遠ざかる端正な後姿を眺めていたルキアーノは、コツコツと近付いてくる軍靴の響きに、閉じ掛けた蝶番を片腕で止めた。
朝日に包まれた大理石造りの先で、二人は擦れ違いに優雅な会釈を交わし、頤を正した若草色の人影が、佇む彼の気配を察した。
空き部屋を挟んだ隣の執務室へと、心做し速まった歩調に外衣の裾が翻り、純白の騎士服をちらり覗かせた。
「おはようございます、ブラッドリー卿。」
清涼感溢れる声で言葉を掛けたものの、支度途中と思しき相手を憚り、足早に行き過ぎようとした。
掻き上げただけの髪は朝陽を浴して煌めき、普段は燕尾に隠される黒い中着が、男性的なシルエットを意識させた。
「……トゥエルヴ…」
始業前の些か早過ぎる登庁を訝しがり、小さな囁きが零れた。
忽ち空気に溶け込んだ艶やかな低音は、甘美な罠となって黒い長靴の爪先を引き寄せた。
少女の豊かな金髪から稚い寝姿を想い起こし、ルキアーノは輝く一房にするりと指を絡めた。
「早朝出勤とは殊勝な心掛けだ…」
「…あの……卿…?」
気怠げに眩い髪先を弄りつつ、戯れを甘受する円卓の末席の様子に、内心首を傾げた。
密やかな片恋を抱いていた彼女は、桜色に頬を染めて口籠もり、上目遣いに相手を窺った。
精悍な下顎を逸らす仕草で腰細を招き入れ、ルキアーノは押し止めていた戸からそっと腕を離した。
閉ざす微かな軋りに躊躇う女性を、木目の美しい扉に両腕を突いて囲った。
喫驚したモニカ=クルシェフスキーは咄嗟に声を失い、マホガニーの質感を背に受けつつ、胸元で繊手をきつく握り合わせた。
長身を屈めて勝気な鼻先をゆっくりと近付け、二人の唇が重なるほんの間際で静止すると、彼は小さく震える華奢な軀に瞳を細めた。
「如何やら、未だ夢から覚醒し切れていないらしい。」
「……え?」
「激昂して、平手打ちの一発でも喰らうと思ったが…」
憧れたくちづけを俯いて躱した彼女は、微睡みならば続きを期待しても赦されるだろうかと、切ない動悸に耳を澄ませた。
やれやれ。と溜息混じりに前髪を梳き、彼は甘やかな檻を解いて、ナイト・オブ・トゥエルヴに早出の訳を尋ねた。
昨日の欠勤を理由に挙げられ、腕組みして記憶を手繰り寄せたが、余りの繁忙さに、不在と気付く暇すら無かった。
「少々御疲れでは?」
定時終業後に廊下を通る度、彼女は夜遅く迄消灯の気配の無い二つ隣で足を止め、重厚な隔ての先を何時も憂えた。
ルキアーノは労苦を慰める言葉に肩を竦めたが、心優しい同輩を眺め一時考え込むと、清楚な手を引いて部屋の奥へと進んだ。
春色の羽織がふわり床に落ちても、大きな掌の温もりを拒めなかった。
心は細波立ち、迷わず閨室の真鍮を回そうとする彼に狼狽して、小声で呼び掛けた。
淡色の瞳が肩越しに振り返り、翻意に期待を寄せたものの、立てた人差し指を唇に当てて見せ、そっと開扉した。
恋愛作法も弁えぬ強引な誘惑に、大人しく付き随う彼女が、伏せた睫毛を薄らと滲ませていようとは、毫も気付いていなかった。
夜の名残に一足踏み込むと、彼は繋いだ儘の手を引き戻し、女性のたおやかな肢体を腕に抱き止め、細心して仕切りを閉じた。
数歩の距離さえ靴音を気遣い、息を潜めて犯し難い静謐へ分け入った。
第十席の慎重さを怪訝に思った彼女は、広い背中の先を怖ず怖ずと窺い、上質なリンネルから垣間見えた白皙の項に瞠目した。
誰かと一夜を共にした褥に招かれるなど、思いも寄らなかった。
錯覚と頭を振りたくとも、黄金色の髪は神々しいほど美しく、敷布に埋められた秀麗な面立ちを想像し、深い羞恥を覚えた。
彼にとって特別な存在たり得ないと自覚していながら、それでも望んだ自身の浅慮だと、薄紅色の唇を噛んだ。
動揺を察したかの様に、一対だった二人の手が離された。
彼はベッドの下端に浅く腰掛けると、ひとつ溜息を吐いて逡巡を振り払い、やさしい肌触りの掛け布をそろと捲った。
戸惑いつつも、一挙一動を見守っていたモニカ=クルシェフスキーは、露にされた後姿の意想外な幼さに愕然とした。
同輩として交際する限り、特段、嗜好を勘繰るような素振りは認められなかった。
無意識的に口許を覆った彼女の前で、ほっそりとした背骨の優美な曲線が外気に身動ぎし、ふんわり寝返りを打った。
開けた胸元に末席の瞳は釘付けになり、年端も行かぬ少年と夜伽した事実を、如何様に解釈すべきか柳眉を寄せた。
金の絹糸から覗くまるい頬は淡雪を想わせ、蠱惑的な桜桃の唇に図らずも見惚れたが、ふと他人の空似かと小首を傾げた。
「……まさか、ヴァインベルグ卿…の?」
第三席を預かる騎士が、名立たる家柄の末子と聞き及んでいた彼女は、近親の間柄と見当をつけ、小声で彼に尋ねた。
ルキアーノは頤を左右に振って、あどけない額に掛かる前髪をはらりと梳き、本人だ。と静かに返した。
俄かには信じ難い言葉だったが、戯れに興じる状況には程遠く、目の前の現実を了解する尤もな一言だった。
混乱から身を強張らせる彼女に、落ち着いた語り口で、事の次第が明かされた。
二人が歳の離れた昔馴染みとは広く知られる処であり、睦まじい姿は、円卓の騎士達を何時も和ませた。
親密さに嫉妬しては自己嫌悪に苛まれ続け、近頃漸う素直に受け容れられる迄になった彼女の心に、新たな波紋が広がった。
仔細に触れないよう憚りながらも、添い臥しの経緯を質すと、子供の時分からだ。と彼は穏やかな微笑を湛えた。
「感情が氾濫しそうになると、此方の都合も御構い無しに這入って来る。今となっては流石に慣れたが…」
「人肌が恋しくなるのでしょうか?」
「さて…?」
言葉とは裏腹に、長い指先で頬を撫でる彼の横顔は、貴い慈愛に満ちていた。
細波立っていた心が凪ぐと、彼女は幸福な朝寝のひと時を、静かに見守った。