今日は、ナイト・オブ・フォーと一緒に、ふわふわのシフォンケーキを焼くと約束した日。
午後のお茶会が開かれる部屋の奥、甘酸っぱい香りが漂うキッチンを覗くと、ピーリングナイフを持つ手を止めて、にっこり笑った。
作り掛けのグレープフルーツ・ジュレは、定時終業できない他の騎士達への差し入れで、手渡される何人かを想像して、……ちょっとだけ羨ましい。
親切なエルンスト卿の、此れが終わるまで待って貰えるかな?というお願いにこくりと頷き、私はその場を離れた。
普段はラウンジの壁際に寄せてあるソファが、ほぼ直角に動かされ、フランス窓から差し込む春の陽射しを独占していた。
日溜りでキラキラ輝く黄金色の後ろ髪に近付こうとすると、気配を感じて振り返り、唇の前で立てた人差しで、しぃ。と言葉を封じた。
ジノがごめんねの顔をした理由が分からなくて、静かに傍まで歩み寄った私は、その隣に横たわって寛ぐ騎士の姿を認め、少し頬を緩めた。
腕で顔を覆ったブラッドリー卿が、本当に微睡んでいるのかは疑問だったけれど、夕方に組まれた会議で使う資料が、制服の胸で小さく上下していた。
戦地に赴けば、ブリタニアの吸血鬼と綽名されるほど冷酷非情に徹する卿にとって、ジノが止まり木のような存在と知ったのは、結構前の事。
二人が歳の離れた昔馴染みでなかったら、獰猛な野生動物にも似たナイト・オブ・テンが、斯うして寝姿を人目に曝すなど、先ず有り得ない話だった。
巡り会えた僥倖に見入っていたら、座る?と小声で尋ねられたけれど、ソファに余裕なんて全然無くて、私は返事に困ってしまった。
素直に頷くと、綺麗な青空色の瞳がふんわり微笑んで、ルキアーノ…。と優しくブラッドリー卿を揺り起こした。
腕の下から覗いた不機嫌そうな顰め面に一言断って、ジノは卿の橙色の頭を、よいしょ。と持ち上げ、自分の膝の上にそろりと載せた。
「……………………何の真似だ?」
「何って、膝枕を知らないのか?」
怪訝そうに問い返されたブラッドリー卿は、苦々しげに舌打ちし、硬い。と文句を言って顔を背けた。
丁度ひと一人分の空間が出来、私は勧められるまま其処に腰掛けて、機嫌を損ねた騎士の様子を窺った。
ブラッドリー卿は、レジュメに目を落とすジノの制服の端を気怠げに弄っていたけれど、そのうち飽きて小さな欠伸を噛み殺した。
降り注ぐ春光の眩しさを避けて、整った精悍な顔立ちを内側に向けると、直ぐ傍の白いベストの裾に鼻先を埋め、ゆっくりと瞼を閉じた。
子供みたいな可愛い仕草も、半分隠れた寝顔も、全部記録……してしまいたい処を、我慢。
ジノは私の自粛を察した様子で、両手の親指と人差し指で長方形を作ると、其処からブラッドリー卿をじっと眺めた。
心で記憶するんだよ。って、前にも教えてくれたけど、その時は、あまり意味が分からなかった。
真似て作った小さなファインダーを向けると、ジノはちょっと含羞んで、読み掛けた資料の頁を、一枚そっと捲った。
暫く観察して、窓越しの光から卿の目許を庇う為に、手にした用紙の角度を加減しているのに気付き、二人の穏やかな時間の流れを感じた。
退屈凌ぎに開いていた携帯電話を仕舞い、ひとつ背伸ばしした私に、アーニャも寝る?と、やわらかな小声。
うららかな陽射しは、お昼寝するには最適で、ブラッドリー卿の規則正しい呼吸が羨ましくもあり、こくりと返事をした。
膝枕は出来ない代わりに、寄り掛かって良いよ。と、密々声で親切な申し出を受けて、少し気持ちが揺らいだ。
わざわざ資料を持ち替えて空けてくれた右腕に、躊躇い気味に身体の重心を傾けると、何も言わずに抱き寄せられた。
ジノは特別気にする素振りも無く、平然と紙の上の文字を目で追い、私は密かな溜息と一緒に、全身の強張りをそっと緩めた。
こんな風に無意識の言動で吃驚させられる度に、知らない他の誰かにも、同じ事をしている筈。と、上手に割り切れなくて、困惑した。
そういう場面に遭遇したとして、自分がほっとするのか、それとも……妬きもちを焼くのか、予想出来なかった。
朧な感情に名前をつけるのは、とても面倒で苦手だけれど、後でエルンスト卿に話してみようかな……。
幼い子を寝かしつける親のように、大きな手がゆっくり髪を撫で、私はふわり優しい微笑みを期待して、眠りに誘われた。
遠くから談笑する声が聞こえて目醒めると、既に喫茶の時間は中盤に差し掛かっていた。
ブラッドリー卿は席について、優雅に午後の紅茶を楽しんでいたけれど、ジノは其の儘の体勢で傍に居てくれた。
凭れていた右腕を心配に思いつつ、小さく御礼を言ったら、またどうぞ。と太陽みたいな笑顔が返ってきた。
次は其処。と御言葉に甘えて膝を指すと、不思議そうに青い瞳を瞬かせ、その様子を見た十番目の騎士が、クククと肩を揺すって笑った。
傾げた下顎に手を添えて悩みだしたので、指定席なら交渉相手を間違えたかも…と窺っていたら、寝心地は御勧め出来ないよ?と含羞んだ。
私はひとつ頷いて、髪に移った仄かな森林の香りを、大切に記憶に留めた。