彼女は理知的な騎士であったが、微かに上下するリンネルを窺っては、稚い寝姿に目許を綻ばせた。
しなやかな体躯も然る事ながら、瑞々しい雪肌に映える艶やかな蜜色の髪、小高い鼻梁、魅惑的な薄桃の唇―――。
宰相たる第二皇子を始め、数多の貴紳達が片恋に胸焦がしたとの逸話を思い出し、罪作りな可憐さに嘆息を漏らした。
総じて冷淡さの際立つ第十席が、“仔猫”の綽名で呼び掛けて深い寵愛を滲ませる度、複雑な心境に陥った彼女は、漸う道理を弁えた。
「帝国最強の騎士が幼児返りなど、三文小説。開発者には、相応の責任を負ってもらう。」
「ブラッドリー卿、女性に手荒な事は……」
「諸悪の根源は上官だ。」
「アスプルンド伯爵?」
「某殿下の御学友…其の誼か、天才的な頭脳は、本職以外にも資する処が大きいらしい。」
「まさか、シュナイゼル様が密かに御命令を…?ですが、戦果華々しいヴァインベルグ卿を何故?」
「姦計に嵌められたとは考え難いが…経緯は兎も角、復す手立てを早急に打たせる。」
苛立ちを含んだ口調で告げると、彼は寝台を軋らせぬ様にそっと立ち上がり、直ちに旗艦へ赴こうと足を踏み出した。
昔日の第三席が、極度に人見知りする小公子と聞き及んでいたモニカ=クルシェフスキーは、留守を託されて途方に暮れた。
「目醒めたら、知らない場所で初対面の大人と二人きりだなんて…、きっと混乱しますわ。」
「私達が既に出逢っているのかも微妙だ。年恰好は近しいが、記憶が九つの晩夏以前なら、初顔合わせが増えるだけの事。」
「一体、何と説明すれば宜しいのかしら…?」
「適当に遇え。拙ければ、泣く。」
「そんな!!」
素気無い返事に思わず戸惑いの声を上げ、彼女ははっと口許を覆った。
ルキアーノはくすり笑みを零すと、気怠るげに身動ぎする少年の耳翼に唇を寄せ、優しく覚醒を促した。
甘い囁きが鼓膜をくすぐり、長い睫毛を微細に震わせた。
やがて俯けた瞼が薄らと開き、花に留まった蝶を想わせる優雅な瞬きで、蒼穹の瞳に歳上の幼馴染を映した。
少年は、ルキアーノ…?と無垢な微笑を湛え、小さな楓でまるい目を擦りつつ、ゆっくりと起き上がった。
「……お茶会の途中だった筈なのに…僕、眠ってしまったの?」
変声期を迎える前の透明な響きに、運命的な邂逅を遂げた後と了解し、彼は安堵の胸を撫で下ろした。
背伸ばしする幼い子供を端で捉えながら、翻ってこの現状を、如何説いて聞かせようかと思案に耽った。
寝起きの少年は、着崩れた身頃の合わないシャツを弄り、ほっそりとした小首を傾げて怪訝な表情を浮かべた。
同じ衣服を纏った年の離れた親朋を、ちらと上目遣いし、見慣れた筈の愁いを帯びた横顔が、幾分大人びた印象へと変貌している事実に気付いた。
躊躇いがちに辺りを窺うと、数歩離れた場所に楚々と佇む女性の姿を認め、狼狽して掛け布を胸元に手繰り寄せた。
露な寝覚めの不行儀さに頬染め、騎士の袖口を軽く引いて、此処は何処?と縋るような小声で尋ねた。
輝石にも似た清純な瞳に、逡巡した下手な誤魔化しを諦めて、噛み砕いた言葉で実情を語った。
俄かには信じ難い話を幾度も反芻していたが、今の儘では家族の許へ帰れない旨を添えると、じわり煌きを湛えて唇を噛んだ。
「ルキアーノは、傍に居てくれる…?」
「極力。」
溜息混じりに即答し、子供の細くやわらかな金髪を梳いて宥めた。
少年は大人の手に自身の幼い其れをそっと重ね、一刹那瞼を閉じて不安を遣り過ごすと、ひとつ頷いて了承した。
当事者に事訳を明かした処で、ロイド=アスプルンドが在籍するキャメロットへと、早々にも出掛ける心積もりで立ち上がった。
幼友達の遣り取りを見守っていたナイト・オブ・トゥエルヴは、逸る彼を慌てて引き留め、壁掛け時計を指差した。
針は始業開始のおよそ二時間前の時刻を示し、夜勤に当たっている数名のクルーが残っているだけと、控えめな助言で諌めた。
ルキアーノは忌々しげに舌打ちして携帯電話を取り出し、ラウンズ専用回線経由で、機関主任者の緊急ダイヤルに繋いだ。
やがて、受話器越しに間延びした声が、呑気に朝の挨拶をした。
悠長な口振りを無視して、部下共々に半時以内の出勤を要請すると、渋る相手の事情には耳を貸さず、一方的に回線を断った。
表情を曇らせていた少年は、切られる間際に漏れ聞こえた当惑の様子に小さく吹き出し、同輩もふわりと頬を緩ませた。
十番目の騎士は肩を竦め、着替えが済んだら食事だ。と言って、幼い客人をバスルームへと案内した。
大人しくソファに腰掛けた少年の後ろ髪を結いつつ、ルキアーノは滑らかな指通りを堪能した。
応接の為に配されたテーブルには、執事が用意した二人分の朝食が並べられ、急拵えの食卓が漸う整った。
稚い第三席は、紅茶茶碗に琥珀色を注ぐ見知らぬ女性を戸惑い気味に窺い、幼馴染に密々と仲立ちを求めた。
純白の燕尾服から、帝国最強を誇る円卓の騎士と了解したが、彼は彼女を席次で呼び、他人行儀な空気が猶更少年を緊張させた。
億劫そうに片眉を上げ、ナイト・オブ・トゥエルヴだ。と素っ気無い橋渡しをすると、白皙の頬を膨らませて外方を向いた。
拗ねる素振りにくすりと笑みを零した彼女は、温かな紅茶を含羞む少年の手許に置き、優しい声で自己紹介をした。
「申し遅れて仕舞いましたね。私は円卓十二番目の騎士、モニカ=クルシェフスキー。どうぞ御見知り置きを…ヴァインベルグ卿。」
「え?……ヴァインベルグ…卿?」
実父に対して用いられる敬称に、名家の末子はきょとんと大きな瞳を瞬いた。
数年先の将来像を明かせば、一層の混乱を招くと判断したルキアーノは、相応の紳士になっている。とだけ耳打ちした。
「………クルシェフスキー卿……如何か、“ジノ”と名前(ファースト・ネーム)で御呼びを…」
少年は面映ゆがり、消え入りそうな声でナイト・オブ・トゥエルヴに願い出た。
彼が第三席を拝した最初の年の瀬、残務整理を手伝う口実に、彼女の方から名前呼びを強請った。
若輩との謙遜から、ジノは円卓の騎士達を皆敬称で呼び馴らしたが、十番目の騎士だけは卿付けが素直に馴染まず、同僚達は名呼びする場面を度々見掛けた。
其れは大抵、二人が幼馴染の顔に戻って他愛のない話に興じている時で、筆頭騎士に倣い、誰しもがささやかな寛ぎを温かく見守った。
ルキアーノ=ブラッドリーは部下に限り呼び捨てたが、同輩達については席次で呼ぶ事が殆どで、稀に敬称付けを用いた。
彼にとって相手の顔と名を記憶するなど、極めて些末事と解釈していた周囲は、平然と呼び掛ける意味深な二つ名に喫驚した。
モニカは一つ年下の騎士に名呼びされる事で、他では決して聞かれない甘美な響きの余韻を、密かに追い求めた。
せがまれた格好のジノは、初めのうちこそ躊躇いがちだったが、やがて親しみを込めて彼女の名前を口にするようになった。
願いを聞き入れて貰ったものの、自らは相変わらず堅苦しい呼び名を使い、彼が示した親切に如何応えるべきか、二の足を踏んだ。
心底に潜む偽らざる嫉妬と羨望を認め、彼女は何時も人知れず溜息を吐いた。
心配そうに此方を見詰める少年に、私の事も名前(ファースト・ネーム)で呼んでくださるなら。と、モニカは悪戯好きな少女の様に瞳を眇めた。
急な大人扱いを解かれて小さな胸を撫で下ろすと、ジノは恥じらいながらも、彼女に感謝の気持ちを伝えた。
短い言葉から、数年後に在っても損なわれる事の無い純真さを感じ取り、末席の騎士はちらりと彼の右隣を窺った。
肘掛けに頬杖を突き、穏やかな朝のひとときに羽根を休める少年の幼馴染が、やわらかな微笑を湛えていた。