約束の時間には未だ程遠いというのに、何処か人待ち顔で歩く姿は、舞い散る小雪のように儚く見えた。
そのまま手の届かない場所へ行ってしまいそうで、声を掛けずにはいられなかった。
人見知りや物怖じする様子は無かったものの、普段から自身については多くを語ろうとはしなかった。
秘密主義だと誤魔化されたが、相手の話にそっと耳を傾ける真摯な態度が印象的で、一層惹き付けられた。
後輩という立場からも深追いするのは憚られ、平行線を辿る毎日を送った。
控え目で慎ましい一面に接する機会も多々あったが、程なく話題の矛先を巧みに躱しているのに気付いた。
私は、素知らぬ顔をし続けた。
その後、人伝に複雑な家庭環境にあると聞き、自分の選択にほっと胸を撫で下ろした。
周囲に対する遠慮と警戒は、兄としての気概の表れでもあったのだったのだろう。
直接話してくれたのは、もう暫くしてからの事で、ありがとう。と言うと、同じ言葉を返された。
出会った当初は、私の出自や職種を理由に敬遠され、名前で呼んで貰えるまでには随分な廻り道を経てきた。
そんな二人の距離を、僅かでも埋められた気がして、ただ素直に嬉しかった。
繊細な人だと思えばこそ、隣で過ごす時間を何よりも大切にした。
たった一つの年の差だけで、いつも優しく甘やかされては、切なさで胸を焦がした。
手を繋いでくれたのは、年下の我が儘を赦してくれる余裕からで、期待してはいけないと戒めつつも、握り締めた。
華奢な指先はとても冷たく、ほんの少し加減を誤れば、粉々に砕けてしまう薄ら氷を想わせた。
離せば二度と逢えなくなりそうな気がして、下から順にゆっくり絡め、体温と一緒に伝わるようにと願った。
冬休みの校庭は人影もまばらで、遠くから響く微かなピアノの音色にじっと耳を澄ませた。
祈るように瞳を閉じて、その歌曲の題目を、心の奥で何度も囁いた。
ずっとそのままで居たかったが、生徒会室の前まで来ると、私はわざと咳き込む振りをして、絡めた指を解いた。
心配そうに覗き込む紫色の瞳に、気が咎めていながら密かな歓喜を覚えた。
大丈夫だと笑顔で伝えて扉を開くと、既に集まっていたみんなに温かく迎え入れられ、直ぐに柔らかな表情を浮かべた。
コートを脱いだ先輩は、他に気付かれないよう、そっと手袋の片方を返した。
私は甘いひと時の名残を惜しみ、もう一方と重ね合わせて、外套の隠しに仕舞った。
ミレイ達と近況を語り合っていると、淹れ立ての紅茶を差し出して、先輩は私の左隣に座った。
誰かが決めた訳でもないのに、いつからか自然に其処を指定席として選んだ。
手元からは湯気とともに深い香りが漂い、私は感謝の言葉を口にして、静かにカップを傾けた。
きちんと手順を守って淹れたと分かる絶妙な味わいに、美味しい。と思わず零せば、長い睫毛を伏せて含羞んだ。
「ずるいわ、ジノだけなんて!」
「これはその……来る時に助けてもらった謝礼の意味で、ずるいとかそう言う事では無くて、純粋に」
「え?!何かあったの、ルル?」
「い…や、そんな大事では……」
「無いのに、淹れてあげたって言うの?ルルちゃん……だとしたら、それこそ特別扱いじゃなくて?」
「とくべ…つ?」
「ルルーシュってさぁ、意外と抜けてるよなぁ。毎回こういう展開になるんだったら、最初からみんなの分を用意すれば良いじゃん。」
「抜け……?リヴァル、今の言葉は聞き捨てならないぞ!大体、全員に同じ事をしたら謝意が伝わらないだろう?!」
三対一では流石に分が悪いようで、先輩はみんなの非難を受けて釈明に追われた。
問題の紅茶を頂くのは憚られ、私はカップとソーサーを手にしたまま、隣で上級生四人の白熱する遣り取りを大人しく見守っていた。
「あのね、ルル……たぶん、なんだけど……ジノ君には、伝わってないと思うよ…」
「何?!」
「そりゃそうよ!黙って渡されただけじゃ、普通は分かる筈無いわ。」
「お前、そういうの苦手みたいだけど、ちゃんと声に出して言うのも大切だぜ?気持ちなんて、簡単に相手に伝わるものじゃないんだし。」
いつもの軽やかな口調で告げられた真理に、居合わせた全員が束の間切なげな表情を見せた。
彼らもきっと、想いを寄せる誰かのことで、胸を締め付けられるような経験を持っているのだろう。
掌の琥珀色が彼流の謝辞だと心得ていた私は、此方を振り返った先輩に、一度だけゆっくりと瞼を閉じてその旨を知らせた。
目配せが通じた証拠に、揺らめいていた瞳が穏やかさを取り戻したが、周囲に促される形で、小さく私の名を呼んだ。
「ジノ……。さっきは、その…………」
ありがとう。と続けた声は消え入りそうな程か細く、淡く染まった頬を隠すように視線を落とした。
三人はその初々しいに態度に満足した様子で、にっこりと顔を見合わせた。
「それで、良し!やれば出来るじゃん、ルルーシュ。」
「会長、私達も飛び切り美味しいお茶を淹れましょう!」
「賛成だわ。勿論、ゴールデン・ルールでね!!」
そう言って立ち上がったミレイは、俯いたままの先輩を一瞥して首を竦めた。
リヴァル先輩は顔の前で両手を合わせ、私に片目を閉じて見せると、彼女達の背を押してキッチンへと入って行った。
やがて聞こえてきた賑やかしい音と笑い声に、先輩は溜息をひとつ吐いて緊張を解いた。
白い繊手の端に緩く小指を絡めると、肩先が微かに動揺を示したが、気丈にも頤を振り向けることはしなかった。
先輩。との呼び掛けに、そばだてる気配で返事の代わりとした。
「いつでも、よろこんで。」
黒髪に隠された耳朶に唇を近づけ、そっと想いを囁いた。