝石のような青い瞳は瞬きさえ忘れて此方を注視していた。

「…………先輩…?」

何か適当な言い訳を考えたが、ジノは直ぐに、アーニャでしょう?とくすくす笑って椅子を勧めた。



誰かの手を煩わせるのは気が引けて、喫茶の準備をさせようとするのを止めた。
自分で淹れたいと申し出たら、そんな冷遇は出来ないと断固反対された。

「…………折角だから、淹れてやろうと思ったんだが…」
「え?」
「俺が淹れた紅茶を、いつも美味しいと言ってくれるから、一緒にどうかと…」

きょとんとした顔をされて途端に恥ずかしくなり、視線を逸らした。
ありがとう。と優しい声のする方を見ると、ジノは右奥の扉を指して場所を知らせた。



綺麗に磨き上げられたシンクは使われた形跡がほとんど無かったが、並んだ紅茶の葉や珈琲豆の銘柄から嗜好が窺えた。
ケトルを火に掛けて一人静かに待っていると、不意に昨日の抱擁が思い出され、密かに狼狽した。
見慣れた制服とは真逆の白い騎士服は、何処か凛とした印象を与え、余計にあの時の力強い腕を意識させた。
動揺を振り払い、淹れたての紅茶を持って行くと、ジノは机に向かったまま、もう少し待って欲しいと言った。
ペンを走らせ真摯に職務に当たる姿は、休日の図書館で見たものと同じで、大人っぽいと感じた。



あの日の事を回想していたら、言付かっていたマフラーを思い出し、忘れないうちにとソファの端に置いた。
ジノは一瞥してそれと分かると、手を休めて丁寧に礼を言った。
届け物のカシミアのマフラーは、焦げ茶ともオリーヴともつかない絶妙な色合いだった。
洗練されて良く似合っていたが、もっと明るい色柄を選びそうだと思っていた。
お先にどうぞ。と紅茶を勧めてくれたジノに、それとなく話したら、本当は自分の物ではないのだと教えてくれた。

「風邪気味だったのに薄着で出掛けて、とても叱られました。年が離れている所為か、何時まで経っても子供扱いするのが不満だったのですが……。
その時貸してくれて、一度は返そうとしたものの、見事に忘れられていました。以来ずっと手元に残ってしまって、時々内緒で拝借しているんです。」

穏やかな笑みを湛えて話す様子から、その親切な相手との交際を大切にしていると感じた。
未だ見ぬ一面に触れたいと望んだが、不安や嫉妬を煽られた。
ジノの中で自分がどの位置に居るのか分からず、揺らぐ感情をひたすら隠し続けた。
願わくは、誰かに俺の話をする時も、そんな風に微笑んで欲しい。
ジノはもう一度静かに、ありがとう。と言った。



今夜から帰国すると聞いていた俺は、机上を整頓していたジノに願い事をどうするのか尋ねた。
手を止めて暫く考えていたが、色々と叶えてもらったからと辞退した。
一週間続くと思っていた密かな約束が不意に途絶え、俺は落胆の色を隠せなかった。

「…………本当に良いのか?」
「はい。幾つも我が儘を言われて、困ったでしょう?名前で呼ばせて貰えただけで、とても嬉しかった。」
「それくらい、誕生日でなくても……」
「他にも、夜遅くに掛けた電話に出てくれたし、寒い日に一緒に勉強も。美味しい昼食も頂きました。それから、手を繋いで……。」

記憶を一つ一つ辿りながら、ジノは慈しむように青い瞳を僅かに伏せたが、直ぐに表情を曇らせた。

「……昨日は、……随分驚かせてしまいました。本当に申し訳ない。」
「何故謝るんだ?」
「行き詰っていたとはいえ、あんな事をすべきでは無かった。先輩だって、困惑した筈です。」

ジノは机に両肘を突いて顔を覆うと、ごめんなさい。と小さな声で言った。
指の間から瞼を強く閉じている様子が見え、心底後悔しているのだと思った。
此方こそ済まなかったと伝えたら、はっとして指を解いた。

「……俺も同じ事をした。」
「いいえ、先輩は何も悪くありません。どうか謝らないで下さい。ああせざるを得なかっただけです。」
「お前は、嫌なら拒めと言った。願いを叶えたつもりだが、喜ばれなかったのか?」
「そんなことは……」

肘を突いたままの大きな右手で口元を隠し、眩しい光を見るように目を細めた。
もう一度今日の願い事を聞くと、ジノはゆっくりと瞬きして、観念したようにクスと笑った。



ジノが書類を片付けながら考えている間、俺は先に紅茶の風味を楽しんでいた。

「大抵の事は叶えて貰ったので、……そうですね……手を繋いで、抱き締めたら、普通はキスかな?」
「っ…ごほっ……」

噎せると、ジノは整頓する手を休めず、冗談です。と淡々とした口調で返した。
喉の奥の空咳がなかなか止まず、涙目になった。

「今までの事を思い出すと、図らずも恋人になる手順みたいだったので、つい……。先輩が拒否権を行使されないので、勘違いしそうになります。」
「毎日願いを叶えろと言わなかったか?」
「心中複雑ですが、是非お願いします。」

片付けを終えたジノは、くすくす笑って俺の隣に腰掛けた。
淹れてやった紅茶を一口飲むと、いつもの柔らかな笑みを浮かべて、美味しいと言った。



優雅な喫茶の様子を眺めていたら、カップをテーブルに置いて此方を窺った。

「拒まないんですか?」
「…え?」
「キス。」

窮して沈黙すると、ジノの重心が少し傾き、ソファの軋る音が微かに聞こえた。
伏せ気味の澄んだ瞳がゆっくりと近付き、思わず瞼をきつく閉じた。
―――――――――。
…………………………?
ゆるゆると目を開けると、悪戯を嗜めるような、ちょっと困った顔が映った。
肩透かしを食って怪訝に思っていたら、ジノがふっと溜息を吐いた。

「言葉にしないと、誤解されますよ?」

警戒して怯えている風に見えたらしく、返事が出来ないでいる俺を気遣う素振りで、髪にキスを落とした。
優しいくちづけに、誤解ではない。と言ってしまいたかった。

「今日の願い事は、これで御終いです。」

頬でも額でもなかった事が、二人の距離なのだと思うと遣る瀬無かった。
ジノの言葉を了承する意味で頷いて、そのまま視線を上げられず、俯いた。

「…………先輩。」
「…………何だ?」
「ごめんなさい。少し、悪戯が過ぎました。」

今度は怒っていると思われたのか、叱られた仔犬のような顔をされて、つい頬が緩んだ。
それこそ誤解だと、柔らかな金色の髪を撫でようしたら、身を躱して伸ばしかけた手を掴まれた。
動揺した刹那、ジノは五指を絡めて緩く引き寄せ、俺の親指の腹にそっとキスをした。





最後の願いは明晩に伝えると約束して、ジノは本国へ旅立った。
俺は冬の夜空を仰ぎ、違わず帰って来ることを静かに祈った。