08. truth

前回と同時刻に本国へと発ち、私は夜空を越えて、その日の午後まで時間を遡った。
乾燥した冷たい北風が時折吹いたが、澄んだ蒼穹は久し振りの小春日和を帝都にもたらした。
私はトリスタンの整備を任せると、執務室に寄って簡単な湯浴みを済ませ、いつもの純白の制服に着替えた。
身支度を整えると、予め配布されていた資料に再度目を通し、先の戦線との相違点を分析して会議に備えた。
頁を繰る手元に日溜りの暖かさを感じ、私はほんの一時だけ、遠くの人を想った。
ファイリングされた書類を全て読み終えると、銀時計の針が戦略会議の開始間近に迫っていた。
廊下を行き交う人々の気配が慌しくなり、私はマントを羽織ると早々に部屋を後にした。



案内された大会議室には、各軍種の幹部を始め、普段は各国に散らばって滅多に揃わない他のラウンズ達も集結していた。
スザクだけは総督補佐の任務を優先するよう命じられて臨席しなかったが、総力戦を思わせる顔触れに室内は緊張感が漂った。
援軍を要請してきた同盟国が騒乱の元である属領の割譲を申し入れ、陛下がこれを受諾した瞬間から、我々が戦争の肩代わりをすることになった。
軍事力では圧倒的に有利だが、今般の眼目は不穏分子の掃討よりも、様子見をしている国側との協議だった。
下命を拝したナイト・オブ・ワンの勝ち方次第では、属領と言わず本土ごと配下に置く見通しと、誰もが解していた。
会議では援軍を三隊編成にすることが了承され、私はアーニャと共に最終隊の引率を指示された。
とは言え、明かされた作戦内容では先発隊の指揮をヴァルトシュタイン卿自らが執り、私達は謂わば予備軍に終始するのが濃厚だった。



散会した時は既に夕刻を過ぎていたが、円卓の騎士達はいつものようにラウンジに集って、喫茶を楽しんでいた。
私は遅れて加わったナイト・オブ・ワンから、意図的に戦線から遠ざけたと打ち明けられ、愕然とした。
非礼と承知で力量不足かと尋ねると、彼は、まさか。と笑って私の憂いを払拭した。

「去年も同じ時期に任務に就いてもらった。今年のクリスマスは、是非家族と過ごして欲しいと思ったのだが……」
「そんな……、ヴァルトシュタイン卿…!」
「誕生日プレゼントになるかな?」

父親のような優しい眼差しを向けられ、私は配慮に感激すると同時に面映さを覚え、我ながら呆れる程の辿々しい口調で謝辞を述べた。
彼は心技体の全てに於いて騎士の鏡であり、我々ラウンズを統率する最良の上官だった。

「会議の時から気になっていたが、少し顔色が悪い。疲れが溜まっていないか?」
「私も、心配になってずっと窺っていました。お加減が宜しくないのでしょう?」

ヴァルトシュタイン卿に続いてトゥエルヴのモニカも指摘し、居合わせた他の騎士達も同意見と言わんばかりに、私に注目した。
私はすっかり狼狽して、そんなに酷いか?と小声で右隣に聞くと、軽い咳払いで肯定された。
恐らく時差の所為だろうと答えても、皆は得心せずに私の体調を慮った。
パイロットスーツから着替える時には気付かなかったが、余程悪いのかと思い、両手で顔を擦った。
実の処は、最近になって熟睡出来ない日が続き、ベッドに入ってもなかなか疲労感が抜け切らなかった。

「………参ったな。」
「嘘は上手に吐くものだ。」

横から聞こえた密やかな忠告に苦笑して、私は温かい紅茶を一口飲んだ。





夕食の為に本宅に戻ると、週に二度も顔が見られたと言って、母は大層喜んだ。
大方の予想通り、クリスマスの件を話した時は、感嘆の声を上げたきり言葉を無くしてしまった。
私は上の兄達よりもずっと後に産まれた為に、母を始め家族から深い愛情を受けて育ったが、溺愛と言うには多少意味合いが異なった。
軍籍に身を置くと決めた時、猛反対を覚悟していた私に、彼女はただ一言、愛しているわ。と静かに告げた。
その言葉に報いようと精励した結果ラウンズの地位を得たが、平穏だった母の毎日に絶えず不安の影を落とした。
安否を気遣い、悲報に接する心構えを余儀なくされた家族は、共に過ごす時間を何時も惜しんだ。
帰り際に母はいつも私の額にくちづけ、貴い微笑を湛えて見送った。
同じ様にこの後姿を眺める優しい面影を想い、私は胸の内が微かに細波立つのを感じた。





執務室に戻ると、戦場となる同盟国の地形を仔細に確認し、作戦のシミュレートに没頭した。
凡そ満足してディスプレイの電源を落とす頃には、時刻も夜半に差し掛かっていた。
私は取り出した懐中時計を机上に置き、頬杖を突いて酷使し続けた瞳をゆっくりと瞬かせた。
彼方は一時限目の授業が始まる頃で、学園の賑やかな日常風景に溶け込む先輩の姿を思い浮かべた。



昨日は突然の訪問にとても驚いたが、前の晩の事が気に掛かっていただけに、正直嬉しかった。
普段と変わらない態度に救われたものの、理由も言わずに抱き寄せたのは、紳士の嗜みにもとる行為だったと後悔していた。
あんな風に縋り付かれれば、突き放せない人だと知っていながら、律する余裕を無くすほど切羽詰っていた。
細腕の優しさは、燻る恋情に身を焦がす私を甘く誘惑した。
抱き締め返してくれたのは慰めだと、強く言い聞かせなければ、危うく立ち位置を錯覚しそうになった。
我が儘を何処まで赦すつもりでいるのか、くちづける素振りに黒い睫毛を慄かせ、それでも頤を逸らさなかった。
想いを言葉にしてしまえば今の関係が壊れるのは明白で、動揺させ苦しめるだけと、淡い期待を掻き消した。
髪に唇を落とすと僅かに肩先が震え、私は一番大切な言葉を封じる為に、細い指にそっとくちづけた。





翌朝、ナイト・オブ・ワンが部下と共に敵情視察へ発つのを他のラウンズ達と見送って、私はトリスタンに騎乗した。
目標の高度に達した後、機体が安定したのを確かめると、自動操縦に切り替えた。
普段は余程疲労困憊していない限りグリップを離さないのだが、約束した最後の願いを考える時間が欲しかった。
腕組みすると流石に睡眠不足を痛感して、昨日の同僚達の心配顔が思い出された。
上手に嘘を吐くのは容易無いと、私はそのままシートに凭れて、束の間瞳を閉じた。



身体が引き摺り下ろされる様な感覚がして、私は目を醒ました。
モニター越しの空は夜に向っていたが、計器が指す数値に異常は無く、気の所為かと安堵の溜息を吐いた処だった。

『…タ…と………い…』

インターカムから聞こえる途切れがちな声に緊張を覚え、私は直ぐに応答したが、音声は返ってこなかった。
緊急回線を繋いだが管制官は出ず、他のチャンネルも同様に無反応だった。
通信障害だけなら大した問題では無いと思っていたが、唐突にオート機能が解除され機体は徐々に降下し始めた。
私は操縦桿を握り締めたが、トリスタンは左へ旋回したものの機首を上げず、このまま行けば海上に叩きつけられるのは時間の問題だった。
脱出を試みるべきかと躊躇したものの、どんな時でもパイロットは冷静に。と教え込まれた私は、別な方法を選んだ。
急いで出力を調整していると、今度は鮮明な音声が耳元に届き、その声に郷愁を感じて思わず笑みが零れた。

『トリスタン、応答せよ。こちらパーシヴァル。繰り返す……トリスタン、応答せよ。』
「こちらトリスタン。最後に通信できて光栄だ、ブラッドリー卿。」

成功した。と短い一言が周囲に伝えられると、管制官達のざわめきが聞こえた。
耳を傾けて人々の言葉を拾うと、どうやら遠隔操作が行えず、大変な騒ぎに発展しているらしかった。

『領空侵犯で撃墜されたくなければ、直ちに座標を確認し、軌道を修正しろ。』
「卿…大変言い難いのだが、実は操縦不能でもう直ぐ墜落する。」
『スリーの空席など認めん。程度は兎も角、トリスタンの異変は承知している。機体を領土内に戻したら、トゥエルヴの到着を待て。』
「三十秒後にブリタニア領に入るが、残念ながらトゥエルヴには会えそうにない。私の目算では、その二分後に螺旋を描きながら海に墜ちる。」

いつもの淡々とした口調が却って緊迫感を削ぎ、唇を覆ったもののクスと笑い声が漏れ、卿は不機嫌そうに沈黙した。
管制室からは当然、脱出を勧告する声が上がった。
私は現在の通信手段がこのパーシヴァルに限定された事を僥倖に思い、インカムに向かって、着水すると告げた。

「計器の一部が誤作動を起こしている。申し訳ないが、レーダーから消えて三分経過したら、声を掛けてくれないか。」
『…………了解した。ヴァインベルグ卿、生還を約束してもらうぞ。』

旋回を止めて機首を正すと、トリスタンは重力に従って真っ直ぐに海面を目指して降下していった。
衝撃に備える私の視界を景色が加速度的に流れ、その延長に、紫色の瞳が残像のように瞼を掠めた。










精密検査を受けていたらすっかり遅くなってしまい、車を降りると足早にクラブハウスを目指した。
時計の針は午後十一時を過ぎた処で、学生が出歩くには少々不謹慎な時間帯だったが、部屋には未だ灯りが点されていた。
私は羽織っていたマントを脱いで、建物の脇に植えられた木を駆け上がると、バルコニーに向かって伸びる枝先から静かに着地した。



窓に触れると約束どおり鍵は掛けられておらず、私は細心してそっと蝶番を開いた。
ピーター・パンみたいだと二人でくすくす笑ったのを思い出し、夢の国へ攫うなら、今がその時かもしれなかった。
先輩はベッドに浅く腰掛け、膝の上で両手を握り合わせて、深く項垂れていた。
胸騒ぎを覚えて室内に足を踏み入れたが、神聖な祈りにも似た姿に憚られ、窓辺に佇んで沈黙を守った。
華奢な軀を震わせて、密やかに愁嘆しているのだと気付いた私は、静寂を残して踵を返そうとした。

…………ジノ…。

完璧に気配を絶っていた私は喫驚して振り向いたが、下向き加減はそのままだった。
もう一度耳を澄ますと、内隠しの銀時計が心拍のように秒針を響かせ、私はこれの聞き違えと判じた。
鼓膜を透過したか細い声の幻は、深い憂いに満ちていて、そんな風に呼ばれた記憶は一度も無かった。
動揺を思って束の間逡巡したが、耳朶に触れた悲しみの余韻を手繰り寄せ、私はそっと囁きを口にした。

「…………ルルーシュ…」

繊細な肩口が僅かに跳ね、一驚した白皙の美貌は言葉を失って、神秘的な朝焼け色の瞳を瞬かせた。
私は窓際を離れて静かに傍まで寄ると、その足元に跪き、ただいま。と微笑んで帰還を告げた。

「…………ジノ?」
「先輩、睫毛が濡れています……何かあったの?」
「ジ…ノ…………」
「大丈夫。気持ちが落ち着くまで待ちますから、慌てないで。」
「……ジ…………」
「…………はい。」
「…ジ……ノ……」
「ルルーシュ……」

たった一つの呪文のように、何度も私の名前を繰り返した。
人肌の温もりが涙に効くと言っていたのを思い出し、躊躇いつつ両腕を広げると、細身が素直にくずおれた。
此処にいます。と漆黒の髪に耳打ちすると、小さく小さく頷いた。



途切れがちな先輩の話を繋げると、アーニャから航空事故に遭遇して生死不明と聞かされ、ずっと連絡を待っていたらしい。
最悪の事態を想定していた処に往訪してしまった模様で、成程それは言葉も出ない筈と微苦笑した。
未だ無事が信じられないのか、制服の襟元を掴んだ細指はそのまま、子供みたいな上目遣いで此方を窺っていた。
あの時とは逆の立場になり、感情が静まるように滑らかな後ろ髪を梳くと、額をこつんと私の胸に預けた。

「アーニャから……敢えて脱出しなかったと聞いた。どうして、そんな無茶を……」

来る迄に散々似たような質問を受けていたので、尤もらしい言い訳なら幾らでも言えた。
不具合は致し方無かったが、機体の性能と自分の腕を試すには絶好の機会だった。
脱出した処で破損は免れないし、大海のど真ん中にコックピットごと投げ出されるよりは命が保証された筈だ。
隣国とは友好関係にあったが、救助された後の身柄の引渡しも煩わしかったし、最新鋭の技術が詰まったトリスタンを弄られるのも御免だった。
言うなれば、エース・パイロットとしての意地なのだが、それを見抜いた同僚以外には、当然内緒の話だ。
嘘は上手に吐くものらしいので、先輩には通用しないと諦めて、正直に理由を明かすことにした。

「生存率の高い方を選択しただけですが、本音としては、自分の技量を見極める為です。」

髪を撫でながら答えると、秀麗な面差しを上げて、技量?と不思議そうに小首を傾げた。
腕の中で大人しく寄り掛かる先輩は、涙に濡れていた所為か声が少し擦れて、いつもより余計に掻き立てられた。

「墜落すると分かった時、私には大切なものがあって、それを失えば命そのものが意味を成さなくなると思った。失敗すれば代償は大きかったが、だか らこそ、あの瞬間に、命に見合うだけのものがあるのか確かめたかった。向こう見ずと承知の上でした。貴方をそんな風に悲しませるとも知らず…申し訳なかっ た。」
「……俺は、お前の安否が確認出来ずに、……三時間以上も…ただ携帯を握り締めて…」
「ご心配をお掛けしました。……ごめんなさい。」
「万が一の事を思って……最後の願いを叶えずに、このまま…終わってしまうのかと…」
「…………ルルーシュ…」
「……離さないで。と、言われていた…のに、」

ゆっくりと話していたが、疲れを感じたのか溜息を吐いてそのまま俯き、もう一度、額を制服の胸に押し当てた。
絹糸のような髪に指を通すと、ほっそりとした首筋をふるりと竦めた。

「墜ちる寸前、貴方を想いました。死を厭えばこそ、より真摯に生を渇仰すると知った。逢うと約束していなければ、別の手段を講じたでしょう。」
「戻ったら最後の願いを伝えると、言った…」
「叶えてくださいますか?」
「……勿論だ。」

細腰に廻していた腕を解くと、惜しむ様に儚げな表情を浮かべた。
失礼。と断ってから、私は銀無垢の懐中時計を取り出して、そっと内蓋を開いた。

「二つの針が重なるまで、一緒に居て欲しいのですが……」
「十二時まで?あと七、八分しか……」
「もう間も無く、同い年が終わってしまいます。いろいろと無理をお願いしましたが、たくさん我が儘を叶えて頂いて、とても幸福な一週間でした。」
「……命懸けで生還したのに、たったそれだけの願いなのか?」

何処か拗ねた様な口振りが可愛くて、私はもう一度柳腰を静かに抱き寄せた。
淡い雫の光を残した瞳が揺らめいたが、見詰め返すと微かに身動ぎして含羞んだ。

「貴方の傍に居られるだけで、倖せです。」

秘めた感情は、総てこの真実に帰着した。
薄ら氷を壊さない様に細心して、ようやく辿り着いた唯一の言葉は、深みを帯びた響きになった。



ジノ。と柔らかな声で呼び、私の腕に凭れていた先輩はゆっくりと軀を起こした。
神秘的な眼差しは随分落ち着きを取り戻した風だったが、珍しく口にし掛けた言葉を飲み込んだ。
花弁を思わせる赫い唇に耳を傾けたものの、暫くは秒針が刻まれる音しか聞かれなかった。
長針が数歩前進した頃、ジノ。と躊躇いがちに囁いた。

「昨日…指にしたキスと今の言葉は、同じ意味……なのか?」

くちづけた指を大事そうに両手で包んで、仄かな羞恥を湛えた面差しに、私の心は決壊しそうだった。
今なら赦されるのかと期待に胸が高鳴ったが、逡巡して咄嗟に返事が出来なかった。

「俺の……誤解、だったのか……?」

短い沈黙を否定と受け止めたらしく、先輩は気落ちした様子で下顎を俯けた。
私は緩く開かれた右手の親指の内を撫ぜて、そっと秘密の在り処を教えた。

「一番大切な言葉は、此処に封印してしました。」
「……え…?」

微笑むと、先輩は反芻する様に細い指の同じ場所にくちづけて、白い耳元に宛がった。
黒い睫毛の隙間から覗く高貴な紫色が、隠れた言葉に思いを巡らせ瞬いた。

「……残念ながら、上手く解けなかったらしい。」

魔法の指を灯りに翳して呟くと、見惚れていた私に繊手を伸ばし、もう一度。と強請った。
無邪気な仕草に戸惑いながらも、記憶と違わず五指を絡めると、微かな震えが伝わった。

「ジノ……今度は、別の…場所に……」

虚勢に気付かぬ素振りで、甘く誘惑する唇を引き寄せたのは、日付が変わる間際だった。