スザク―――。
耳馴染んだ声と遠くから駆け寄ってくる足音に、自然と顔が綻ぶのを感じて、僕は咳払いする振りで口許を覆った。
振り返らなくても、暖かなお日様みたいに笑っている君が瞼に浮かんで、歩く速度がどんどん落ちていく。
もう一度……今度は直ぐ傍から名前を呼ばれ、僕はゆっくり見上げた右隣にほっと気を緩め、ほらね。と密かに呟いた。
ジノは託った書類を手渡すと、内容を簡潔に補足し、不明な点はクルシェフスキー卿に尋ねるように言い置いて、足早に行き過ぎた。
僕は数歩進んだ処で立ち止まり、纏った深緑の裾を軽やかに翻す姿を、束の間見送った。
ナイト・オブ・セブンに叙任せられた当時、円卓の騎士達の間には、既に穏やかな雰囲気が完成され、僕は少なからず二の足を踏んだ。
実力主義の統治下で、ナンバーズを蔑むのは国是にも等しく、固く忠誠を誓っても、軍内に於ける名誉ブリタニア人は殊更劣悪な待遇を強いられた。
勝者の代名詞ともいえる最強の騎士団が、敗者の烙印を押された新参者を疎外するのは、寧ろ想定の範囲内でいた僕に、彼らは極めて紳士的な応対をした。
ヴァルトシュタイン卿以外は誰も拝命の経緯を知らず、また穿鑿も受けなかった為に、親密さには幾分欠けたけれども、不即不離の関係を築く事が出来た。
円卓の筆頭騎士にのみ許された特権で、日本を解放する大願を成就させるには、実に申し分のない環境で、僕はひたすら職務に専念した。
第三席を預かるジノだけは、何彼に付け声を掛けては素直に関心を示し、虚勢を張り続けてきた心を揺さ振った。
僕は最初、属領となった亡国最後の首相の子という出自や、一兵卒から成り上がった背景が、歳の近さと相俟って、彼の興味をそそったのだろうと考えた。
二人が此れ迄辿ってきた道程は余りに違い過ぎ、黒い仮面の男……ゼロが誕生しなければ、遠い雲の上の人。と憧れる存在で終わる筈だった。
帝都に名だたる家柄の四男として、何不自由の無い暮らしの中で、家族から深い愛情を受け、周囲の期待と羨望を集めてきた半生だと想像した。
明朗快活で礼儀正しく、女性に親切で、時折大人っぽい仕草を見せる反面、少し甘えん坊な処もあり、愛される人間の模範と言っても過言ではなかった。
アーニャが名を連ねる以前は、彼が円卓の最年少騎士だった。
人柄も然る事ながら、ひとたび愛機に騎乗すれば、優れた技量で他を圧倒し、実質的には次席同様の処遇を受けるジノの将来を、誰もが有望視した。
僕は密かに好敵手意識を燃やしたが、殊更彼を隔てた最大の要因は、なまじ友情を信頼したばかりに、手酷く裏切られた直後だったからだ。
ユフィ……。
自己否定の繰り返しの中で生きてきた僕に、そっと手を差し伸べてくれた優しい女性を、幼馴染でもある唯一の友の手によって、永遠に奪われた。
そんな筈は無いと何度も打ち消した疑惑を、仮面に撃ち込んだ銃弾が真実と証明した時、僕は運命に絶望した。
眩い微笑みを向ける彼が、ブラッドリー卿と家族同然の永い交際を続けていると耳にし、背信に傷つけば良いとさえ思った。
皇帝陛下にルルーシュを差し出した僕にとって、仲良しごっこは暇潰しにすらならないと、胸の内で言下に切り捨てた。
僕は円卓の騎士達全員を尊称付けで呼び、丁寧な言葉遣いを用いて距離を取り、率先して戦局へ赴き、共有する時間を可能な限り減らした。
調整が追いつかない。と厭な顔をするロイドさんを無視して、ランスロットを酷使し続けた結果、昨日の戦闘で中破し、整備に回されてしまった。
暫く遠ざかっていたデスクワークに悪戦苦闘していると、等間隔に執務室の扉を叩く音が響き、僕は羽根ペンを持ったまま深呼吸して応じた。
開かれた戸の先には、深緑のマントを羽織ったナイト・オブ・スリーがにっこりと佇んでいて、即席の笑顔で何とか平静を装い、用件を伺った。
彼は休憩を挟むよう進言し、毎日決まった時間に行われる、騎士達の午後の紅茶に僕を誘った。
今迄にも何度か参加した事があったものの、輪の中に馴染んだ振りで談笑するのは、なかなか億劫で、辞退を申し出た。
返事を聞くなり、彼は落雷に直撃されたかの様に微笑を凍りつかせ、つかつかと僕の席まで回り込むと、作業途中の書類に目を遣った。
徒ならぬ雰囲気を怪訝に思い、眉宇を寄せた表情を下からそっと覗き込んでいたら、矢継ぎ早に質問が飛んできた。
「枢木卿、この書類の提出期限は?」
「え?あの…月末ですが……?」
「未だ半月の猶予が残っているな。他に、手持ちの仕事はあるか?」
「いえ、今の処は何も……」
「結構。失礼だが、何処か加減でも悪いのか?」
「至って健康です。ヴァインベルグ卿、一体如何なされたんですか?」
何故かほっとした表情の彼に、少し苛立ちを滲ませた声で真意を問い質すと、グローブを嵌めた大きな手で両肩を掴まれた。
普段の徹底した礼儀作法は何処へやら、余りに懸け離れた行動に、僕は非難するのも忘れて、ただただ狼狽していた。
「卿…我々は、下命を拝すれば、直ちに戦乱に身を投じねばならない立場。本当に、心残りは無いのか?」
「……は?」
「明日をも知れぬ命……エルンスト卿の手作りを頂戴出来ないまま、儚く散ってしまうなんて、私には受け容れ難い最期だ。」
「…最期?」
「本日のおやつは、特別にお願いした白桃のタルト……絶対、後悔するぞ?!」
「……………………えっと…」
彼の眼差しは真剣そのもので、両肩に置いた手にぎゅっと力を籠め、再考を強く促した。
儚く散る…ってさ、言葉は綺麗だけど、縁起でもない事をさらりと言わないで貰いたいな―――なんて思った僕は、堪え切れずに噴出してしまった。
不思議そうに瞬く澄んだ青空色の瞳に、降参して参加表明をすると、忽ちお花畑みたいな笑顔を浮かべて、絶品だぞ。とウィンクした。
退室しようとする後姿を見届けながら、何だか調子が狂うな…と密かに苦笑を零すと、思い掛けず彼が振り返った。
先程まで悪戯っ子のように輝いていた瞳が、穏やかな微笑みを湛え、歳は僕の方が一つ上なのに、面映さを覚えた。
「素敵な笑顔を見せて頂いた御礼に、ひとつ助言を。もしや卿は、“ヴ”の発音が苦手かな?」
「あ。……申し訳ありません。生まれ育った地域にはない響きで、御呼びする時はいつも緊張していました。御不快な思いをなさっていたのですね…」
「ジノ。」
「え…?」
「実は私も、幾らか戸惑いながら話していた。枢木卿……“ル”が重なっている所為か、早口だと舌を噛んでしまいそうだ。」
彼は矢張り大真面目な顔をして、くる…る、ぎ、く…るる、ぎ?と念仏みたいに人の苗字を声に出しては、悩ましげに首を傾げた。
僕はまたも腹を抱え、息も絶え絶えに、名前でどうぞ。と提案をすると、真新しい言葉を確かめる様に、スザク。と呟いた。
受け取った資料を執務室に持ち帰り、僕は自分の席から、壁掛け時計の針をちらりと確認した。
あと小一時間程で、午後の紅茶。
今日はどんな御菓子が振舞われるのだろう。と頬を緩ませつつ、最初の頁をそっと捲った。